第80話 クリスとシエラ
――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 第七騎士団 本庁・廊下――昼。
少しだけ、手が空いた時間だった。
廊下の端。
書類の受け渡しを終えたクリスは、隣に立つシエラを見た。
「で、なんで俺なんだ?」
クリスが言う。
シエラは、いつも通りの無表情で返す。
「他に適任が見当たりませんでした」
第十騎士団所属の書記官、シエラ。今は第七騎士団本庁の共同処理体制に参加している。
淡々としていて、記録が正確で、判断が早い。そして、説明も淡々としていた。
「適任ってなんだよ」
「情報整理能力、対話能力、機密保持能力」
「総合的に判断しました」
「いや、デートだろ」
クリスがため息をつく。
シエラは、わずかに首を傾げた。
「……業務外活動と認識しています」
「言い方」
「それに」
シエラは少しだけ間を置いた。
「クリスさんのことを、もう少し知りたいと思いました」
「……は?」
クリスの動きが止まる。
「今、なんて?」
「クリスさんのことを、もう少し知りたいと思いました」
「いや、聞こえてた。聞こえてたけど、そういうの急に言うな」
「不適切でしたか」
「不適切というか、びっくりするだろ」
クリスは少しだけ視線を逸らした。
シエラは淡々としている。
だが、言っていることだけを見れば、かなり妙な破壊力があった。
「記録対象として、情報が不足しています」
「記録対象」
「はい」
「今の一瞬のときめきを返せ」
「ときめいたのですか?」
シエラは手帳を開いた。
「おい、書くな」
「記録します」
「やめろ」
「必要情報です」
「必要じゃない」
「判断材料になります」
「何のだよ」
「クリスさんの人物情報です」
「だから怖いんだよ!」
シエラは淡々とペンを動かした。
クリスは止めようとしたが、もう遅かった。
「今、何を書いた」
「クリスさんは、不意の好意的発言に対して動揺する」
「消せ」
「記録済みです」
「消せって」
「訂正記録を追加します」
「消せって言ってるんだよ!」
シエラはさらに一行書いた。
「クリスさんは、記録内容の削除要求を行う傾向がある」
「増やすな!」
「事実ですので」
クリスは頭を抱えた。
「そもそも、俺の何を記録してるんだよ」
「言動、反応、交友関係、周囲からの評価、緊急時の判断傾向などです」
「怖い怖い怖い」
「皆様から話を聞いています」
「皆様?」
「はい。皆様からです」
「範囲が広いな!」
シエラは当然のように頷いた。
「人物情報は、複数の証言を照合した方が正確になります」
「俺、知らないうちに調査されてたのか」
「調査ではありません。記録です」
「余計怖い」
クリスはそう言ったが、そこで少しだけ言葉を止めた。
シエラは、本当に悪気なく言っている。ただ業務のためだけではなく、クリスという人間を知ろうとしている。
その方向性は少しおかしい。
だが、それでも。
(……可愛いとこあるな)
そう思ってしまった。
もちろん、口には出さない。
出した瞬間、確実に記録される。
「……まあ、行くだけだろ」
「はい」
「見て回って、話聞いて、戻るだけ」
「はい」
「ならいいか」
「ありがとうございます」
それで決まった。
軽い。
あまりにも軽い決定だった。
だが、第七騎士団本庁では、軽い決定ほど妙な方向へ転がることがある。
それをクリスは、まだ少し甘く見ていた。
■第七騎士団 本庁・別廊下
「聞いたか」
親衛隊員の小声。
「聞いた」
「クリスさんが、書記官とデートらしい」
「誰と」
「書記官だ」
短い沈黙。
親衛隊員たちは、顔を見合わせた。
「書記官」
「ああ」
「本庁で、書類を扱っている女性」
「ああ」
「最近、姫様も書類を扱っている」
「ああ」
さらに短い沈黙。
そして、結論が出た。
「姫様か?」
「確認する」
「至急だ」
「ただし騒ぐな」
「了解」
その言葉だけで、数人が動き出した。
彼らの行動は速かった。
姫様に関わる可能性が一厘でもあるなら、確認する。それが親衛隊の基本方針だった。
たとえ、その可能性がかなり低くても。
たとえ、最初から何かがおかしくても。
彼らは動く。
■第七騎士団 本庁・執務室
「失礼します」
親衛隊員の一人が、静かに執務室へ入ってきた。
その表情は真剣だった。
あまりに真剣だったため、近くにいた騎士が少し身構える。
エリシア副官の手が止まった。
「何かありましたか?」
「報告します」
親衛隊員は姿勢を正した。
「クリスさんが、書記官とデートに向かったとの情報があります」
執務室の空気が止まった。
「……デート?」
リリアが首を傾げる。
「はい」
親衛隊員は真剣に頷く。
「相手は書記官とのことです」
書記官。
その一語で、周囲の解釈が少しずつずれ始めた。
この本庁には、書記官が多い。
第七、第二、第十騎士団の書記官。
補助的に書類を扱う者。
そして、最近はリリアも書類仕事を手伝っている書記官。
親衛隊員たちの中で、危険な結論が形成される。
「……姫様では?」
「違います」
エリシアが即答した。
だが、リリアはぱっと顔を明るくした。
「……おめでたいですね!」
純粋に、嬉しそうに。
エリシア副官は一瞬だけ言葉を失った。
「リリアさん」
「はい」
「まだ、事実関係が確認されていません」
「でも、クリスさんがどなたかと仲良くされているなら、とても良いことだと思います」
「……そうですね」
エリシアは静かに頷いた。
ほんの少しだけ、間を置いて。
「確認と、祝意を示す準備を」
「はい!」
親衛隊員が即座に動いた。
「ただし、過剰になりすぎないように」
「承知しました」
第七騎士団本庁で、リリアが関わる祝い事。しかも親衛隊経由の情報。
過剰になりすぎないように、という条件は、かなり難しかった。
「花を用意してください」
「はい」
「菓子も、少量」
「はい」
「配置は整えてください。業務の邪魔にならないように」
「はい!」
リリアは目を輝かせている。
「私もお手伝いします!」
「リリアさんは、花束を持ってください」
「はい!」
エリシアは淡々と指示を出した。
止める選択肢は、どこかで消えていた。
というより、ここで止めるには、すでに情報の流れが早すぎた。
■街中
クリスとシエラは、並んで歩いていた。
街は穏やかだった。
商店の前を人が行き交い、荷車が通り、騎士団関係者らしい者が何人か遠くを歩いている。
特別なことは何もない。
ただの街中確認だった。
「……普通だな」
クリスが言う。
「何をもって普通と定義しますか」
「今のこれ」
「承知しました」
「承知するなよ」
「普通の定義を、現在の状況に仮置きします」
「だから言い方」
シエラは淡々と周囲を見る。
商店の位置。
通りの幅。
人の流れ。
騎士団関係者の出入り。
見ているものは、完全に業務寄りだった。
ただ、時折クリスを見る。
そして、手帳に何かを書く。
「おい」
「はい」
「今、何を書いた」
「歩行時の反応速度」
「俺のか?」
「はい」
「街の記録じゃないのかよ」
「両方です」
「両方やめろ」
「困難です」
「困難なのか」
「はい。記録対象が移動していますので」
「俺を対象って言うな」
シエラはまた一行書いた。
「今のも書いたな?」
「はい」
「堂々とするな」
「記録に偽りはありません」
クリスは空を見上げた。
「デートっぽさ、欠片もないな」
「必要ですか?」
「いや、必要ではないけどな」
「では問題ありません」
「まあ、そうなんだけど」
クリスは肩をすくめた。
そのとき。
後ろから足音がした。
一定の距離を保ちながら、複数人がついてくる。
クリスが振り返る。
「……なんで来てんだ、あれ」
シエラも振り返った。
親衛隊員たちだった。
かなり真剣な顔をしている。
距離を詰める。
視線は鋭い。
何かを確認しようとしている。
そして。
親衛隊員たちの視線が――止まった。
一斉に。
シエラを見て。
沈黙。
彼らの顔に、理解が走る。
書記官。
確かに書記官。
だが、姫様ではない。
完全に違う。
むしろ、最初から違う。
「……失礼した」
隊員の一人が言った。
全員、揃って一礼。
そして、何事もなかったかのように引き上げていく。
速かった。
来る時も速かったが、引く時も速かった。
「……何?」
クリスが呟く。
シエラは、少しだけ親衛隊員たちの背中を見送った。
「誤認の修正が行われたものと思われます」
「いや、なんの誤認だよ」
「不明です」
「絶対、何か分かってるだろ」
「推測は可能ですが、確定情報ではありません」
「じゃあ推測でいいから言え」
「混乱が増す可能性があります」
「もう増えてる」
シエラは少しだけ考えた。
そして、淡々と言う。
「おそらく、書記官という語から別人を想定したものと思われます」
「別人?」
「はい」
「誰だよ」
「言わない方がよいかと」
クリスは顔をしかめた。
「……姫様か?」
シエラは答えなかった。
それが答えだった。
「なんでそうなるんだよ!」
「親衛隊の判断経路は、通常の情報処理とは異なる可能性があります」
「便利な言い方するな!」
シエラは手帳を開いた。
「今の発言も記録します」
「するな!」
「親衛隊への評価として重要です」
「俺の発言を勝手に親衛隊評価に使うな!」
「匿名化します」
「そういう問題じゃない!」
街中確認は、その後も続いた。
何事もなかった。
少なくとも、表面上は。
■第七騎士団 本庁・執務室
夕方。
扉が開く。
クリスとシエラが戻ってきた。
「戻りました」
シエラが言う。
その瞬間。
空気が止まった。
机の上。
花。
菓子。
整えられた配置。
祝意を示すには控えめ。
だが、何も知らずに戻ってきた者からすれば、十分に異様だった。
「……何だこれ」
クリスが固まる。
そして――。
リリアが一歩前に出た。
両手で大きな花束を持っている。
丁寧に。
まっすぐに。
その表情は、どこまでも純粋だった。
「……おめでとうございます」
柔らかく言って。
シエラに差し出す。
シエラは、ほんの一瞬だけ考えた。
状況確認。
誤認推定。
否定時の影響。
リリアの善意。
周囲の期待。
クリスの混乱。
総合判断。
そして。
受け取った。
「……ありがとうございます」
自然に返す。
それが一番、混乱を生まなかった。
少なくとも、その瞬間だけは。
クリスは横で固まっている。
「いや、待て。何がおめでとうなんだ」
リリアはにこにこと笑っている。
「クリスさんとシエラさんが、仲良くなられたと伺いました」
「どこからどう伝わったんですか、それ?」
「親衛隊の方からです」
「親衛隊!」
クリスは廊下の方を見る。
親衛隊員たちは、少し遠くで視線を逸らしていた。
そのとき。
「戻ったか」
レオンが入ってきた。
状況を見る。
花。
菓子。
リリア。
花束を受け取ったシエラ。
横で固まるクリス。
執務室の妙な空気。
そして、レオンは頷いた。
「……そうか」
納得した顔で。
「おめでとう」
短く言う。
完全に確信している声だった。
「は?」
クリスが固まる。
「団長、何を納得したんですか」
「違うのか?」
「何がですか!」
だが、リリアがさらに嬉しそうに笑う。
「はい!」
元気よく返事をする。
「クリスさんとシエラさんは、とてもお似合いだと思います!」
「リリア!?」
クリスの声が裏返った。
シエラは花束を持ったまま、わずかに視線を落とす。
おそらく、否定する機会を探している。
だが、探している間に、リリアが少しだけ身を乗り出した。
「……式は、いつ頃のご予定ですか?」
純粋な目で聞く。
クリスの思考が止まった。
シエラは、わずかに間を置く。
「現時点では未定です」
淡々と答える。
花束を持ったまま。
「未定って言った!」
「シエラ、お前、今、未定って言ったな!?」
「現時点で予定が存在しないことを示しました」
「それは否定じゃない!」
「否定した場合、リリアさんの善意に対する処理が複雑化します」
「今の方が複雑だろ!」
「見解の相違です」
クリスは頭を抱えた。
そのとき、レオンが腕を組む。
どこか満足げに。
「なら、調整しておく」
一同が見る。
「二人の休日が重なるようにしておく」
「は?」
クリスが凍る。
「その方が都合がいいだろう」
レオンは、完全に分かっているつもりの顔だった。
どこか誇らしげですらあった。
エリシア副官が、何か言おうとして――。
やめる。
一瞬だけ、視線が揺れる。
(……もう、引き返せませんね)
そう判断した顔だった。
クリスは横を見る。
シエラ。
目が合う。
無言の確認。
(……どうする?)
クリスの目が訴える。
シエラは、ほんのわずかに考えた。
そして、手帳を開いた。
「今、書くな!」
「重要局面です」
「何の重要局面だ!」
「クリスさんの反応記録です」
「今じゃない!」
「今でなければ、正確性が落ちます」
「正確に残すな!」
シエラは淡々とペンを動かした。
「クリスさんは、休日調整の提案に強く動揺する」
「やめろ!」
「追記します」
「追記するな!」
「ただし、完全な拒否はしていない」
「してるだろ!」
「発言としては、まだ明確な拒否がありません」
「今してる!」
「記録します」
「だから増やすな!」
結論。
クリスは、ゆっくりと息を吐いた。
「……ああ」
否定しなかった。
リリアは嬉しそうに頷く。
レオンは満足げに頷く。
エリシア副官は静かに書類へ戻る。
シエラは花束を横に置き、何事もなかったかのように報告書を取り出した。
「街中確認の結果を報告します」
「今それ行くのかよ」
「業務ですので」
「強いな、お前」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
その日の第七騎士団本庁は。
少しだけ。
妙な空気のまま、回り続けた。
理由は、誰も口にしなかった。
ただ、クリスとシエラの次の休日だけが。
なぜか、きれいに重なっていた。
そして、その事実も。
シエラの手帳には、きちんと記録された。




