第74話 副官殿の裏の顔(※非公開)
――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・談話室――夕方。
仕事終わりの、少し緩んだ空気。
談話室には、ダリオと第七騎士団の騎士たちが何人か集まっていた。第二騎士団や第十騎士団から来ている者も、少しだけ混じっている。
話題は、自然と一つに収束していた。
「やっぱり副官殿だよな……」
「今朝のあれは、さすがにやばかった」
「親衛隊を止めたんだろ?」
「いや、止めたというか、処分の形を整えたというか」
「それがもう怖いんだよ」
ざわつき。
興奮というより、余韻に近いものが残っている。
地下で何があったのか。
全員がすべてを知っているわけではない。
だが、ダリオが屈強な男三人に連れていかれ、地下区画で何かしらの裁定を受け、最終的に反省文と掲示と報告と観察処分を背負って戻ってきた。
そのことだけは、かなり広まっていた。
ダリオは腕を組んでいた。
顔色は、まだ少し悪い。
「……あれは上だ」
短く。
だが、重い一言だった。
周囲の騎士たちが頷く。
「上?」
「格が違うってことか?」
「そうだ」
ダリオは低く言った。
「親衛隊も怖かった。あれは本当に怖かった。だが、最後に場を支配していたのはエリシア副官殿だった」
誰も笑わなかった。
実際、笑えなかった。
「吊るされたお前が言うと重いな」
「吊るされた話をするな」
ダリオは即座に返した。
その時だった。
談話室の扉が開き、クリスが入ってきた。
「何の話だ?」
「副官殿ですよ」
騎士の一人が答える。
「今朝の件で」
「ああ」
クリスは少しだけ笑い、空いている椅子に腰を下ろした。
「まあ、そうなるよな」
「強いですよね」
「怖いっていうか」
「隙がない」
「親衛隊まで黙らせるの、普通じゃないですよ」
口々に出る評価。
クリスは軽く頷いた。
「だいたい合ってる」
「やっぱりか」
「団長の側にいるだけありますね」
「副官殿がいるなら、第七は回るわけだ」
それぞれが納得しかけた時、クリスがふと口元を緩めた。
「ただな」
空気が少し変わる。
「お前ら、副官殿の“裏”知らないだろ」
沈黙と、ざわつき。
「……裏?」
「副官殿に?」
「あるのか、そんなもの」
ダリオも眉を寄せる。
「何だ、それは」
クリスは肩をすくめた。
「大した話じゃない」
「大した話じゃないなら言え」
「団長が、たまに“シア”って呼ぶんだよ」
空気が止まった。
「……は?」
誰かが、素で声を漏らす。
クリスは平然と続けた。
「しかもあれ、基本は二人の時だけだ」
「待て」
ダリオが片手を上げる。
「誰を?」
「副官殿を」
「誰が?」
「団長が」
「何と?」
「シア」
長い沈黙だった。
「……いやいや」
「そんなわけないだろ」
「副官殿だぞ?」
「さっき親衛隊の裁定を業務で止めた人だぞ?」
「反省文を掲示処分に整えた人だぞ?」
否定が重なる。
ダリオも苦笑した。
「……あれはないな」
結論のように言う。
あのエリシアが。
あの副官殿が。
レオンに「シア」と呼ばれたくらいで、どうにかなる。そんな姿は、どう考えても想像できなかった。
クリスは笑った。
「まあ、そう思うだろうな」
「思うだろうな、じゃない。無理がある」
「俺も最初はそう思った」
クリスは立ち上がる。
「まあ、そのうち分かる」
「そこで終わるのか」
「終わる」
それだけ言って、クリスは談話室を出ていった。
残された面々は、微妙な顔をする。
「……信じるか?」
「無理だろ」
「さすがに盛ってる」
「クリス副官補佐、たまに変なこと言うしな」
「副官殿に限って、それはない」
誰も本気にしていない。
ダリオも同じだった。
(……ないな)
そう思っていた。
■少し後・第七騎士団 本庁・執務室
仕事は、まだ少し残っていた。
夕方とはいえ、完全に終わったわけではない。
執務室では、エリシアが書類を確認していた。
「こちらは再提出です。数字の根拠が足りません」
「はい」
「こちらは第二騎士団側の確認待ちです」
「確認します」
「こちらは第十騎士団分と重複しています。二重処理にならないよう、印を付けてください」
正確。
無駄がない。
いつも通りだった。
ダリオは少し離れた席で、第二騎士団分の書類を確認している。反省文の下書きは、机の端に伏せて置いていた。
見えるだけで気分が重くなる。
その横で、レオンが別の束を手に取った。
「エリシア」
「はい」
エリシアはすぐに反応する。
いつもの返事。
いつもの姿勢。
レオンは書類を見たまま、何気なく続けた。
「シア、こっちは昨日の分と合わせて見ればいいのか?」
自然に。
あまりにも自然に。
呼んだ。
その瞬間。
エリシアの手が、止まった。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
「……っ」
小さく息が揺れる。
ペン先が、わずかに紙の上を滑った。
線が、少しだけ歪む。
それだけだった。
本当に、それだけだった。
だが、普段のエリシアを知っている者なら、それが異常だと分かる。
エリシアは顔を上げた。
その表情は、いつものものではなかった。
ほんの一瞬だけ。
迷いと、戸惑いが混ざったような。
それでいて、どこか柔らかい。
強く、隙がなく、冷静で、親衛隊の裁定すら業務で止める副官殿。
その顔ではなかった。
けれど、それはすぐに消えた。
「……失礼しました」
次の瞬間には、元に戻る。
完全に。
何事もなかったように。
「はい。その書類は昨日分と合わせて確認する必要があります。数字の修正が入る可能性がありますので、こちらで先に見ます」
「ああ、頼む」
「承知しました」
いつも通り。
何もなかったように。
だが。
書類の置き方が、わずかに乱れていた。
確認の順序が、一瞬だけずれていた。
それも、すぐに修正される。
完璧に。
完璧に戻すところまで含めて、いつものエリシアだった。
ダリオは見ていた。
見てしまった。
ゆっくりと、視線を上げる。
エリシアは、すでに通常に戻っている。
隙はない。
表情も戻っている。
声も戻っている。
書類の流れも戻っている。
何もなかったように。
だが――
「……あったな」
ぽつりと。
誰にも聞こえない声で、ダリオは呟いた。
クリスの話は、盛っていなかった。
本当にあった。
副官殿の裏。
いや、裏というより、普段は絶対に見えない小さな揺らぎ。
あのエリシアにも、そういう顔がある。
それを知ってしまった。
(……守りてえな)
一瞬、そう思った。
すぐに打ち消す。
(いや、無理だな)
ダリオは苦笑した。
守るどころではない。
今朝、親衛隊に吊るされ、エリシアに助けられ、反省文と掲示と観察処分を背負って帰ってきたばかりの男である。
誰かを守る前に、自分の発言を守るべきだった。
しかも、エリシアは守られる側ではない。
あの人も騎士だ、たぶん自分でだいたい何とかする。その上で、一瞬だけ崩れる。
だから、余計に見てはいけないものを見た気がした。
ダリオは黙ってペンを取る。
そして、書類に戻った。
仕事は、止まらない。
いつも通りに。
ただ一つだけ。
知らなくていいことを、知ったままで。




