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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第1章 騎士団長編
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第75話 本人だけが知らない件

 ――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・執務室――昼。


 仕事は、いつも通り回っている。


 書類。

 指示。


 確認。

 処理。


 流れに乱れはない。


 昨日までに積まれていた分も、朝から順に片づいている。


 第七騎士団本庁は、今日も妙に整っていた。


 ただ一人。


 ダリオだけが、少し落ち着かなかった。


(……気のせいじゃないよな)


 手元には、第二騎士団分の確認書類。


 その横には、反省文の下書き用紙。


 見ないようにしても、視界の端に入る。


 だが、今ダリオの頭に残っているのは、反省文だけではなかった。


 昨日の光景。


 一瞬だけ崩れた副官殿の姿。


 完璧なはずのエリシアが、レオンに「シア」と呼ばれた瞬間、ほんのわずかに調子を崩した。


 ペン先がずれた。

 書類の置き方が乱れた。

 表情が、一瞬だけ柔らかくなった。


 あれは、見間違いだったのか。


 それとも、本当にあったのか。


 ダリオは、ちらりと視線を向けた。

 エリシアは、いつも通りだった。


「こちらは第十騎士団側の確認が必要です」


「はい」


「こちらは昨日分と合わせて処理します。重複しないよう、印を付けてください」


「承知しました」


「第二騎士団側の返答待ちは、こちらの棚へ」


 正確。

 無駄がない。


 声も、手つきも、視線も、いつも通り。


 隙はない。


(……見間違いか?)


 一瞬、そう思う。


 そう思いたくなる。


 だが。


(いや)


 確かに、あった。


 ダリオは小さく息を吐いた。


 そして、なるべく何気ない調子を作って口を開いた。


「エリシア副官」


「何でしょうか」


 即答だった。


 視線が来る。


 まっすぐに。


 逸らせない。


 ダリオは少しだけ背筋を伸ばした。


「その……団長とは」


「はい」


「親しいんですか?」


 自然な質問。


 に見せた。


 少なくとも、本人としては、そのつもりだった。


 エリシアは迷いなく答える。


「業務上の関係です」


 揺れはない。


 間もない。


 完璧な回答だった。


(……だよな)


 予想通りである。

 むしろ、そう答えるに決まっていた。


 だが、ダリオはもう一歩だけ踏み込んだ。


「名前で呼ばれることとか……」


 一瞬。

 ほんの一瞬だけ。


 エリシアの動きが止まった。


 書類をめくる指先が止まり、視線がわずかに落ちる。


 だが、それはすぐに戻る。


「……そのような事実はありません」


 断言。

 迷いなし。


 完全な否定。


 ダリオは黙った。


(いや、あっただろ)


 心の中で突っ込む。


 昨日、確かに聞いた。


 団長は自然に呼んでいた。


 しかも、エリシアも確かに反応していた。


 だが、目の前の本人は、今この瞬間、本気でなかったことにしようとしている。


 あるいは、本当に自覚していない。

 エリシアは、いつもの調子で続けた。


「不確かな情報を基にした認識は、業務上、好ましくありません」


 正論。

 隙がない。


 反論できない。


 ダリオは、ここで引くべきだと判断した。


 昨日、親衛隊に吊るされた経験は無駄ではない。


 不用意な踏み込みは、処分を生む。


 それは、身に染みている。


 だが。


「でも」


 ふわりとした声が、横から入った。


 リリアだった。


 書類を抱えたまま、少し首を傾げている。


「空気は、少し柔らかくなりますね」


 微笑む。


 自然に、何気なく。


 だが、核心を突いていた。


 ダリオが固まる。


(やっぱりあったな)


 疑いが、確信に変わった。


 リリアは嘘をついていない。


 というより、そういう駆け引きで言ったわけではない。ただ、感じたことをそのまま言っただけである。


 だからこそ強い。


 エリシアはリリアを見る。


 ほんの一瞬、何か言いかける。


 だが、やめる。


「……気のせいです」


 短く言った。

 それで終わらせる声だった。


 リリアは不思議そうに瞬きをする。


「そうですか?」


「そうです」


「でも、お兄様がエリシアさんを呼ぶ時、少し違う気がします」


「気のせいです」


「エリシアさんも、少し違う気がします」


「気のせいです」


 即答だった。


 普段より、少しだけ早い。


 ダリオは、心の中で確信を深めた。


(これは、ある)


 本人だけが否定している。

 しかも、かなり強めに否定している。


 つまり、ある。


 エリシアは淡々と書類へ視線を戻した。


「リリアさん、こちらの書類は第二棚へお願いします」


「はい」


「ダリオ副官は、第二騎士団分の確認を続けてください」


「はい」


 ダリオは反射的に返事をした。


 だが、ほんの少しだけ気になってしまう。


 エリシアの手元は、もう乱れていない。


 声も戻っている。


 表情も戻っている。


 完璧だった。


 完璧すぎた。


(本人、本当に気づいてないのか……?)


 ダリオはゆっくりと頷いた。


「……なるほど」


 納得したふりをする。


 その瞬間。

 エリシアの視線が、ダリオに向いた。


 静かに、真っ直ぐに。


 逃げ場がない。


「他に、何かありますか?」


 低い声。


 圧がある。


 ダリオの背筋が伸びた。


「……いえ」


「では、業務に戻ってください」


「はい」


 返事だけは早かった。


 ダリオは書類に視線を落とす。


 心の中で思う。


(……やっぱり怖い)


 結論は、変わらなかった。


 副官殿は怖い。


 それは間違いない。


 だが、もう一つだけ分かったことがある。


 副官殿には、本人だけが知らない顔がある。


 団長に「シア」と呼ばれた時だけ、ほんの少しだけ崩れる顔。


 リリアが見ても分かるほど、空気が柔らかくなる瞬間。


 そして本人は、それを認めない。

 いや、たぶん本当に認める気がない。


 ダリオは、反省文の下書き用紙をちらりと見た。


 昨日の自分なら、余計なことを言ったかもしれない。


 だが、今の自分は違う。


 学習している。


 親衛隊は見ている。

 副官殿も見ている。


 言っていいことと、言わない方がいいことがある。


 ダリオは、静かにペンを取った。


(これは、言わない方がいい)


 そう判断した。

 その判断だけは、正しかった。


 執務室では、いつも通り仕事が続いている。


 書類。

 指示。


 確認。

 処理。


 乱れはない。


 ただ、ダリオだけが知ってしまった。


 副官殿の裏の顔。


 そして。


 それを本人に指摘してはいけない、という事実を。

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