第88話 早すぎる
――帝国暦三二〇年・冬初め ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 第七騎士団 本庁・執務室――朝。
机の上に、書類が積まれている。
第七騎士団分。
第二騎士団分。
第十騎士団分。
そして、統合管理官宛ての確認書類。
それぞれの束が、机の上に分けられていた。
レオンは不満そうにそれを眺めている。
エリシアは、机の横で今日の処理順を確認していた。
クリスは、近くの椅子に腰掛けている。
ただし、嫌そうな顔はしていない。この執務室の人間ではないし、この書類はクリス自身の担当業務でもない。
どちらかといえば、少し離れたところから様子を見ているだけだった。
ダリオ副官は書類の山を見て、軽く眉を寄せている。
シエラは静かに記録用の紙を用意していた。
ミナは少し楽しそうに見ている。
その横で。
メリエラが、一枚の書類を机に置いた。
「こちらの三騎士団の数値確認は終わっています」
最初に反応したのは、エリシアだった。
「手伝ってくれたのですか?」
「はい」
メリエラは平然としている。小柄な体で、机の上の書類を迷いなく扱っていた。
「第七分は現状維持で問題ありません」
「第二分は補給線の数値に一部ずれがありましたので、修正案を添えています」
「第十分は人員表と実働表の人数が合っていませんでした」
淡々と並べる。
声は静かだった。
だが、内容は軽くない。
ダリオ副官が紙を取った。
目を通す。
眉を寄せる。
もう一度見る。
「……たぶん合ってるな」
小さく呟いた。
ミナが目を丸くする。
「早いですね」
「確認しただけです」
メリエラは表情を変えない。
「必要な箇所だけ整理しました」
シエラが眼鏡を押し上げる。
「確認しただけ、ですか」
「はい」
メリエラは別の紙を置く。
「こちらは処理済み」
「こちらは団長確認待ち」
「こちらも確認が必要です」
分類が早い。
迷いがない。
エリシアが、静かにメリエラを見る。
「メリエラさん」
「はい」
「あなたは総庁所属です。第七、第二、第十のいずれにも属していません」
「承知しています」
「統合管理官補佐とはいえ、各騎士団の書類処理をここまで手伝わせてよろしいのか、確認が必要です」
その声は、責めているというより、線引きの確認だった。
所属の確認。
職務範囲の確認。
それが必要だと、エリシアは判断したのだ。
メリエラも否定しない。
「エリシアさんの仰る通りです」
淡々と頷く。
「私は、第七騎士団の所属ではありません」
「第二騎士団でも、第十騎士団でもありません」
「総騎士団本庁所属です」
それから、机の上の書類を見る。
「本来、これらの書類処理そのものは、私の主業務ではありません」
ダリオ副官が、軽く額を押さえた。
「いや、それは本来こっちの仕事だろ」
当然の反応だった。各騎士団の書類は、本来、それぞれの騎士団側で処理するものだ。
総庁所属のメリエラが、わざわざ肩代わりする必要はない。
「じゃあ、なんでやってる?」
ダリオ副官が聞く。
メリエラは、少しだけレオンを見た。
そして、にこやかに笑う。
「レオン様の仕事が滞らないよう、手が空いた分、補助しました」
その声だけ、少し柔らかかった。
クリスが半眼になる。
「そこだけ声が柔らかいんだよな」
「事実ですので」
「事実でも温度差があるんだよ」
メリエラは答えなかった。
エリシアはまだレオンを見ている。
「団長」
「何だ」
「扱いを明確にした方がよいかと」
「今はイリスもいない」
レオンは短く言った。
「それに、イリスは本来ここで働く義務がある人間じゃない。来てもらっているだけだ」
「それは、そうですが」
「メリーは総庁所属だが、俺の補佐だ」
レオンは机の上の書類を見る。
「手が空いている時に、こちらの書類を手伝ってもらう」
「メリーがこれを片づければ、その分、俺の手が空く」
「俺の手が空けば、統合管理官の仕事ができる」
エリシアは一瞬だけ黙った。
「……理屈としては、分かります」
「それに」
レオンはメリエラを見る。
「これで、メリーが統合管理官の仕事に必要な確認までできるなら、それでいい」
「所属が違います」
「俺の部下ではある」
「第七の職員ではありません」
「なら、第七の仕事ではなく、これも統合管理官の仕事として使う」
言い切った。
エリシアは、少しだけ息を吐いた。
「承知しました」
それ以上は言わなかった。
メリエラは、ほんの少し嬉しそうに目を細める。
レオンはそのままメリエラを見る。
「メリー」
「はい」
「それで大丈夫か?」
メリエラの表情が変わった。
ぱっと、明るくなる。
先ほどまでの事務的な顔ではない。
嬉しそうに、柔らかく笑った。
「もちろんです、レオン様」
声まで柔らかい。
「お任せください」
クリスがそれを見て、わずかに身を引いた。
「……やっぱり、俺への対応と違いすぎないか」
メリエラが振り向く。
表情が消えた。
「何か問題でも?」
「今ので証明されたよ」
「通常対応です」
「俺への通常対応と、レオンへの通常対応が別物なんだよ」
メリエラは聞かなかったことにした。
そのあと、メリエラは一歩だけレオンの机に近づいた。
声を少し落とす。
「レオン様」
「何だ」
「騎士団統括統合管理官分の確認も終わっています」
そこで、一度だけ言葉を切った。
そして、レオンを見る。
「……統合管理官、でよかったのでしたっけ」
「ああ」
レオンは短く答えた。
「長いから、それでいい」
「承知しました」
メリエラはすぐに頷いた。
その切り替えは早かった。
「では、統合管理官分の確認も終わっています」
その報告に、周囲は大きく反応しなかった。反応する内容ではない。
統合管理官の仕事に関する確認結果は、本来レオンにだけ伝えればいい内容だからだ。
メリエラは薄い紙束を、レオンの手元に置いた。
「詳細は別紙にまとめています」
「必要な箇所だけ、ご確認ください」
レオンは紙束を見る。
少しだけ、目を細めた。
「……もう終わったのか」
その声には、わずかに驚きがあった。
統合管理官になってから、まだ日が浅い。レオン自身も、その仕事の範囲を完全に掴みきっているわけではない。
どこまで見ればいいのか。
何を判断材料にすればいいのか。
どこから総庁へ戻し、どこから自分が決めるべきなのか。それを今、少しずつ覚えている途中だった。
その仕事の確認を、メリエラはもう終わらせている。
「はい」
メリエラは、にこりと笑った。
「遅いよりはよいかと」
「そうだな」
レオンは短く答えた。
そのやり取りを聞いて、リリアが目を輝かせる。
「すごいです、メリーさん」
メリエラがリリアを見る。
少しだけ、表情を整えた。
「何がでしょう」
「統合管理官補佐のお仕事だけでなく、私たちの方の書類まで手伝ってくださるなんて」
リリアは素直に言った。
「とても助かります」
メリエラは、一瞬だけ言葉に詰まった。
褒められ慣れていない、というより。
リリアからまっすぐ礼を言われることに、少し対応が遅れたようだった。
「……必要な範囲です」
短く答える。
ただ、その声は先ほどより少しだけ柔らかかった。
クリスが小さく笑う。
「リリア相手だと、ちょっと丸くなるんだな」
メリエラが振り向く。
「気のせいです」
「俺相手よりは丸いだろ」
「通常対応です」
「通常対応の幅が広いんだよ」
レオンが口を開く。
「配分は」
それだけだった。
メリエラは即座に答える。
「第七は現状維持で問題ありません」
「第二は補給線の再調整が必要です」
「第十は人員再編を検討すべきです」
淀みがない。
紙を見ることもない。
すでに頭に入っているようだった。
「第十は現場判断に偏りすぎています」
「現場で処理できているうちはよいですが、書類上の指示系統が複数に分かれています」
「このままでは、規模が広がった時に持ちません」
一瞬の沈黙と静寂。
ダリオ副官が息を吐いた。
「……そこまで踏み込むか」
その声には、感心と警戒が混じっていた。
クリスも腕を組む。
「それ、管理官補佐の仕事じゃねえだろ」
「本来は、自分の仕事ではありません」
メリエラはすぐに答えた。
「ですが、統合管理官が判断するための材料になるかも知れません。そのため整理する必要があります」
「つまり、レオンのために、お前はこちらの仕事を手伝い、その前段階を整えてるってことか」
「はい」
「便利すぎるな」
「便利であることは、悪いことではありません」
「まあ、悪くはねえけどな」
ダリオ副官は苦笑した。
だが、目は笑っていない。
レオンが言う。
「やれ」
それだけだった。
「承知しました」
メリエラはすぐに頷いた。
そのまま一歩、レオンに近づく。
そして、にこやかに笑った。
「レオン様」
声が変わった。
さっきまでの事務的な声ではない。
柔らかい。
クリスがその変化に眉をひそめる。
「第六騎士団より、予算申請の確認書類が来ています」
明るい声で。
メリエラは続けた。
「正確には、総庁側に届いていたものを、こちらに回しました」
さらりとした報告だった。
だが、その内容はさらりと流せるものではなかった。
今度は、シエラが小さく反応した。
「……総庁側に、ですか」
「はい」
メリエラはにこやかに答える。
「従来通り、総庁側へ送られていました」
レオンが眉を寄せる。
「総庁側に?」
「はい」
メリエラは頷いた。
「本来、統合管理官の職務は、総長が持つものです」
「ですから、各騎士団が予算申請や確認書類を総庁側へ送るのは、運用としては自然です」
少しだけ間を置く。
「ただ、現在はレオン様が統合管理官です」
「今回の書類も、内容としてはレオン様に確認していただくべき案件でした」
レオンは紙束を見る。
「……つまり、本来は俺に来る書類だったのか」
「はい」
メリエラは即答した。
「ですが、各騎士団側には、まだその切り替えが浸透していません」
「今後も、同じように総庁側へ流れる書類は増えると思います」
ダリオ副官が軽く息を吐いた。
「まあ、そうなるよな」
総長が持つはずの権限を、今はレオンが持っている。
それ自体が、通常の形ではない。
現場の書類の流れが、すぐに変わるはずもなかった。
メリエラは静かに続ける。
「それに統合管理官室自体は総庁側にあります」
「そのため、『統合管理官室宛て』として出された書類は、総庁側へ流れます」
「レオン様に確認していただくべき書類は、本来宛名を『統合管理官宛て』として扱う必要があります」
「ですが、その区別もまだ曖昧です」
ミナが目を細める。
「しばらく混乱しそうね」
「はい」
メリエラは頷いた。
「ですので、当面は私が総庁側の統合管理官室も確認します」
「誤って総庁側へ届いた統合管理官案件があれば、こちらへ回してもらいます」
レオンが短く言う。
「総長に回す前にか」
「はい」
メリエラはにこやかに答えた。
「総長のお手を煩わせる必要はありませんので」
妙な静けさが残る。
総庁所属なのだから、総庁の流れを知っていることは不思議ではない。
ただ、間違って流れた書類を見つけ、必要だと判断し、すぐにレオンの手元へ戻せる。
その動きの早さが、少し引っかかった。
ダリオ副官が苦笑する。
「便利すぎるな、それ」
「必要な範囲です」
メリエラは気にしていない。
ただ、レオンを見る。
にこやかに。
レオンは短く言った。
「任せる」
「承知しました」
メリエラは迷いなく頷いた。
「申請内容はこちらで整理します。レオン様の確認が必要な箇所だけ、後ほどお渡しします」
「頼む」
メリエラは迷いなく頷いた。
「はい」
声が柔らかい。
クリスが半眼になる。
「本当に早すぎるな」
「早く終わる方がよいと思います」
「それはそうだけどよ」
その時だった。
扉が開く。
イリスが入ってきた。
一瞬で、執務室の空気が整った。
騒がしかったわけではない。
だが、全員の背筋がわずかに伸びる。
イリスは、いつものように静かに部屋を見た。
「失礼いたします」
落ち着いた声。
その声だけで、書類の山まで整ったように見える。
メリエラが振り向く。
そして。
にこやかに笑った。
「お姉様」
空気が止まった。
「……は?」
クリスが止まる。
ミナが瞬く。
ダリオ副官が固まる。
シエラも、記録の手を一瞬止めた。
イリスだけは、表情を大きく変えなかった。
けれど、ほんのわずかに目を伏せる。
リリアだけが動いた。
「……イリス様、です」
静かに。
けれど、その声はいつもより少し硬かった。
メリエラは答える。
「はい」
そして、はっきりと言い切った。
「お姉様です」
一瞬、空気が張る。
リリアが一歩出る。
「その呼び方は――」
柔らかく。
だが、強く。
メリエラは引かなかった。
「許可はいただいています」
淡々と。
その言葉で、リリアが止まった。
ほんの少しだけ、表情が揺れる。
「……そう、ですか」
小さく言う。
イリスは、静かにメリエラを見た。
「メリー」
「はい、お姉様」
「職務中です」
「失礼しました」
メリエラはすぐに頭を下げた。
だが、謝ったあとも、呼び方を取り消したわけではない。
クリスが小声で言う。
「許可、出てんのかよ……」
ミナが口元に手を当てる。
「思ったより、深いところにいる子ね」
ダリオ副官は何も言わなかった。
ただ、少しだけ困った顔をしている。
リリアは、イリスを見る。
何か聞きたそうだった。
けれど、この場では聞けなかった。
メリエラも、それを分かっているように見えた。
レオンは短く言う。
「続けろ」
その声で、場が仕事に戻る。
メリエラは頷いた。
「はい」
そのまま書類へ視線を戻す。
処理は早い。
確認も早い。
報告も早い。
そして、距離を詰めるのも早かった。
ただ。
場の空気だけが、少し変わっていた。
誰も、はっきりとは言わない。
だが、第七騎士団に来た小さな補佐官は。
思ったよりもずっと早く。
仕事にも。
人の距離にも。
踏み込んできていた。




