第86話 揺れる距離
――帝国暦三二〇年・冬初め ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 第七騎士団 本庁・中庭――昼。
人の少ない時間だった。
冬初めの風は、少し冷たい。
けれど、日差しはまだ柔らかく、中庭には静かな明るさが残っていた。
リリアは書類を抱えて歩いていた。
執務室へ戻る途中である。
紙の束は、それほど重くない。
ただ、少しだけ持ちにくかった。
「落としますよ」
横から、手が伸びた。
崩れかけた書類の端を、自然に支えられる。
リリアが顔を上げる。
そこにいたのは、メリエラだった。
「ありがとうございます」
リリアは柔らかく笑った。
メリエラは、書類の位置を整えてから手を離す。
「持ち方が少し不安定です」
「そうでしたか?」
「はい」
淡々とした返事だった。
冷たい、というほどではない。
だが、温かいとも言いがたい。
リリアは少しだけ首を傾げる。
メリエラは、そのまま隣を歩き始めた。
しばらく、二人の足音だけが中庭に落ちる。
「……最初」
メリエラが言った。
「私を、年下かと思いましたか?」
リリアが瞬く。
そして、すぐに答えた。
「はい」
あっさりとしていた。
「小柄でしたので」
悪びれない。
隠す気もない。
リリアにとっては、ただの事実だった。
メリエラの眉が、わずかに動く。
「そうですか」
短い返事。
声は落ち着いている。
だが、ほんの少しだけ不機嫌だった。
リリアは気づいていない。
「でも」
続ける。
「今は違うと分かります」
素直な声だった。
メリエラは横目でリリアを見る。
「どうしてですか」
「話し方です」
リリアは少し考えてから言った。
「それと、見ているところです」
「見ているところ」
「はい。メリーさんは、ただ周りを見ているのではなく、何がどう動いているかを見ているように思いました」
メリエラは、少しだけ黙った。
その沈黙は、不機嫌さとは違っていた。
考えるための間だった。
「……でしょうね」
小さく返す。
リリアは、また首を傾げた。
「でしょうね、なのですか?」
「はい」
「少し、不思議な返し方ですね」
「よく言われます」
「そうなのですか」
「はい」
二人は並んで歩く。
静かだった。
中庭の向こうでは、騎士たちの声がかすかに聞こえる。
けれど、この場所だけは少し離れていた。
「あなたは」
メリエラが言う。
「ここにいるべき人です」
リリアは足を止めかけた。
「私が、ですか?」
「はい」
メリエラは前を見たまま答えた。
「あなたがいると、周囲の動きが変わります」
「私、何かしていますか?」
「していません」
即答だった。
リリアが少し困ったように笑う。
「では、どうしてでしょう」
「何もしていないのに変わるから、意味があるのだと思います」
リリアは少しだけ驚いた。
それは、褒め言葉なのか。
分析なのか。
判断が難しかった。
「……ありがとうございます」
それでも、リリアは柔らかく返した。
メリエラは、リリアを見る。
今度は、真正面から。
「ですが」
声が少しだけ変わった。
「そこは、譲れません」
静かだった。
強くはない。
けれど、引く気のない声だった。
リリアが首を傾げる。
「何を、ですか?」
「レオン様の仕事の隣です」
メリエラは答えた。
リリアが瞬く。
「お兄様の、隣ですか?」
「はい」
メリエラは静かに頷いた。
「あなたは、レオン様にとって大事な方です」
その言い方には、嫌味はなかった。
けれど、柔らかさもなかった。
「ですが、補佐として隣に立つのは私です」
リリアは少しだけ黙った。
怒るところではない。
悲しむところでもない。
ただ、少し不思議だった。
「それは、私と競うことなのですか?」
「違います」
メリエラはすぐに答えた。
「競う必要はありません」
「では」
「役割が違います」
短く。
はっきりと。
「あなたは、ここにいるべき人です」
メリエラはもう一度言った。
「でも、私の役目は譲りません」
リリアは、ようやく少しだけ分かった気がした。
嫌われているわけではない。
拒まれているわけでもない。
ただ、線を引かれている。
ここから先は、自分の場所だと。
そう告げられている。
「……分かりました」
リリアは柔らかく笑った。
「メリーさんは、お兄様のお仕事を支えてくださるのですね」
メリエラの表情が、ほんの少しだけ変わった。
「はい」
短い返事だった。
けれど、さっきより少しだけ温度があった。
「それなら、よろしくお願いします」
リリアが言う。
「お兄様は、すぐ無理をしますので」
メリエラは少しだけ目を細めた。
「知っています」
その声だけは。
少し、柔らかかった。
リリアは少しだけ笑う。
「やっぱり、よく見ているのですね」
「仕事ですので」
「それだけですか?」
「はい」
メリエラはすぐに答えた。
だが、その返事は、少しだけ早かった。
リリアは、それ以上は聞かなかった。
メリエラも、それ以上は言わなかった。
二人はまた、並んで歩く。
先ほどより近い。
けれど、完全に近づいたわけではない。
少しだけ縮まって。
少しだけ、線が見えた。
そんな距離だった。
やがて、廊下へ続く扉の前で、メリエラが一歩離れた。
「では」
短く告げて、先に歩いていく。
リリアは、その背中を見送った。
(……なんだろう)
嫌われているわけではない。
たぶん、敵意でもない。
けれど、近づかれたわけでもない。
手を貸してくれた。
認めてもくれた。
それでも、譲れない場所があると言った。
リリアは抱え直した書類を見る。
先ほどメリエラが整えてくれたおかげで、紙の端はきれいに揃っている。
少しだけ、助けられた。
少しだけ、距離が近づいた。
けれど、まだ分からない。
分からないまま。
それでも、少しだけ。
空気が変わった気がした。




