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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第1章 騎士団長編

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第90話 知っていた

 ――帝国暦三二〇年・冬初め ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 ヴァイス邸・応接室――午後。


 穏やかな空気が流れていた。


 紅茶の香りが、静かに広がっている。


 レオンは座っていた。


 向かいには父と母。


 そして、その隣に。


 メリエラがいる。


 メリエラは姿勢を正し、深く一礼した。


「……お久しぶりです」


 穏やかな声だった。


 一瞬だけ。

 様子を見るように、間を置く。


 それから、改めて名乗った。


「統合管理官補佐、メリエラ・エイゼンです」


 父が目を細めた。


「……エイゼン、か」


 短い沈黙。


 それから、父はゆっくりと頷いた。


「久しいな」


 母が柔らかく笑う。


「随分、大きくなったのね」


 メリエラは少しだけ戸惑ったように目を伏せる。


「……はい」


 小さく答えた。


 レオンは、そのやり取りを黙って聞いていた。


 驚きはない。


 ここへ連れてくる前に、もう確認していた。


 総騎士団本庁から来た、小柄な補佐官。


 メリエラ・エイゼン。


 やたらと仕事が早く、総庁の流れに詳しく、レオンに対する距離だけが妙に近い。


 そして。


 ヴァルド総長が言っていた。


 使える補佐官を送る、と。


 だから、途中で確認を入れた。


 あの爺が、自分の孫を補佐につけてきたのか、と。


 そこで、レオンも思い出した。


 昔。


 ヴァイス邸に来ていた、小さな黒髪の少女。


 父と母が、家の縁だと言っていた相手。


 自分の後ろを、妙に静かについてきていた子供。


 名前まではすぐに出てこなかったが、顔の輪郭と声が重なった。


 だから、連れてきた。ただの補佐官なら、わざわざ屋敷へ連れてきたりはしない。


 だが、昔からヴァイス家と縁のある相手なら話は別だった。


「レオン」


 父が言う。


「お前も、思い出していたのか」


「はい」


 レオンは短く答えた。


「途中で」


「そうか」


 父は苦笑した。


「総長も、妙なことをする」


「あの爺が妙なことをしない方が珍しい」


 レオンは淡々と言った。


 母が困ったように笑う。


「昔は、よく一緒にいたものね」


「そうだったな」


 レオンはメリエラを見る。


「お前だったか」


「はい」


 メリエラは、にこやかに笑った。


 それは、執務室で見せる事務的な笑顔とは少し違っていた。


 どこか、懐かしそうだった。


「気づいていただけていたのですね」


「総長に確認した」


「そうでしたか」


「普通は、補佐官を屋敷には連れてこない」


「はい」


 メリエラは少しだけ嬉しそうに目を伏せた。


「ありがとうございます」


 父が目を細める。


「そういえば、あの頃はよく来ていたな」


 母が頷く。


「ええ、よく一緒に――」


 言葉が続きかけて、止まる。


 一瞬の間。


 メリエラが、少しだけ視線を落とした。


「……そうでしたね」


 軽く言う。


 それから、顔を上げる。


 ごく自然に。


 レオンへ向けて言った。


「お兄様」


 一瞬、空気が止まる。


 レオンは何も言わない。


 ただ、視線だけがわずかに動いた。


 父は、懐かしそうに目を細める。


 母は、少し困ったように笑った。


「昔は、よくそう呼んでいたものね」


「はい」


 メリエラは穏やかに頷いた。


「許していただいていましたので」


 レオンは止めなかった。


 受け入れるとも言わない。


 ただ、昔の記憶を少しだけ整理するように、黙っていた。


 ■隣室


 その声を、リリアは聞いた。


 足が止まる。


 応接室へ向かう途中だった。


 父と母に呼ばれたわけではない。


 ただ、レオンが屋敷に戻っていると聞いて、顔を出そうと思っただけだった。


 けれど。


 扉の向こうから聞こえた声で、足が動かなくなった。


 お兄様。


 そう呼んだのは、自分ではない。


 メリエラだった。


 リリアは扉を見る。


 すぐに開けることができなかった。


 中の声だけが、続く。


「昔は、そう呼んでいたものね」


 母の声。


「はい」


 メリエラの声。


「許していただいていましたので」


 リリアの指先が、わずかに動いた。


 昔。


 そう呼んでいた。


 許してもらっていた。


 つまり、父も母も知っている。


 レオンも、止めない。


 誰も、初めて聞いた声ではない反応だった。リリアだけが、知らなかった。


 いや。


 知らなかったのか。

 覚えていなかったのか。


 それすら分からなかった。


 扉の向こうで、父の声がする。


「リリアは覚えていないかもしれんな」


「幼かったもの」


 母が静かに言った。


「ええ」


 メリエラが穏やかに答える。


「先日も、初めてお会いした時のようにご挨拶をいただきましたので」


 責めている声ではなかった。


 ただ、事実を言っただけの声だった。


 それなのに。


 リリアの胸に、小さく刺さった。


 初めて会った時のように。


 自分は、そう挨拶した。


 覚えていなかったから。

 知らなかったから。


 父も母も知っている。

 レオンも思い出していた。


 メリエラは覚えていた。


 少なくとも、その場で置いていかれているのは自分だけだった。


 リリアは、一度だけ息を吸った。


 それから、静かに扉を開ける。


 ■応接室


 全員の視線が向く。


 リリアは立っていた。


 部屋の中を見る。


 父。


 母。


 レオン。


 そして、メリエラ。


 誰も、メリエラがそこにいることを不思議には思っていない。


 この家の人間たちは、メリエラを知っていた。


「……今のは」


 リリアが静かに言う。


 声は強くない。


 だが、わずかに揺れていた。


 メリエラがリリアを見る。


 表情は変わらない。


「昔からそう呼んでいましたので」


 淡々と。


 リリアの呼吸が、わずかに止まる。


「……そうですか」


 小さい声だった。


 それだけで、すぐには何も続けられない。


 父が苦笑した。


「覚えていなかったか?」


「昔からの縁だ」


 それだけだった。


 母も穏やかに頷く。


「ええ、よく一緒に過ごしていたのよ」


 リリアは何も言わない。


 ただ、その場に立っている。


 レオンは変わらない。


 ただ一言。


「リリア、座れ」


 短く。


 それだけだった。


 リリアは、ゆっくりと頷く。


「……はい」


 席に着く。


 何も言わないまま。


 メリエラが、ふと顔を上げる。


 視線がリリアに向く。


 にこやかなまま。


「……思い出しました?」


 穏やかに。


 一瞬、リリアの動きがわずかに止まる。


 しかし。


「……いえ」


 小さく、それだけ答える。


「申し訳ありません」


 静かに付け加える。


 メリエラは首を横に振った。


「問題ありません、仕方ないですもの」


 短く答える。


「かなり昔のことですから」


 父が軽く咳払いをする。


「リリアは幼かったからな」


 母も静かに頷いた。


「覚えていなくても無理はないわ」


 その言葉は、リリアを庇うものだった。


 けれど、リリアの表情は晴れない。


 紅茶の香りだけが、静かに残っていた。

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