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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第1章 騎士団長編

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第91話 呼び方の問題です

 ――帝国暦三二〇年・冬初め ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 第七騎士団 本庁・執務室――朝。


 いつも通りの空気の、はずだった。


 机の上には、今日も書類がある。


 レオンはそれを見ていた。


 エリシアは横で処理順を確認している。


 リリアは少し離れたところで、昨日より少しだけ落ち着かない顔をしていた。


 クリスは椅子に座り、机に肘をついている。


 ダリオ副官は書類の束を眺めていた。


 ミナはいつも通り、少し楽しそうに周囲を見ている。


 その横で。


 メリーが書類を一枚差し出した。


「お兄様、こちらは確認済みです」


 さらりと。


 あまりにも自然に、そう言った。


 空気が、一瞬だけ止まる。


 レオンは書類を受け取った。


 特に驚かない。


 ただ、短く返す。


「分かった」


 そのまま内容に目を通す。


 メリーも当然のように次の書類を整えた。


 本人たちの間では、何の問題もないように見えた。だが、周囲はそうではない。


 クリスが机に肘をついたまま、顔をしかめる。


「で?」


 率直だった。


「なんで職場でも“お兄様”なんだよ」


 メリーは書類から目を上げない。


「昔からです」


 短く。


 それだけ。


 クリスが眉を寄せる。


「いや、説明になってねえ」


 少し身を乗り出す。


「ちゃんと教えろよ」


 メリーが視線を向ける。


 一瞬、表情が消える。


「必要ありません」


 冷たく。


 クリスが止まる。


「……いや急に冷たくない?」


 ぼそり。


 メリーは視線を外した。


 もう相手にしていない。


 ダリオ副官が笑う。


「分かりやすいな」


 軽く言う。


 ミナがくすりと笑った。


「差、露骨すぎる」


 クリスは納得していない顔のまま、レオンを見る。


「おい、レオン」


「何だ」


「何だじゃねえよ。お兄様って呼ばれてるぞ」


「聞こえている」


「聞こえてるなら反応しろよ」


「昔かららしい」


「らしい、で済ませるな」


 レオンは書類から目を離さない。


「職務に支障が出なければいい」


「いや、出るだろ。少なくとも俺の気が散る」


「お前の気が散るのは元々だ、俺の問題じゃない」


「ひどくないか?」


 クリスが半眼になる。


 メリーは淡々と書類を整えている。

 その顔は、まったく動じていない。


 リリアは、そのやり取りを聞きながら、少しだけ視線を落としていた。


 お兄様。


 その呼び方は、昨日から耳に残っている。


 父も母も知っていた。

 レオンも、途中で思い出していた。


 自分も昔、メリーと会っていたらしい。

 遊んだこともあったらしい。


 けれど、自分は覚えていなかった。


 その事実が、まだ胸の奥に残っていた。


 クリスがさらに口を開こうとした時だった。


 レオンが書類を閉じる。


「少し席を外す」


 短く言う。


「急ぎの確認が来たら、机の右側に置いておけ」


「承知しました」


 エリシアが答える。


 メリーもすぐに顔を上げた。


「お兄様、確認書類は机の右側にまとめてあります」


「分かった」


「追加分が来た場合は、こちらで整理しておきます」


「ああ」


 レオンはそれだけ答え、立ち上がる。


 そのまま執務室を出て行った。


 扉が閉まる。


 静かになった。


 だが、静かになったからこそ、さっきの呼称が余計に残った。


 クリスが椅子にもたれる。


「なんか話が違う気がする」


 ぼそりと呟く。


 ダリオ副官が肩をすくめた。


「何の話が違うんだ?」


「補佐官って聞いてたんだよ」


「補佐官だろ」


「そうなんだけどさ。お兄様って呼ぶ補佐官だとは聞いてねえ」


 ミナが笑いをこらえる。


「確かに、説明不足ね」


「だろ?」


 クリスが頷く。


 メリーは何も言わない。


 ただ、書類を整えている。


 まるで自分の話ではないような顔だった。


 エリシアは一度メリーを見る。


 それから、リリアへ視線を向けた。


 リリアはその視線に気づく。


 エリシアは小さく目配せした。


 この場で大きく聞く内容ではない。

 そう判断したのだ。


 リリアも、小さく頷いた。


 二人は執務室の端へ移動する。


 書架の近く。


 机から少し離れた場所だった。


 他の者たちには聞こえない程度の声で、エリシアが口を開く。


「リリアさん」


「はい?」


「昨日、屋敷で何かあったのですか?」


 問い方は静かだった。


 責めるものではない。


 ただ、確認だった。


 リリアは少しだけ迷った。


 それから、小さく答える。


「メリーさんは、昔からヴァイス家と縁があったそうです」


「昔から、ですか」


「はい」


 リリアは頷く。


「幼い頃、屋敷に来ていたそうです。お父様も、お母様もご存じでした」


 少しだけ、声が小さくなる。


「お兄様も、最初から覚えていたわけではないようですが、途中で思い出していたそうです」


「なるほど」


 エリシアは静かに頷いた。


「だから、屋敷へ連れて行ったのですね」


「はい。普通は、補佐官を屋敷へ連れて行きませんから」


 リリアは少しだけ目を伏せた。


「それに、メリーさんは昔から、お兄様をそう呼んでいたそうです」


「お兄様、と」


「はい」


 エリシアは、少しだけ息を吐いた。


「事情は分かりました」


「私は……」


 リリアは言いかけて、少し止まる。


「私も、昔、メリーさんと会っていたらしいのです」


「リリアさんもですか」


「はい。遊んだこともあるそうです」


 リリアは指先を重ねた。


「ですが、私は覚えていませんでした」


 小さい声だった。


「メリーさんの方が年上ですし、私はもっと幼かったので、仕方ないとは言われました」


「そうでしょうね」


 エリシアは静かに答える。


「幼い頃のことを、全て覚えている方が難しいです」


「はい」


「ですが、気になっているのですね」


 リリアは少しだけ黙る。


 それから、小さく頷いた。


「はい」


 正直な返事だった。


「お父様も、お母様も、お兄様も、メリーさんを知っていました」


「私だけが、初めて会った相手のように挨拶をしてしまって」


 そこで、言葉が止まる。


 エリシアはすぐには返さなかった。


 少しだけ間を置く。


「それは、リリアさんのせいではありません」


「……はい」


「ですが、気になるものは気になりますね」


 リリアは、少し驚いたようにエリシアを見る。


 エリシアは、表情を変えない。


 ただ、声だけが少し柔らかかった。


「事情は理解しました」


「ありがとうございます」


「ただし」


 エリシアは、少しだけ視線をメリーへ向ける。


「職務中の呼称は、別です」


 リリアもそちらを見る。


 メリーは、相変わらず書類を整えていた。


 クリスが何かを言い、ダリオ副官が笑っている。


 ミナも肩を震わせていた。


 その中心にいるメリーだけが、涼しい顔をしている。


「お兄様、と呼ぶ事情は分かりました」


 エリシアは静かに言う。


「ですが、ここは執務室です」


「はい」


「職務中は、公私を分けるべきです」


 リリアもそちらを見る。


 メリーは、相変わらず書類を整えていた。


 クリスが何かを言い、ダリオ副官が笑っている。


 ミナも肩を震わせていた。


 その中心にいるメリーだけが、涼しい顔をしている。


 二人は机の方へ戻る。


 エリシアが口を開いた。


「メリー」


 静かに呼ぶ。


 一瞬で空気が締まる。


 メリーが顔を上げた。


「はい」


「事情は確認しました」


 エリシアは淡々と言った。


「昔からヴァイス家と縁があり、幼い頃からその呼び方をしていたことも理解しました」


「ありがとうございます」


「ですが、ここは執務室です」


 声が少しだけ強くなる。


「職務中は、公私を混同しないようにしてください」


 メリーが視線を向ける。


「……問題ありません」


 にこやかに。


「お兄様はお兄様ですので」


 そのまま言う。


 クリスが吹き出した。


「いや問題あるだろ」


 ダリオ副官が肩を震わせる。


 ミナが顔を伏せる。


 エリシアは表情を変えない。


「職務上の場では、団長と呼びなさい」


 短く強く。


 メリーがわずかに眉を寄せる。


「ですが」


「規律です」


 重ねる。


 空気が止まる。


 メリーは黙る。


 少しだけ考える。


「……承知しました」


 小さく視線を落とす。


 そして。


「団長」


 言い直す。


 空気が緩む。


 その中で、リリアだけが少しだけ固まっていた。


「……あの」


 小さく手を上げる。


 エリシアが振り向いた。


「どうしましたか、リリアさん」


「職務中は、団長と呼ぶべきなのですよね」


「はい」


 エリシアは当然のように頷いた。


「職務中は、公私を分けるべきです」


 リリアは少しだけ視線を泳がせた。


「では、私も……」


 一瞬、言いづらそうにする。


「お兄様ではなく、団長とお呼びした方がよろしいのでしょうか」


 その場が、また微妙に止まった。


 クリスが口元を押さえる。


 ダリオ副官が視線を逸らす。


 ミナが肩を震わせた。


 エリシアは、少しも迷わなかった。


「はい」


「……はい」


 リリアの肩が、ほんの少し落ちる。


 エリシアは静かに続けた。


「リリアさんが団長の妹君であることは、皆が承知しています」


「ですが、ここは執務室です」


「職務中は、団長とお呼びください」


 リリアは少しだけ沈んだ顔で頷いた。


「分かりました」


 それから、小さく言い直す。


「……団長」


 言い慣れない呼び方だった。


 本人も、少し困っているようだった。


 クリスが耐えきれずに顔を背ける。


「いや、リリアまで巻き込まれたぞ」


 ミナが肩を震わせる。


「真面目に受け取っちゃったわね」


 メリーが、にこやかなまま言った。


「では、リリアさんも同じということで」


「メリー」


 エリシアが静かに呼ぶ。


 メリーはすぐに口を閉じた。


「……承知しました」


 クリスがぼそりと言う。


「今のちょっと負けたな」


 ダリオ副官が頷く。


「珍しいな」


 ミナが笑う。


「でもちゃんと従うのね」


 メリーは何も言わない。


 すぐに書類に戻る。


 その時、扉が開いた。


 レオンが戻ってきた。


 少し席を外していただけのはずだったが、戻ってきた瞬間、空気の妙な硬さに気づく。


「何だ」


 短く聞く。


 クリスが口を開きかけたが、その前にリリアが小さく言った。


「お兄様」


 そして、少しだけ迷う。


「……いえ、団長」


 レオンの眉がわずかに動いた。


「何だ、それは」


 リリアは困ったように視線を落とす。


「職務中は、公私を分けるべきだと」


 エリシアが静かに頭を下げた。


「私が申し上げました」


「そうか」


 レオンは短く答える。


 怒ってはいない。

 ただ、少しだけ面倒そうに息を吐いた。


「俺は呼び方など気にしない」


 リリアが顔を上げる。


 メリーも、わずかに視線を向けた。


「好きに呼べ」


 あっさりと。


 いつも通りだった。


 リリアの表情が少しだけ明るくなる。

 メリーも、にこやかに微笑んだ。


「ですが」


 エリシアが静かに言う。


 その声に、リリアの動きが止まる。


「職務中は、立場を明確にする必要があります」


「団長が気にされなくても、周囲が混乱します」


 レオンはエリシアを見る。


 少しの間。


 それから、短く頷いた。


「それもそうだな」


 リリアが、また少しだけ困った顔になる。


 レオンは視線を戻した。


「なら、職務上必要な時だけ団長と呼べ」


「それ以外は好きにしろ」


「……はい」


 リリアは小さく頷いた。


 ほっとしたような。


 まだ少し惜しいような顔だった。


 メリーが、にこやかに口を開く。


「承知しました、お兄様」


 エリシアの視線が即座に向く。


 メリーは少しだけ間を置いた。


 そして、にこやかなまま言い直す。


「……団長」


 クリスが耐えきれずに吹き出した。


「今、完全にお兄様って言っただろ」


「訂正しました」


「そういう問題か?」


「通常対応です」


「通常対応の意味が広すぎるんだよ」


 レオンは一度、全員を見る。


 そして、短く言った。


「仕事に戻れ」


「はい」


 エリシアが答える。


 リリアも小さく頷いた。


「はい、団長」


 言ってから。


 少しだけ、口元を引き結ぶ。


 まだ慣れていない。


 メリーは書類を整える。


 ふと、顔を上げる。


 にこやかに。


「お兄様、こちらが次の確認書類です」


 言ってから。


 エリシアの視線が向く前に、メリーはすぐに続けた。


「……団長」


 クリスが机に突っ伏した。


「もう最初から団長って言えよ!」


「訂正しています」


「だからそういう問題じゃねえんだよ」


 ダリオ副官が笑う。


 ミナが肩を震わせる。


 リリアは困ったようにしながらも、少しだけ安心した顔をしていた。


 ただ、空気だけが。


 少しだけ、またずれた。


 クリスが椅子にもたれた。


「やっぱり、なんか話が違う気がする件」


 誰も否定しなかった。


 メリーだけが、何事もなかったように書類を整えていた。

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