第87話 お姉様
――帝国暦三二〇年・冬初め ヴェリア帝国 東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁 客間(イリスの部屋)――午後。
紙の音だけが、静かに響いていた。
イリスが書類に目を落としている。
客人用の部屋として用意された場所ではあるが、机の上には、すでに数枚の紙が並べられていた。
茶器。
封書。
簡単な覚え書き。
そして、帝都から持ち込んだ私的な資料。
それらは、客間に置かれているにもかかわらず、無駄なく整えられている。
扉の外で、控えめな声がした。
「……メリエラ様が、お取次ぎを願っております」
メイドのメリッサ声だった。
「通して」
イリスは短く応える。
扉が開く。
メリエラが入ってきた。
「失礼します」
一礼。
「統括管理官補佐、メリエラです」
イリスが顔を上げる。
「……メリエラ」
「はい」
メリエラは視線を受ける。
目を逸らさない。
「殿下」
「何かしら」
「一つ、よろしいでしょうか」
静かな声。
だが、その目は少しだけ楽しげだった。
「どうぞ」
イリスは書類を置いた。
メリエラは、ほんの少しだけ首を傾ける。
「お姉様と、お呼びしても?」
部屋の空気が、わずかに止まる。
短い沈黙。
扉の外で控えていたメイドまで、呼吸を止めた気配がした。
イリスはメリエラを見る。
じっと。
「理由を聞いても?」
静かに問う。
メリエラは、少しだけ考えるように目を伏せた。
「私は、仕事ができる方を尊敬します」
「そう」
「ですが、仕事ができるだけの方を、お姉様とは呼びません」
イリスの目が、ほんの少しだけ細くなる。
メリエラは続けた。
「殿下は、人ではなく、配置を見ておられます」
「配置?」
「はい。誰が何を担い、誰が無理をして、どこが壊れかけているのか」
静かな声だった。
「それを、自然に見ておられるように感じました」
「……」
「私は、自分より広く物事を見ている方を尊敬します」
メリエラは顔を上げる。
「ですが、ただ尊敬するだけなら、殿下とお呼びするだけで十分です」
「では、なぜお姉様なの?」
「近くで見て、学びたいと思ったからです」
ほんの少しだけ、口元が緩む。
「上司ではありません。友人と呼ぶには失礼です。ですが、殿下とだけ呼ぶには少し遠い」
「……ずいぶん勝手ね」
「自覚はあります」
メリエラはにこやかに答えた。
「知識でも、視野でも、判断の仕方でも。私より少し先にいる方だと思いました」
「それで、お姉様?」
「はい」
即答だった。
「私にとって、理想的な年上の女性です」
イリスは、数秒だけ黙った。
怒っているわけではない。むしろ、興味深そうにメリエラを見ている。
「距離の詰め方が早いのね」
「問題でしたか?」
「いいえ」
イリスは淡く笑う。
「面白いと思っただけ」
一瞬、空気が、わずかに揺れる。
メリエラは、それを受け止めた。
ほんの少しだけ、口元が緩む。
「光栄です」
「お姉様と呼ぶことで、あなたに何か得があるの?」
「あります」
「何かしら」
「距離が近くなります」
「正直ね」
「嘘をついても、殿下にはあまり意味がなさそうですので」
イリスの目が、また少し細くなる。
「そういうところも、距離が近いわね」
「お嫌いですか?」
「いいえ」
短い答えだった。
イリスは椅子の背に、軽く身を預ける。
「構わないわ」
それだけ。
メリエラが頷く。
「ありがとうございます、お姉様」
にこやかに笑う。
一瞬だけ、空気がやわらぐ。
だが、イリスは、そのままメリエラを見る。
「ただし」
「はい」
「人前では、場を選びなさい」
「承知しました」
「それと」
「はい」
「その呼び方を許したからといって、私があなたに甘くなるわけではないわ」
「もちろんです」
メリエラは迷わず頷く。
「むしろ厳しく見ていただけるなら、ありがたいです」
「……本当に距離の詰め方が早いのね」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてはいないわ」
「では、励みとして受け取ります」
イリスは、ほんの少しだけ笑った。
「強いのね」
「弱いと、この場所では仕事になりませんので」
「そう」
短く答え、イリスは再び書類へ視線を落とそうとした。
その前に、メリエラが一歩だけ進む。
「それと、お姉様」
「何かしら」
「一つ、見ていただきたい報告書があります」
イリスの視線が戻る。
「仕事を持ち込むの?」
「いいえ」
メリエラは首を振った。
「殿下はお客様です。業務としてお願いするものではありません」
「では?」
「相談です」
メリエラは、手にしていた薄い報告書を差し出した。
「第七騎士団本庁内の書類経路について、気になった点をまとめました。統括管理官補佐として提出する前に、一度、別の視点で見ていただきたくて」
「別の視点」
「はい」
メリエラは淡々と言う。
「私には、現場の流れは見えます。ですが、上から見た時に、この整理が本当に正しいかまでは判断しきれません」
「それを私に?」
「お姉様は、人ではなく配置を見る方ですので」
「呼び名を許された直後に、それを使うのね」
「距離が近くなりましたので」
「早いわね」
「自覚はあります」
イリスは報告書を受け取った。
紙は薄い。
だが、内容は軽くなさそうだった。
項目ごとに整理され、無駄な装飾はない。
報告書というより、問題点を切り出した刃物に近い。
「……よく見ているわね」
「ありがとうございます」
「褒めたつもりではないわ」
「励みとして受け取ります」
「便利な受け取り方ね」
イリスはページをめくる。
紙の音が、静かに響いた。
「少し預かるわ」
「はい」
「ただし、これは私の仕事ではない。意見を言うだけよ」
「それで十分です」
「本当に?」
「はい」
メリエラは、にこやかに答えた。
「お姉様の意見が聞きたいだけですので」
イリスは小さく息を吐く。
「……調子に乗るのも早いわね」
「自覚はあります」
メリエラは、平然と頭を下げた。
それで話は終わりだった。
命令もない。
大げさな承認もない。
ただ、呼び方が一つ変わっただけ。
そして、薄い報告書が一つ、イリスの手元に残った。
扉の外で、メイドが静かに立っている。
部屋の中は、再び静けさに戻る。
紅茶の香りだけが、静かに残っていた。




