第8話 名前の距離
――帝国暦三二〇年・春初め 第七騎士団 執務室――
執務室は、珍しく静かだった。 机の上に積まれていた書類の山も、一時的に片付いている。
「……終わったな」
レオンは椅子にもたれ、天井を見上げた。
「はい。本日分はすべて完了しております」
エリシアの声は、いつも通りだった。
揺れも、乱れもない。
(ほんと、すごいよな)
予定の確認。
書類の整理。
連絡の手配。
それらを当然のように片付けて、顔色ひとつ変えない。自分が同じことをやれと言われたら、三日で逃げ出す自信がある。
「団長」
「なんだ」
「次の予定ですが――」
「今日はもういい」
レオンは言葉を遮った。
ほんのわずかに、空気が止まる。
「……よろしいのですか」
「いいだろ。たまには」
「ですが」
「終わったんだろ?」
「はい」
「なら終わりだ」
エリシアは少しだけ黙った。何か言いたそうではあったが、結局、予定表を閉じる。
「……承知しました」
静かな時間が落ちた。
窓の外は、夕暮れに染まり始めている。
訓練場からは、まだ騎士たちの声がかすかに聞こえていた。
「なあ」
「なんでしょう」
レオンは少しだけ迷った。
別に、深い理由があったわけではない。
ただ、ふと思っただけだ。
「お前さ」
「はい」
「二人の時くらい、名前で呼べばいいんじゃないか」
言ってから、レオンは視線を逸らした。
(……何言ってるんだ、俺)
自分で言っておいて、妙に落ち着かない。
エリシアの手が止まる。
「……名前、ですか」
「レオンでいい。昔と同じで」
軽く言ったつもりだった。
けれど、返事はすぐに返ってこない。
エリシアは、いつものように姿勢を正したまま固まっていた。
「団長、それは――」
いつもの調子で返そうとしたのだろう。
けれど、その言葉は途中で止まった。
少しの沈黙。
そして。
「……レオン」
小さく、名前がこぼれた。
かすかな声だった。
けれど、確かに聞こえた。
空気が止まる。
レオンは目を瞬かせた。
次の瞬間、思わず吹き出す。
「なんだそれ」
「……申し訳ありません」
「いや、謝るな。名前呼んだだけだろ」
「慣れておりませんので」
「久し振りに聞いた」
「当然です」
エリシアは視線を逸らした。
ほんのわずかに、頬が赤い。それが珍しくて、レオンはつい面白くなった。
「もう一回」
「……は?」
「もう一回言ってみてくれ」
「お断りします」
即答だった。
けれど、声はいつもより少しだけ柔らかい。
「じゃあ、俺が呼ぶか」
「それは構いません」
「いいのか」
「はい。団長がどうお呼びになるかは、団長の自由です」
「そうか」
レオンは、何でもないように口を開いた。
「シア」
一言。
エリシアの肩が、わずかに揺れた。
「……はい」
短い返事。
それだけで、十分だった。
さっきまでと同じ執務室。
同じ机。
同じ距離。
それなのに、少しだけ空気が違っている。
「慣れろよ」
「努力します」
「努力することなのか?」
「はい。かなり」
「そんなにか」
「そんなにです」
レオンは小さく笑った。
エリシアも、ほんの少しだけ目を伏せる。
笑った、というほどではない。けれど、いつもの副官の顔とは少し違っていた。
「……団長」
「ん?」
エリシアは言いかけて、止まる。
ほんの少しだけ迷ってから、言い直した。
「……レオン」
今度は、はっきりと。
レオンは少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「いいじゃん、それ」
「からかわないでください」
「からかってない」
「今、笑いました」
「嬉しかっただけだ」
何気なく言った。
エリシアの表情が、一瞬だけ止まる。
レオンはそれに気づかないまま、椅子の背にもたれ直した。
「なんか、昔に戻った感じがするな」
「戻った、ですか」
「ああ。団長とか副官とか、そういうのの前に」
そこで言葉を切る。
レオンは少し考えたが、うまく続きが出てこなかった。
「まあ、いいや」
「そこで終わるのですか」
「うまく言えない」
「団長らしいですね」
「今はレオンじゃないのか」
「調子に乗らないでください」
エリシアの声は冷静だった。
けれど、完全にいつも通りではない。
窓の外は、夕暮れだった。
整った世界の中で。
騎士団長と副官の間にある、正しい距離の中で。
ほんの少しだけ。
二人の距離が、昔の名前に近づいていた。




