名前の距離(改稿)
――帝国暦三二〇年・春初め
東ロンバルディア帝国騎士団領 市場――
執務室は、珍しく静かだった。書類の山も、一時的に片付いている。
「……終わったな」
「はい。本日分はすべて完了しております」
いつも通りの声。
揺れも、乱れもない。
(ほんと、すごいよな)
レオンは椅子にもたれ、天井を見上げる。
「団長」
「なんだ?」
「次の予定は――」
「今日はもういい」
言葉を切る。
ほんのわずかに、空気が止まる。
「……よろしいのですか」
「いいだろ、たまには」
「……承知しました」
それ以上は言わない。
ただ、受け入れる。
静かな時間が落ちる。
「なあ」
「なんでしょう」
少しだけの間。
「お前さ」
「はい」
言葉を探す。
少しだけ迷う。
「二人のときくらい、名前で呼べばいいんじゃないか」
言ってから、視線を逸らす。
(何言ってるんだ俺)
エリシアの手が止まる。
「……名前、ですか」
「レオンでいい。昔と同じで」
軽く言う。
軽く言ったつもりだった。
短いはずのそれが、やけに長い。
「団長、それは――」
いつもの調子で返そうとする。
整えようとする。
でも。
「……レオン」
小さく、こぼれる。
かすれた声。
空気が、止まる。
レオンが目を瞬かせて――
吹き出した。
「なんだそれ」
「……申し訳ありません」
「いや、謝るな」
笑いながら言う。
「久し振りに聞いた」
「……当然です」
視線を逸らす。
わずかに、頬が熱い。
「もう一回」
「……は?」
「もう一回言ってみてくれ」
軽い調子。
完全に面白がっている。
「……お断りします」
けれど、声は少しだけ柔らかい。
「じゃあ、俺が呼ぶか」
「それは構いません」
レオンは、何でもないように口を開く。
「シア」
一言。
エリシアの肩が、わずかに揺れる。
「……はい」
短い返事。
それだけで、十分だった。
でも、さっきまでとは違う。
「慣れろよ」
「努力します」
少し遅れて返す。
「……団長」
「ん?」
言い直す。
ほんの少しだけ、迷って。
「……レオン」
今度は、はっきり。
レオンは笑う。
「いいじゃん、それ」
軽い、けれど少しだけ嬉しそうに。
窓の外は、夕暮れ。
整った世界の中で。
ほんの少しだけ。
二人の距離が、変わっていた。




