第89話 残る灯り
――帝国暦三二〇年・冬初め ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 第七騎士団 本庁・執務室――夜。
庁舎の灯りは、ほとんど落ちていた。
ひとつだけ。
残っている。
第七騎士団、団長執務室。
中で、レオンとメリエラが向かい合っていた。
「第六騎士団の予算申請、こちらで確認分を通しました」
メリエラが言う。
「早いな」
レオンは書類から目を上げない。
「話が通りやすかったので」
にこやかに。
それから、すぐ次の紙を差し出す。
「次は第十の再編案です」
紙が、机の上に置かれる。
「重複している箇所はこちらです」
メリエラは迷わず指で示した。
「削るなら、ここです」
レオンが目を通す。
「理由は?」
「重複です」
メリエラは淡々と答える。
「同じ確認が、別の系統で二度行われています」
「維持する意味がありません」
レオンはしばらく紙を見ていた。
余計な確認はしない。
必要な部分だけを読む。
それから、短く言った。
「やれ」
それだけだった。
「承知しました」
メリエラはすぐに頷いた。
静かな部屋だった。
外の音はほとんどない。
紙の音だけが続く。
夜の執務室に残っている灯りは、机の上だけを照らしていた。
レオンは黙って書類を見る。
メリエラは黙って次を出す。
それだけで、仕事は進んでいった。
やがて。
「終わりです」
メリエラが言う。
「そうか」
レオンは最後の書類に目を通し、机の端へ置いた。
そこで、ようやく視線を上げる。
「……明日」
短く言う。
「屋敷に来い」
一瞬の間。
メリエラが、瞬きをした。
「慰労と」
レオンは続ける。
「補佐官としての紹介をする」
それだけだった。
言い方は、いつも通りだった。
特別な意味を込めたつもりもない。
だが、メリエラの表情が変わった。
「よろしいのですか?」
「構わん」
短い。
「行きます」
即答だった。
次の瞬間。
メリエラは、ぱっと明るく笑った。
その笑顔は、執務中のものより少しだけ大きかった。
「楽しみにしております、レオン様」
柔らかい声だった。
レオンは短く頷く。
「ああ」
それで、話は終わった。
■廊下
扉の外。
リリアとエリシアがいた。
足が止まる。
今の言葉だけが、はっきりと残る。
「……紹介?」
リリアが小さく呟く。
エリシアは何も言わない。
わずかに視線が揺れる。
「屋敷で、ですか」
静かに。
それだけ言う。
リリアが顔を上げる。
何か言おうとして。
言葉が出ない。
一瞬だけ。
空気が止まる。
中から、メリエラの明るい声が聞こえる。
「楽しみにしております、レオン様」
リリアが目を伏せる。
エリシアは、そのまま扉を見る。
何も言わない。
だが、そのままそこに立っているわけにもいかなかった。
エリシアは、リリアへ小さく目配せをする。
リリアも、それに気づいた。
二人は足音を立てないように、扉から少し離れる。
廊下の角まで来てから、ようやくエリシアが口を開いた。
「リリアさん」
「はい」
「あの二人は、以前からお知り合いなのですか?」
問い方は静かだった。
けれど、声の奥にわずかな硬さがあった。
リリアは首を横に振る。
「私も知りません」
「そうですか」
「はい」
リリアは少しだけ扉の方を見る。
「ですが……」
そこで言葉を切る。
さっき聞こえた言葉が、耳に残っていた。
屋敷に来い。
慰労と。
補佐官としての紹介をする。
「紹介、と言っていました」
「はい」
エリシアも頷く。
「補佐官としての紹介、とは仰っていました」
「それなら、分かるのですが」
リリアは胸元で手を重ねる。
「どうして、屋敷なのでしょう」
声は小さい。
責めているわけではない。
けれど、落ち着いているわけでもなかった。
エリシアも、すぐには答えない。
「団長が、補佐官を屋敷へ連れて行くこと自体は、不自然とまでは言えません」
「そうなのですか?」
「ヴァイス家の方々に、今後仕事で関わる人物を紹介する。そう考えれば、理由はあります」
「……はい」
「ただ」
エリシアは、わずかに視線を伏せた。
「あの反応は、少し気になります」
リリアも頷く。
メリエラは、ただ礼儀正しく返事をしただけではなかった。
驚いて。
嬉しそうにして。
すぐに行くと答えた。
その声は、いつもの事務的なものではなかった。
「メリーさんは、お兄様の屋敷に行くのが嬉しいのでしょうか」
「そう見えました」
「……そう、ですよね」
リリアは小さく息を吐く。
嫌なわけではない。
メリーがレオンの補佐官として認められることは、きっと良いことだ。
仕事を支えてくれている。
それも分かっている。
けれど。
何も知らないまま、距離だけが先に進んでいるようで。
胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。
「エリシアさん」
「はい」
「メリーさんは、昔からお兄様を知っているのでしょうか」
「分かりません」
エリシアは正直に答えた。
「少なくとも、私は聞いていません」
「私もです」
二人は黙る。
廊下は静かだった。
執務室の灯りだけが、まだ残っている。
リリアはもう一度、扉の方を見る。
「……明日、屋敷に来るのですね」
「そのようです」
「補佐官として」
「はい」
「紹介として」
「はい」
確認しても、答えは増えない。
分かっているのは、それだけだった。
だから余計に、気になってしまう。
エリシアは小さく息を吐いた。
「団長に、直接お聞きしますか?」
リリアは少し考えた。
そして、首を横に振る。
「今は、やめておきます」
「よろしいのですか?」
「はい」
リリアは静かに答える。
「お兄様は、きっと普通のことだと思っていらっしゃいます」
「……それは、そうでしょうね」
エリシアは否定しなかった。
レオンなら、本当にただ仕事の紹介として屋敷へ呼んだだけかもしれない。
むしろ、その可能性が高い。
それなのに、こちらだけが勝手に引っかかっている。
それが分かるから、余計に面倒だった。
「ですが」
リリアは少しだけ頬を膨らませる。
「気になります」
エリシアは一瞬だけ黙った。
それから、小さく頷く。
「私もです」
二人は、もう一度だけ扉の方を見た。
中では、まだ灯りが残っている。
レオンとメリエラの声は、もうはっきりとは聞こえない。ただ、あの明るい声だけが、耳に残っていた。
誰も、はっきりとは言わない。
けれど、わずかに空気が変わっていた。
夜は、まだ静かだった。




