第78話 それでも連れていくか
――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 第七騎士団 本庁・応接室――昼。
空気は、整っている。
応接室の机。
揃えられた椅子。
用意された茶器。
窓から差し込む光。
どれも乱れてはいない。
だが――静かに張っていた。
向かい合う二人。
イリス。
そして、帝国中央より派遣された監察官グラウス。
昨日、屋上でレオンと話したあと、イリスは考えをまとめた。
この地では、貴族に任じることが、必ずしも褒賞にはならない。むしろ、誇りを傷つける可能性がある。
兄には報告する。
そう決めた。
だが、帝都側の目は、兄だけではない。
帝国中央にも、騎士団領を見る者はいる。
そして今、その一人が目の前に座っていた。
「報告は受けております」
グラウスが淡々と言った。
声に感情はない。
「第七、第二、第十騎士団」
そこで一度、言葉を切る。
「興味深い」
評価。
だが、温度はない。
イリスは静かに視線を向けたまま、何も言わなかった。
グラウスは続ける。
「特に」
机の上に置かれた資料へ、軽く指を添える。
「団長レオンハルト・ヴァイス」
空気が、わずかに変わる。
「候補としては、申し分ない」
「……候補、ですか」
イリスが静かに返した。
「ええ」
グラウスは即答する。
「帝国貴族として迎えるに足る人材です」
断定だった。
「能力、実績、周囲への影響力。いずれも十分です」
資料の紙が、わずかに音を立てる。
「むしろ、放置しておく方が不自然でしょう」
イリスは目を伏せない。
ただ、黙って聞く。
「あなたの任務も、それでしょう」
視線が向けられる。
イリスは、わずかに息を整えた。
「……はい」
否定しない。
皇女としてこの地に来た理由。
表向きは、騎士団領との関係強化。
資金の流れを外へ向けるための観察。
そして、騎士団領の有力者を帝国貴族として任じ、帝都側の秩序に組み込めるかを見ること。それを、イリスは否定できない。
「では」
グラウスが言う。
「なぜ、動かないのですか」
鋭い問い。
静かな応接室に、まっすぐ置かれる。
イリスは顔を上げた。
「現状の方が」
言葉を選ぶ。
「価値が高いと判断しました」
静かに言う。
グラウスの目が細くなる。
「個人の判断で、任務を修正するのですか」
「はい」
イリスは答えた。
「その責任は、私が負います」
「……なるほど」
グラウスの口元が、わずかに動いた。
笑ったようにも見える。
だが、温かさはない。
「ですが」
少しの沈黙。
「それは帝国の判断ではない」
重く、置かれる。
イリスは黙った。
分かっている。
その意味を。
イリスがどう見たか。
イリスが何を感じたか。
それは重要ではある。
だが、帝国中央の判断とは違う。
帝国は、個人の感情で動くものではない。
グラウスは、そう言っている。
「優秀な人材は」
グラウスが続けた。
「外に出すべきです」
「閉じていては、意味がない」
正論だった。
東ロンバルディア騎士団領の中だけで力を使うより、帝国全体のために使うべき。
中央で働かせる。
別領へ配置する。
帝国貴族として立場を与える。
その方が、帝国としては合理的だ。
イリスも、それは理解している。
理解しているからこそ、簡単には否定できない。
「……一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
イリスが言った。
グラウスは頷く。
「どうぞ」
「仮に」
イリスは静かに続ける。
「レオン様を取り込んだ場合」
グラウスの視線が、少しだけ動いた。
「彼は、どう扱われるのですか?」
空気が、わずかに変わる。
グラウスは少しだけ考えた。
そして。
「適切な地位に就きます」
曖昧な答え。
イリスは視線を外さない。
「具体的には」
踏み込む。
グラウスは、ほんのわずかに息を吐いた。
「中央での任務」
淡々と告げる。
「あるいは、別領への配置」
イリスは黙って聞く。
「いずれにせよ」
グラウスは、はっきりと言った。
「現在の立場には戻りません」
それが、答えだった。
イリスは、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
理解する。
個ではなく。
駒として動かされる。
いや、帝国にとっては、それが当然なのだろう。
能力ある者を、必要な場所へ置く。
人材を固定しない。
力を帝国全体へ配分する。
それ自体は、間違っていない。
だが。
この地では、それだけでは済まない。
「それは」
イリスはゆっくりと言った。
「レオン様を、今の騎士団から切り離すということですね」
「結果としては、そうなります」
「東ロンバルディア騎士団領からも」
「場合によっては」
グラウスは否定しなかった。
「必要な人材を、必要な場所へ置く。それが中央の役割です」
「その人材が、現在の場所で必要とされていてもですか」
「帝国全体の必要が優先されます」
正論だった。
冷たいほどに。
イリスは、昨日の屋上で聞いた言葉を思い出す。
この地では、血筋や爵位よりも、その者自身の力が重んじられる。
上に立つこと自体は誇りになる。
自分の力でそこまで行ったなら。
だが、貴族という身分で上に立たされたなら、それは別だ。
誇りではない。
むしろ屈辱になる。
そして、弱い者が上に立った場合。
形だけなら従うかもしれない。
だが、本当の意味では従わない。
東ロンバルディア騎士団領の騎士は、そういう者たちだ。
面倒で、扱いづらい。
だが、だからこそ折れない。
イリスは、静かに息を吸った。
「監察官殿」
「何でしょう」
「この地の騎士たちは、帝都の騎士とは違います」
グラウスの眉がわずかに動く。
「血筋や爵位で上に置かれることを、必ずしも栄誉とは受け取りません」
「それは、報告にありました」
「はい」
イリスは頷いた。
「ですが、文字で読むよりも、重いものです」
声は静かだった。
「彼らは、力や実績を重んじます。才能、積み重ね、役割を果たしてきた事実。そういうものを見ます」
「軍人としては、珍しい価値観ではありません」
「それだけではありません」
イリスは言った。
「自分の実力以外で評価されることを嫌います。肩書きだけで上に置かれることを嫌います。身分だけで命じられることを、心の底では認めません」
グラウスは黙っている。
「レオン様を帝国貴族として任じたとしても」
イリスは、はっきりと言葉にした。
「それは、必ずしも褒賞にはなりません」
応接室の空気が、さらに張る。
「彼らにとっては、誇りを傷つけるものになり得ます」
グラウスは、わずかに眉を上げた。
「帝国貴族に任じられることが、誇りを傷つけると?」
「はい」
「そのようなことが、本当にあるとお考えですか」
「あります」
イリスは即答した。
グラウスの目が、少しだけ細くなる。
「皇女殿下」
声は丁寧だった。
だが、その奥には明確な反論がある。
「帝国貴族として迎えられることは、栄誉です。家を持ち、名を持ち、中央との繋がりを得る。それを拒む理由はありません」
「そう考える時点で」
イリスは静かに言った。
「あなたは、この領地のことを何も分かっていません」
グラウスの表情が、初めてわずかに動いた。
「……何も、ですか」
「はい」
イリスは視線を外さない。
「この騎士団領についても。ここにいる騎士たちについても」
言葉は静かだった。
だが、引かなかった。
「帝都では、貴族になることが栄誉です。多くの者が、それを望みます。それは事実です」
「ええ」
「ですが、ここでは違います」
イリスは続ける。
「東ロンバルディア騎士団領の騎士たちは、血筋や爵位よりも、その者自身の力を見ます。才能、実力、実績、積み重ねてきた役割。誰の家に生まれたかより、何を成したかを重んじます」
「軍人であれば、当然の価値観でしょう」
「それだけではありません」
イリスは首を横に振った。
「彼らは、自分の実力以外のところで評価されることを嫌います。肩書きで上に置かれることを嫌います。弱い者が身分だけで上に立てば、たとえ命令系統の上では従ったとしても、本当の意味では認めません」
「それは、統制上の問題です」
「その通りです」
イリスは否定しなかった。
「頑固で、偏屈で、扱いづらい。強さに偏りすぎているところもあります」
グラウスは黙る。
「ですが、その分、誇り高い」
イリスの声は、少しだけ低くなった。
「だからこそ、貴族という身分で上に立たされることが、必ずしも栄誉にはならないのです」
「……では、レオンハルト・ヴァイスも拒むと?」
「おそらく」
「中央から正式に命じられても?」
「形は受けるかもしれません」
イリスは少しだけ間を置いた。
「ですが、栄誉としては受け取りません」
グラウスの目が細くなる。
「そんなことはないでしょう。彼ほどの立場なら、帝国貴族に任じられる意味を理解できるはずです」
「理解はするでしょう」
イリスは静かに言った。
「ですが、受け入れることとは別です」
「拒否すると?」
「はい」
はっきりと言った。
「少なくとも、レオン様は、貴族身分で上に立つことを誇りとは思わないでしょう」
グラウスはしばらく黙った。
応接室に、紙の擦れる音だけが残る。
「あなたは、ずいぶんと彼を理解したつもりでいるのですね」
「つもりではありません」
イリスは答える。
「私は、見ました」
「短期間で?」
「短期間でも、見えるものはあります」
イリスは、静かに続けた。
「少なくとも、ここに来ず、資料だけを見ている者よりは」
グラウスの視線が、さらに鋭くなる。
だが、イリスは引かなかった。
「あなたは、レオン様を優秀な人材として見ています」
「事実でしょう」
「はい。事実です」
イリスは頷いた。
「ですが、それだけです」
「それだけ?」
「はい」
イリスは言った。
「この地で、レオン様がどう見られているのか。何を背負っているのか。彼がいることで、何が保たれているのか。それを見ていません」
「過大評価ではありませんか」
「その可能性はあります」
イリスは認める。
「ですが、過小評価よりは危険ではありません」
グラウスは、わずかに口元を動かした。
「興味深い見解です」
「ありがとうございます」
「褒めてはいません」
「承知しております」
静かなやり取り。
だが、空気は張り詰めたままだった。
「第七騎士団含む三騎士団は」
イリスは続けた。
「レオン様一人で回っているわけではありません。エリシア副官、首席書記官、各騎士団からの派遣者、書記官、騎士たち。多くの人が関わっています」
そこで一度、言葉を切る。
「ですが、その構造の中心に、レオン様がいます」
「代替は可能でしょう」
「中央なら、そう考えるでしょう」
「違うと?」
「はい」
イリスは即答した。
「代替できる地位と、代替できない役割があります」
グラウスは口を閉じた。
「レオン様の地位だけを見るなら、別の者を置くことはできるかもしれません」
イリスは続ける。
「ですが、この地の騎士たちが、その者を同じように認めるとは限りません」
「命令で従わせればいい」
「形だけなら従うでしょう」
レオンが言った言葉を、イリスは思い出す。
そして、そのまま告げた。
「ですが、本当の意味では従いません」
沈黙が続く。
グラウスは、指先で机を一度だけ叩いた。
「危険な土地ですね」
「はい」
イリスは否定しなかった。
「頑固で、偏屈で、扱いづらい」
「そこまで言いますか」
「事実です」
静かに言う。
「ですが、その分、誇り高い」
イリスは視線を外さなかった。
「だからこそ、無理に動かすべきではないと判断しました」
グラウスは椅子に背を預ける。
応接室に、少しだけ軋む音がした。
「それでも」
彼は言った。
「連れていかないのですか?」
静かに。
だが、逃げ場なく。
問う。
「帝国貴族として迎え、中央で使えば、彼の能力はより広く活かされるかもしれません」
「はい」
「東ロンバルディア騎士団領に閉じ込めておくより、帝国全体の利益になるかもしれません」
「はい」
「あなた自身も、それを理解している」
「理解しています」
「その上で」
グラウスは、まっすぐに問う。
「それでも、連れていかないのですか?」
空気が止まる。
イリスは目を閉じた。
一瞬だけ。
昨日の夕暮れ。
屋上から見た街。
貴族でないことを恥じない者たち。
名を与えられなくても、役割を果たす者たち。
形ではなく、在り方を守る者たち。
そして、レオンの言葉。
俺はたまたまだ。
たまたま生き残って、たまたま仕事が回ってきて、たまたまこうなっただけだ。
イリスは目を開く。
「……はい」
短く。
それだけ。
言い切る。
「私は、連れていくべきではないと判断します」
グラウスは椅子に背を預けたまま、しばらく黙っていた。
やがて、あっさりと頷く。
「承知しました」
だが。
「記録には残します」
重く、続ける。
「あなたの判断として」
イリスは頷いた。
「構いません」
「皇女殿下の個人的判断により、帝国貴族任命候補者レオンハルト・ヴァイスへの接触を保留」
グラウスは、淡々と確認するように言った。
「そのように記録されます」
「構いません」
同じ答えだった。
グラウスは立ち上がる。
「興味深い」
もう一度言う。
そして。
「結果が楽しみです」
それだけ残して、去る。
扉が閉まる。
静寂。
イリスは一人になる。
張っていた空気が、少しずつほどけていく。
ゆっくりと息を吐いた。
(……選んだ)
自分で。
はっきりと。
兄の意向を否定したわけではない。
帝国の利益を軽んじたわけでもない。
それでも。
今ここで、レオンを帝国貴族として取り込むべきではない。
この地から切り離すべきではない。
そう判断した。
その判断は、記録に残る。
責任も残る。
それでも、足取りが揺らぐことはなかった。
そのとき。
廊下の向こうから、少し騒がしい声が聞こえた。
「姫様、こちらです!」
「姫様、その書類は我々が!」
「姫様、走らないでください!」
リリア本人の声ではない。
だが、誰のことを呼んでいるのかは、すぐに分かった。
イリスは、ほんの少しだけ笑った。
「……はい」
誰に向けたわけでもなく、小さく返す。
そして、立ち上がる。
足取りは、迷っていなかった。




