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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第1章 騎士団長編

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第76話 皇女の理由と、変えない理由

 ――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 第七騎士団 本庁・中庭――夕方。


 人の気配は少ない。


 仕事終わりの時間にはまだ少し早い。


 だが、本庁の中ほどにある中庭だけは、周囲の喧騒から少し離れていた。


 風だけが、静かに抜けていく。


 レオンは壁にもたれていた。


 空を見ている。


 雲が流れていた。


 速くもなく、遅くもなく。


 ただ、そのままの速度で。


「……お時間、よろしいでしょうか?」


 声がした。


 イリスだった。


 レオンは空を見たまま、短く答える。


「構わない」


 イリスが隣に立つ。


 少しだけ距離を空けて。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 風が抜ける。

 遠くで、騎士たちの声が聞こえる。


 それもすぐに薄れていく。


「風が、心地よいですね」


 イリスがぽつりと言った。


 レオンは視線だけを空に向けたまま、短く返す。


「そうだな」


「帝都の中庭とは、少し違います」


「そうなのか」


「はい。あちらは、もう少し整えられています。風の通り方まで、決められているように感じることがあります」


 イリスは中庭を見渡した。


 石畳。


 壁際の草木。


 遠くで聞こえる騎士たちの声。


 どれも、完全に整っているわけではない。


 だが、不思議と乱れてはいなかった。


「ここは、少し違います」


「雑ってことか」


「いえ」


 イリスは小さく首を横に振る。


「無理に整えすぎていない、という意味です」


 レオンは少しだけ目を細めた。


「褒めてるのか、それは?」


「おそらく」


「曖昧だな」


「まだ、私にも判断しきれていませんので」


 そこで、少しだけ間が空いた。


 風が、もう一度抜ける。


 イリスはその風を受けてから、静かに本題へ入った。


「以前、兄がお話しした件ですが」


「ああ」


 レオンは頷く。


「三つ、目的があると言っていたな」


「はい」


 皇太子アシュレイが、第七騎士団に関わろうとしている理由。


 それは、表向きの言葉だけでは終わらない。


 レオンも、それくらいは理解していた。


「一つ目は、すでに進んでいます」


「騎士団領との関係強化」


「はい」


 イリスは頷く。


「帝都と東ロンバルディア騎士団領の距離を縮める。表向きは、それが最も分かりやすい理由です」


「表向きの話だな」


「ええ」


 否定はなかった。


 レオンも、それ以上は追及しない。


 イリスは続ける。


「二つ目についても、状況が見えてきました」


「この地の資金を外へ動かす話か」


「はい」


「商人たちに、他の帝国領への投資を促す」


「兄が申し上げた通りです」


 イリスは静かに答えた。


「ですが、実際には簡単ではありません」


 レオンは小さく息を吐く。


「……滞ってるのか」


「ええ」


 イリスは短く答えた。


「ここは、強いです」


 風が、髪を少し揺らす。


「人も、物も、金も、力もあります。騎士団領としては、非常に安定しています」


「だろうな」


「ですが」


 イリスは中庭の向こうを見た。


「外へ出る必要性を、ここはあまり感じていません」


 レオンは何も言わなかった。


 その言葉は、間違っていない。


 東ロンバルディア騎士団領は強い。


 強いからこそ、外に頼る必要が少ない。


 外に広げる理由も少ない。


 内側で回る。


 内側で完結する。


 それは安定でもあり、停滞でもある。


「資金が外へ出なければ、帝国全体としての循環は弱くなります」


「騎士団領だけが強くても、帝国全体は強くならない」


「はい」


「なるほどな」


 レオンは納得したように呟いた。


 良い悪いではない。


 帝都側から見れば、当然の発想だった。


 そして。


「三つ目は?」


 レオンが促す。


 イリスは、少しだけ間を置いた。


 風が、ひとつ抜ける。


「騎士団の有力者を」


 静かな声だった。


「帝国貴族として任じることです」


 言い切った。


「形式は昇格です」


 そして、少しだけ声を落とす。


「――実質は、取り込みになります」


 空気が、わずかに沈んだ。


 レオンは壁から背を離さない。


 ただ、目だけを少し細める。


「……取り込むのか」


「はい」


 イリスは否定しなかった。


 逃げもしなかった。


「騎士団領の軍そのものには、簡単には触れられません」


「だから人からか」


「その通りです」


 軍を直接動かせないなら、人を動かす。


 有力者に帝国貴族としての立場を与える。


 帝都との関係を作る。


 家を作らせる。


 血縁を結ばせる。


 恩を与える。


 責任を負わせる。


 そうして、少しずつ帝国側の秩序へ組み込む。


 乱暴ではない。


 むしろ、政治としては丁寧ですらある。


 だからこそ、厄介だった。


 レオンは感情の薄い声で言う。


「よく考えてある」


 ただの評価だった。


 怒りもない。


 驚きもない。


 それが逆に、イリスには重く聞こえた。


「軍は触れない」


「はい」


「だが、人なら動かせる」


「はい、そうです」


「騎士団の有力者を帝国貴族にして、帝都側の秩序に入れる」


「その構想です」


 レオンは少しだけ視線を向けた。


「で」


 短く言う。


「お前はどっちだ?」


 問い。


 余計な前置きはない。


 イリスは、わずかに息を整えた。


「……おそらく」


 静かに言う。


「私は、そのために来ています」


 視線は逸らさない。


「候補を見つけるために」


 レオンも目を外さなかった。


 イリスは続ける。


「誰が帝都と繋がれるのか。誰が帝国貴族として任じられても、騎士団領内で影響力を保てるのか。誰が、橋渡しになるのか」


「観察役か」


「はい」


「皇女を使うには、贅沢だな」


「兄は、必要なら使います」


 イリスは淡々と答えた。


 レオンは少しだけ口元を動かす。


 笑ったわけではない。


「なるほどな」


 短く返す。


 それで終わるはずだった。


「ですが」


 イリスの声が続いた。


 言葉が、少しだけ止まる。


 風が通る。


 少しだけ、長い間。


「ここに来て、考えが変わりました」


 静かに言った。


 レオンは何も言わない。


 言葉を待つ。


 イリスは中庭の向こうを見る。


 本庁の窓。


 廊下を行き交う騎士。


 遠くから聞こえる声。


 そして、どこかで誰かがリリアの名を呼ぶ気配。


 この場所には、妙なまとまりがある。


 規則だけではない。

 命令だけでもない。


 人が、人を見て動いている。


「この場所は」


 イリスはゆっくりと言った。


「そのままの方が、強い」


 確信を込めて言い切る。


 レオンは、ほんの少しだけ目を細めた。


「……だろうな」


 短く同意する。


 イリスは続けた。


「帝都の秩序に組み込めば、見た目は整うかもしれません」


「ああ」


「制度としては分かりやすくなります。誰が誰に従い、誰が誰の家と繋がり、どの権限がどこに属するのか。帝都から見れば扱いやすくなるでしょう」


「だろうな」


「ですが」


 イリスは、はっきりと言った。


「弱くなります」


 レオンは黙っていた。


「ここは、帝都の秩序とは違う形で保たれています。第七騎士団、各騎士団、書記官、商人、領内の者たち。全員が、完全に同じ方向を見ているわけではありません」


「そうだな」


「ですが、必要な時には動きます」


 イリスの声は静かだった。


「それは、制度で縛っているからではありません」


「人で回ってるからか」


「はい」


 イリスは頷いた。


「そして、その中心にいるのは、あなたです」


 レオンは少しだけ眉を寄せた。


「俺は何もしてない」


「そう言うと思いました」


 イリスは、わずかに息を吐く。


「ですが、あなたが変えようとしないから、ここは変わらずにいられるのだと思います」


 レオンは答えなかった。


 イリスも、それ以上は押さない。


「だから」


 イリスが言う。


「私は、無理に動かすつもりはありません」


 宣言。


 命令ではなく、選択だった。


 レオンは壁から体を離す。


「好きにしろ」


 いつもの調子で言う。


 軽くもなく、重くもなく。


 ただ、それだけだった。


「ただ」


 一歩だけ前に出る。


「ここは変えさせない」


 それだけ。


 強くもなく、弱くもなく。

 ただ、事実のように。


 イリスは頷いた。


「承知しております」


 それで十分だった。


 風がまた通る。


 遠くから、少しだけ騒がしい声が聞こえた。


「姫様、そちらは――」


「姫様、足元にお気をつけください」


「そちらの書類は、我々が!」


 誰かがリリアを呼んでいる。


 親衛隊か、第七騎士団の騎士たちか。


 遠すぎて、顔までは見えない。


 ただ、声だけで分かる。


 いつも通りだった。


 過剰で。


 真剣で。


 少し騒がしくて。


 それでも、この場所では当然のように受け入れられている。


 イリスは、その声の方を見た。


 姿は見えない。


 だが、そこにある空気は分かる。


 ほんの少しだけ、息を吐く。


 そして。


「……本当に」


 小さく呟いた。


「変える必要がないのですね」


 誰に向けたものでもなく。


 けれど、確かめるように。


 レオンは何も言わなかった。


 イリスも、それ以上は続けなかった。


 風だけが、また中庭を抜けていく。


 遠くの喧騒が、少しずつ薄れていく。


 それで話は終わるはずだった。


 だが。


「……それと、レオン様」


 イリスが、もう一度口を開いた。


 先ほどまでの声とは、少し違っていた。


 皇女としての報告でも。


 兄の意向を伝える声でも。


 この地の状況を整理する声でもない。


 ほんの少しだけ、迷いがある。


 それでも、言わなければならないと決めた者の声だった。


 レオンは、視線だけを向ける。


「何だ」


 イリスはすぐには答えなかった。


 指先をわずかに握る。


 風が、その沈黙をさらっていく。


 やがて、イリスは静かに息を吸った。


「もう一つだけ、お話ししておきたいことがあります」


 中庭の空気が、少しだけ変わった。


 レオンは黙っていた。


 イリスも、まだ続けなかった。


 遠くの喧騒だけが、かすかに聞こえている。


 ここは変わらないままだった。


 変わらないまま、強かった。


 だからこそ、イリスは何かを話そうとしていた。

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