第77話 貴族でない誇り
――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 第七騎士団 本庁・屋上――夕暮れ。
空がゆっくりと色を変えていく。
夕暮れの光が、騎士団庁の屋根と街並みを淡く染めていた。
街が見える。
東ロンバルディア騎士団領。
壁の向こうに広がる家々。
道を行き交う人影。
遠くに見える商館の屋根。
騎士団の訓練場から聞こえる声。
すべてが、静かにそこにあった。
イリスは手すりに触れていた。
風が髪を揺らす。
先ほど、中庭で言いかけた言葉。
もう一つだけ話しておきたいことがある。
そう言ったあと、イリスは少しだけ場所を変えたいと告げた。
レオンは特に理由も聞かなかった。ただ、短く「構わない」と答えただけだった。
そして、二人は屋上へ来ていた。
ここなら、本庁の喧騒から少し離れられる。それでも、完全に切り離されるわけではない。
遠くの声も、街の気配も、風に混じって届いてくる。
「……綺麗ですね」
イリスが、ぽつりと呟いた。
後ろから足音が近づく。
「ここでいいのか」
「はい」
イリスは振り返らずに答えた。
「この景色を見ながらの方が、話しやすいと思いました」
「そうか」
レオンは隣に立つ。
同じ景色を見る。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
風が抜ける。
夕暮れの光が、屋上の石床を薄く染めている。
「帝都では」
イリスが静かに言った。
「“貴族になること”は、当然とされています」
淡々とした声だった。
けれど、先ほどの報告とは少し違う。
これは、皇太子の意向を伝えるための言葉ではなかった。
イリス自身の言葉だった。
「上に上がることが正しい」
「力を持つことに意味がある」
「家の名を高めることが、本人だけでなく、周囲のためにもなる」
風が抜ける。
レオンは街を見たまま言った。
「……ここは違うな」
「ええ」
イリスは頷いた。
「最初は、分かりませんでした」
正直に言う。
「なぜ望まないのか」
「なぜ外に出ないのか」
「なぜ、より高い身分を与えられることを、当然の栄誉として受け取らないのか」
少しだけ、間があった。
イリスは手すりに触れた指先を、わずかに動かす。
「帝都であれば、考えられません」
「だろうな」
「貴族になる機会を与えられれば、多くの者は受けます。家を持ち、名を持ち、帝都に繋がる。それは大きな意味を持ちます」
「悪い話じゃない」
「はい」
イリスは静かに頷く。
「悪い話ではありません。実際、帝国全体を考えれば、有効な手段です」
騎士団領の有力者を帝国貴族として任じる。
それは、形式としては昇格。
実質としては取り込み。
だが、ただの悪意ではない。
帝都と騎士団領との距離を縮める。
力を分散させず、帝国の秩序に組み込む。
そう考えれば、合理的な策だった。
「だから、兄の考えは間違っていません」
イリスは言った。
「政治としては、正しいのだと思います」
「だろうな」
レオンは短く返す。
責める声ではない。
納得している声だった。
「だが、お前は違うと思った」
「はい」
イリスは街を見る。
夕暮れの中に、騎士団領が広がっている。
整いきってはいない。
帝都のような完成された秩序でもない。
だが、そこには別の強さがある。
「今は、少し分かります」
静かに言った。
レオンは何も言わない。
ただ聞いている。
「この地では」
イリスが続ける。
「与えられるものではなく」
「自分たちで守っている」
レオンの視線は街のままだった。
イリスも同じ景色を見る。
「身分ではなく」
「役割で」
「家名ではなく」
「積み重ねで」
言葉を選びながら。
ゆっくりと。
「形ではなく」
「その在り方を」
風が、二人の間を抜けた。
遠くから、騎士たちの声が聞こえる。
誰かが笑っている。
誰かが注意している。
誰かが走っている。
それらすべてが、この場所の一部だった。
「この地では」
イリスは静かに言った。
「血筋や爵位よりも、その者自身の力や能力が重んじられるのですね」
レオンは街を見たまま、短く答える。
「まあな」
「才能、実力、積み重ねてきた功績。誰の家に生まれたかではなく、何をしてきたか」
「そういう連中が多い」
「それは、とても誇り高い考え方です」
「綺麗に言えばな」
レオンは少しだけ息を吐いた。
「実際は、強さに偏りすぎるところもある。頑固で、偏屈で、自分の認めたもの以外はなかなか受け入れない」
「ですが、その分、自分の力以外で評価されることを嫌う」
「ああ」
レオンは頷いた。
「上に立つこと自体は、誇りになる。自分の力でそこまで行ったならな」
イリスは、黙って聞いていた。
「だが、貴族という身分で上に立たされたなら、それは別だ」
「それは誇りではない」
「この地の古い連中にとっては、むしろ屈辱だろうな」
「最悪、侮られたと考えるだろう」
イリスは、わずかに目を伏せた。
帝都では違う。
爵位を与えられることは栄誉だ。
家名を得ることは上昇だ。
貴族になることは、本人だけでなく一族にとっても大きな意味を持つ。
だが、この地では同じ意味を持たない。
外から与えられた身分で上に置かれることは、自分の実力を否定されることにもなり得る。
「では」
イリスは静かに尋ねた。
「弱い者が、身分だけで上に立った場合は?」
レオンは、少しだけ口元を動かした。
「従わないだろうな」
「命令であっても?」
「形だけなら従うかもしれない。だが、本当の意味ではまず従わない」
レオンの声は淡々としていた。
「さっきも言ったが、東ロンバルディア騎士団領の騎士は、そういうところがある。面倒で、扱いづらい。だが、だからこそ決して折れない」
イリスは、隣に立つレオンを見た。
「では、レオン様も、相当な腕をお持ちなのですね」
「そんなことはない」
即答だった。
「俺はたまたまだ」
「たまたま、ですか」
「たまたま生き残って、たまたま仕事が回ってきて、たまたま今の地位になっただけだ」
イリスは返事に迷った。
謙遜にしては雑で。
否定にしては自然すぎた。
だが、この人がそう言うのなら、本気なのだろう。そして、だからこそ分かることもあった。
もし兄が、レオンハルト・ヴァイスを帝国貴族として任じようとしても。
この人は、まず受けない。
少なくとも、それを栄誉としては受け取らない。
イリスは、その話を口に出さなかった。
今ここで言えば、答えは分かりきっている。分かりきっている答えを、わざわざ聞く必要はない。
「だから」
イリスの視線は街のままだった。
「貴族でないことが」
少しだけ、声が低くなる。
「誇りになるのですね」
静かに言う。
風が止まったように感じた。
わずかな沈黙。
レオンは、小さく息を吐いた。
「……大げさだな」
短く返す。
だが、否定はしなかった。
イリスは、ほんの少しだけ微笑む。
「そうかもしれません」
「お前ら皇族は、すぐ大きく考えすぎる」
「否定はできません」
「面倒だな」
「はい」
イリスは素直に認めた。
その返事に、レオンは少しだけ目を細める。
「認めるのか」
「事実ですので」
「そうか」
そこで会話は一度途切れた。
だが、イリスはまだ言葉を終えていなかった。
「ですが」
続ける。
「私は、それを美しいと思いました」
はっきりと言い切る。
レオンは視線を外さない。
街を見る。
変わらない場所。
守られてきた場所。
そして、おそらくこれからも守られる場所。
「美しい、か」
「はい」
「騎士団領は、そんな上品なもんじゃないぞ」
「知っています」
「喧嘩もある。派閥もある。面倒も多い。書類も山ほどある」
「それも知っています」
「なら、美しいは言い過ぎだ」
「それでも、そう思いました」
イリスは静かに言った。
「完全だからではありません」
風がまた吹く。
「整っているからでもありません」
手すりに触れた指先に、少しだけ力が入る。
「不完全なまま、守ろうとしているからです」
レオンは黙った。
「帝都では、形を整えることが先に来ます。名を与え、位を与え、役職を与え、場所を決める。それで秩序を作ります」
「ああ」
「でも、ここは違います」
イリスはゆっくりと息を吐く。
「先に守るものがある。だから、そのために人が動く。必要なら形も作る。けれど、形が先ではない」
レオンは少しだけ眉を寄せた。
「買いかぶりすぎだ」
「そうでしょうか」
「ここの連中は、そんな立派なこと考えて動いてない」
「かもしれません」
イリスは頷いた。
「ですが、それでも動いています」
その言葉に、レオンは返さなかった。
イリスは街を見下ろす。
夕暮れの色が濃くなっていく。
「だから、帝都の形に無理に合わせるべきではないと思いました」
「帝国貴族にする案か」
「はい」
「兄には言うのか」
「言います」
イリスの声に迷いはなかった。
「ただし、反対するだけではありません」
「どうする」
「この地を変えずに、帝国全体と繋げる方法を考えます」
レオンは、少しだけイリスを見る。
「あるのか、そんなもの」
「まだ分かりません」
「分からないのに言うのか」
「言わなければ、変えられます」
イリスの声は静かだった。
だが、芯があった。
「帝都は、分かりやすい形を好みます。貴族に任じる。家を置く。肩書きを与える。責任を持たせる。それは強い方法です」
「ああ」
「だからこそ、別の形を示さなければなりません」
風が二人の間を通る。
「この場所を変えないために」
レオンは少し黙った。
そして、ぶっきらぼうに言う。
「勝手にしろ」
それだけ。
だが、拒絶ではなかった。
イリスは頷く。
「はい」
それで十分だった。
遠くから、少しだけ騒がしい声が聞こえた。また誰かがリリアを呼んでいる。
親衛隊か、第七騎士団の騎士たちか。
遠すぎて、顔までは分からない。
けれど、空気だけでわかる。
過剰で。
真剣で。
少し騒がしくて。
それでも、この場所では当然のように流れていく。
イリスはそちらを見た。
少しだけ目を細める。
「……やはり」
小さく呟く。
「こちらの方が、好きです」
風がまた吹く。
レオンは、何も言わなかった。
ただ、少しだけ空を見上げた。
夕暮れの色は、さっきよりも濃くなっている。
この場所は、帝都とは違う。
帝都のように整ってはいない。
だが、ここにはここだけの秩序がある。
貴族でないことを、恥じない者たちがいる。
名を与えられなくても、役割を果たす者たちがいる。形ではなく、在り方を守る者たちがいる。
イリスはその景色を、しばらく見つめていた。
そして、もう一度だけ、静かに言った。
「兄には、報告します」
レオンは短く返す。
「そうか」
「ええ」
イリスは手すりから手を離した。
「この地では、貴族に任じることが、必ずしも褒賞にはならないということを」
レオンは少しだけ目を細める。
「そうか」
「はい」
イリスは頷いた。
「それを理解しないまま動けば、帝都は、この地の誇りを傷つけます」
その言葉は、夕暮れの風に乗って、静かに消えていった。




