第79話 それでも、少しだけ
――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 第七騎士団 本庁・廊下――夕方。
仕事は、まだ続いている。
人の流れ。
足音。
紙の音。
書類を運ぶ者。
確認を取りに行く者。
呼ばれて戻る者。
いつも通りのはずだった。
イリスは歩いている。
静かに。
迷いなく――。
(……本当に?)
足が、ほんの少しだけ止まる。
すぐに、また動く。
廊下を歩く速度は、変わらない。
(中央での任務)
(別領への配置)
言葉が、残っている。
グラウスの声。
(現在の立場には戻りません)
イリスは、目を閉じる。
ほんの一瞬。
(……合理的です)
思考が動く。
冷静に。
帝国中央の理屈は分かる。
優秀な人材を、より広い場所で使う。
一つの騎士団領に留めず、帝国全体のために動かす。
中央での任務。
別領への配置。
帝国貴族としての立場。
どれも、理屈としては間違っていない。
(より広い範囲で力を使える)
(影響力も増す)
正しい。
間違っていない。
だからこそ。
(……それでいいのか)
問いが残る。
答えは、出ているはずなのに。
連れていくべきではない。
レオン様を、この地から切り離すべきではない。
その判断は、もう下した。
記録にも残る。
責任も負う。
それでも。
それでも、少しだけ。
胸の奥に、引っかかるものがある。
そのとき。
「イリス様!」
軽い声がした。
リリアだった。
廊下の向こうから、こちらへやってくる。
少し急いでいる。
すぐ後ろから、騎士の声が飛ぶ。
「姫様、走らないでください!」
「走っていません!」
「速く歩いておられます!」
「急いでいるだけです!」
リリアは少しだけ頬を膨らませながらも、イリスの前で止まった。
手には紙を持っている。
「見てください!」
リリアは、その紙を胸の前に差し出した。
「今日の分、全部終わりました!」
少し誇らしげに。
笑う。
イリスは、視線を落とした。
紙を見る。
処理済みの印。
確認欄。
小さく整えられた丁寧な文字。
「……早いですね」
自然に言う。
「はい!」
リリアは嬉しそうに頷いた。
それだけで。
空気が、少しだけ軽くなる。
「エリシアさんに教えていただいた通りに並べて、シエラさんに確認していただいて、ミナさんにも見てもらいました」
「そうですか」
「それから、第二騎士団の分と第十騎士団の分が混ざらないように、印も付けました」
イリスは、紙の端を見る。
確かに、小さな印がある。
第二騎士団分。
第十騎士団分。
第七騎士団本庁で処理するもの。
回すもの。
戻すもの。
見れば分かるようになっていた。
「よくできています」
イリスが言うと、リリアの表情が明るくなった。
「本当ですか?」
「はい」
「よかったです!」
リリアは紙を大事そうに抱えた。
廊下の向こうでは、騎士たちがこちらを見ている。少し離れた場所にいるのに、明らかに聞き耳を立てている。
イリスがリリアを褒めた瞬間、何人かの背筋が伸びた。
なぜか誇らしげだった。
「皆様も、とても動きやすそうで」
リリアが続ける。
「今日は、空気がいいですね」
少しだけズレた感想。
だが、間違ってはいない。
イリスは、ほんのわずかに目を細める。
(……そうですね)
心の中で返す。
廊下の先。
執務室が見える。
中では、エリシア副官が指示を出していた。
正確に。
迷いなく。
「そちらは第二騎士団側へ確認を戻してください」
「はい」
「第十騎士団分は、こちらの束です。混在させないように」
「承知しました」
「第七騎士団内で処理できるものは、今日中に終わらせます」
淡々とした声。
けれど、その声に合わせて人が動く。
騎士たちが動く。
書記官が動く。
派遣されてきた者たちも、自然に流れに入っている。
第二騎士団。
第七騎士団。
第十騎士団。
それぞれの色を残したまま、それでも同じ場所で仕事が回っている。
無理に一つにまとめているわけではない。
だが、ばらばらでもない。
必要なところで繋がり、必要なところで分かれる。
それが、今のこの騎士団領の運用だった。
その横で、騎士たちが動く。
自然に。
止まらずに回っている。
無理なく静かに。
(……これを)
イリスは、廊下の先を見た。
(……崩すのですか)
問いが、形を変える。
レオン様を中央へ出す。
帝国貴族として任じる。
別領へ配置する。
それは、一人の人材を動かすだけではない。この流れの中心を抜くことになる。
ここにいる者たちは、命令されれば動くだろう。
形の上では従うだろう。
だが、本当の意味で同じように動くとは限らない。
レオン様の代わりに、別の者を置く。
肩書きは同じにできる。
権限も与えられる。
書類上の位置も整えられる。
けれど。
それで、この空気まで同じになるのか。
この流れまで同じになるのか。
イリスには、そうは思えなかった。
「イリス様?」
リリアが言う。
少し不思議そうに。
イリスは、ゆっくりと顔を上げた。
リリアがこちらを見ている。
心配そうに。
けれど、深刻すぎない顔で。
「どこか、具合が悪いのですか?」
「いいえ」
イリスは小さく息を吐いた。
短く答える。
「何でもありません」
「本当ですか?」
「はい」
リリアは少しだけ首を傾げる。
それから、にこりと笑った。
「なら、戻りましょう。エリシアさんが、次の書類を用意してくださっています」
「そうですね」
イリスは頷いた。
「戻りましょう」
歩き出す。
リリアが後ろをついてくる。
「はい!」
いつも通りの返事。
足音が、重なる。
廊下を進む。
執務室に入る。
空気が、変わる。
流れに乗る。
紙の音。
ペンの音。
短い指示。
返事。
確認。
それらが、自然に重なっていく。
イリスは静かに席へ向かった。
椅子に座る。
机の上には、確認待ちの書類が積まれている。
第二騎士団から戻ったもの。
第十騎士団へ回すもの。
第七騎士団内で処理するもの。
それぞれに印が付いている。
乱れてはいない。
イリスは一枚目を取った。
目を通す。
必要な箇所に印を入れる。
次の書類へ手を伸ばす。
迷いはない。
ほんの少し前まであったものは――。
もう、ほとんどなかった。
ただ一つだけ。
(……少しだけ)
胸の奥に残る違和感を、置いたまま。
それでも、手は止まらなかった。
判断はした。
選んだ。
この場所を、今は動かさない。
レオン様を、連れていかない。
それが正しいと、イリスは思っている。
それでも。
帝国の理屈を、完全に捨てたわけではない。
中央の正しさを、知らないふりはできない。
だから、少しだけ残る。
小さな重さ。
小さな迷い。
けれど、その迷いを抱えたままでも、人は仕事をする。
イリスは次の書類を取った。
印を入れる。
返す場所を決める。
処理は止まらない。
東ロンバルディア騎士団領の一日は、まだ終わらなかった。




