それでも、少しだけ
――帝国暦三二〇年・秋終盤
東ロンバルディア帝国騎士団領
第七騎士団 本庁・廊下――夕方。
仕事は、まだ続いている。
人の流れ。
足音。
紙の音。
いつも通りのはずだった。
イリスは歩いている。
静かに。
迷いなく――
(……本当に?)
足が、ほんの少しだけ止まる。
すぐに、また動く。
だが。
(中央での任務)
(別領への配置)
言葉が、残っている。
グラウスの声。
(現在の立場には戻りません)
イリスは、目を閉じる。
ほんの一瞬。
(……合理的です)
思考が動く。
冷静に。
(より広い範囲で力を使える)
(影響力も増す)
正しい。
間違っていない。
だからこそ。
(……それでいいのか)
問いが残る。
答えは、出ているはずなのに。
そのとき。
「イリス様!」
軽い声。
リリア。
走ってくる。
「見てください!」
手に紙を持っている。
「今日の分、全部終わりました!」
少し誇らしげに。
笑う。
イリスは、視線を落とす。
紙を見る。
そして。
「……早いですね」
自然に言う。
「はい!」
嬉しそうに頷く。
それだけで。
空気が、少しだけ軽くなる。
「皆様も、とても動きやすそうで」
リリアが続ける。
「今日は、空気がいいですね」
少しだけズレた感想。
だが、間違ってはいない。
イリスは、ほんのわずかに目を細める。
(……そうですね)
心の中で返す。
廊下の先。
執務室が見える。
中では。
エリシア副官が指示を出している。
正確に。
迷いなく。
その横で。
騎士たちが動く。
自然に。
止まらずに。
回っている。
無理なく。
静かに。
(……これを)
(……崩すのですか)
問いが、形を変える。
リリアが言う。
「イリス様?」
少し不思議そうに。
イリスは、ゆっくりと顔を上げる。
そして。
小さく息を吐く。
「いいえ」
短く。
「何でもありません」
「戻りましょう」
歩き出す。
リリアが後ろをついてくる。
「はい!」
いつも通りの返事。
足音が、重なる。
執務室に入る。
空気が、変わる。
流れに乗る。
その中で。
イリスは静かに座る。
書類を取る手が動く。
迷いはない。
ほんの少し前まであったものは――
もう、なかった。
ただ一つだけ。
(……少しだけ)
胸の奥に残る違和感を、置いたまま。
それでも、手は止まらなかった。




