表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第1章 騎士団長編
PR
8/209

第8話 名前の距離

――帝国暦三二〇年・春初め 第七騎士団 執務室――


 執務室は、珍しく静かだった。 机の上に積まれていた書類の山も、一時的に片付いている。


「……終わったな」


 レオンは椅子にもたれ、天井を見上げた。


「はい。本日分はすべて完了しております」


 エリシアの声は、いつも通りだった。

 揺れも、乱れもない。


(ほんと、すごいよな)


 予定の確認。

 書類の整理。

 連絡の手配。


 それらを当然のように片付けて、顔色ひとつ変えない。自分が同じことをやれと言われたら、三日で逃げ出す自信がある。


「団長」


「なんだ」


「次の予定ですが――」


「今日はもういい」


 レオンは言葉を遮った。


 ほんのわずかに、空気が止まる。


「……よろしいのですか」


「いいだろ。たまには」


「ですが」


「終わったんだろ?」


「はい」


「なら終わりだ」


 エリシアは少しだけ黙った。何か言いたそうではあったが、結局、予定表を閉じる。


「……承知しました」


 静かな時間が落ちた。

 窓の外は、夕暮れに染まり始めている。


 訓練場からは、まだ騎士たちの声がかすかに聞こえていた。


「なあ」


「なんでしょう」


 レオンは少しだけ迷った。


 別に、深い理由があったわけではない。

 ただ、ふと思っただけだ。


「お前さ」


「はい」


「二人の時くらい、名前で呼べばいいんじゃないか」


 言ってから、レオンは視線を逸らした。


(……何言ってるんだ、俺)


 自分で言っておいて、妙に落ち着かない。


 エリシアの手が止まる。


「……名前、ですか」


「レオンでいい。昔と同じで」


 軽く言ったつもりだった。

 けれど、返事はすぐに返ってこない。


 エリシアは、いつものように姿勢を正したまま固まっていた。


「団長、それは――」


 いつもの調子で返そうとしたのだろう。

 けれど、その言葉は途中で止まった。


 少しの沈黙。

 そして。


「……レオン」


 小さく、名前がこぼれた。


 かすかな声だった。

 けれど、確かに聞こえた。


 空気が止まる。

 レオンは目を瞬かせた。


 次の瞬間、思わず吹き出す。


「なんだそれ」


「……申し訳ありません」


「いや、謝るな。名前呼んだだけだろ」


「慣れておりませんので」


「久し振りに聞いた」


「当然です」


 エリシアは視線を逸らした。


 ほんのわずかに、頬が赤い。それが珍しくて、レオンはつい面白くなった。


「もう一回」


「……は?」


「もう一回言ってみてくれ」


「お断りします」


 即答だった。


 けれど、声はいつもより少しだけ柔らかい。


「じゃあ、俺が呼ぶか」


「それは構いません」


「いいのか」


「はい。団長がどうお呼びになるかは、団長の自由です」


「そうか」


 レオンは、何でもないように口を開いた。


「シア」


 一言。


 エリシアの肩が、わずかに揺れた。


「……はい」


 短い返事。


 それだけで、十分だった。


 さっきまでと同じ執務室。


 同じ机。


 同じ距離。


 それなのに、少しだけ空気が違っている。


「慣れろよ」


「努力します」


「努力することなのか?」


「はい。かなり」


「そんなにか」


「そんなにです」


 レオンは小さく笑った。

 エリシアも、ほんの少しだけ目を伏せる。


 笑った、というほどではない。けれど、いつもの副官の顔とは少し違っていた。


「……団長」


「ん?」


 エリシアは言いかけて、止まる。

 ほんの少しだけ迷ってから、言い直した。


「……レオン」


 今度は、はっきりと。


 レオンは少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。


「いいじゃん、それ」


「からかわないでください」


「からかってない」


「今、笑いました」


「嬉しかっただけだ」


 何気なく言った。


 エリシアの表情が、一瞬だけ止まる。


 レオンはそれに気づかないまま、椅子の背にもたれ直した。


「なんか、昔に戻った感じがするな」


「戻った、ですか」


「ああ。団長とか副官とか、そういうのの前に」


 そこで言葉を切る。


 レオンは少し考えたが、うまく続きが出てこなかった。


「まあ、いいや」


「そこで終わるのですか」


「うまく言えない」


「団長らしいですね」


「今はレオンじゃないのか」


「調子に乗らないでください」


 エリシアの声は冷静だった。

 けれど、完全にいつも通りではない。


 窓の外は、夕暮れだった。


 整った世界の中で。


 騎士団長と副官の間にある、正しい距離の中で。


 ほんの少しだけ。


 二人の距離が、昔の名前に近づいていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ