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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第1章 騎士団長編
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第71話 軽口ひとつで死にかけた件

 ――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・執務室――昼。


 書類は減っている。


 だが、まだ多い。


 それでも流れは止まっていなかった。


 朝から続いている処理は、昼になっても崩れていない。


 イリスが書類を分ける。

 エリシアが手順を締める。


 リリアが間を繋ぐ。

 レオンが全体を見る。


 その中に、第二と第十から来た四人も、いつの間にか組み込まれていた。


 ダリオは処理済みの束を横に置き、大きく背伸びをした。


「ふぅ……」


 一息つく。

 そして、何となく周囲を見る。


 リリアが軽い足取りで動いていた。


「こちらお願いします!」


 明るい声。

 変わらない。


 その声が通るたびに、少しだけ空気が軽くなる。


 誰かが詰まりかける。


 リリアが近づく。


 声をかける。

 相手の顔が緩む。


 次の動きが早くなる。朝、本庁前で見た光景が、ダリオの頭をよぎった。


 両側に整列した騎士たち。


 一斉に直立する音。

 本庁前を震わせるような声。


 姫様、おはようございます。


 あれを毎朝やっている。


 最初はどうかしていると思った。


 いや、今でもどうかしているとは思っている。だが、その理由も少し分かってしまった。


 あれは、ただの挨拶ではない。


 第七騎士団の朝を起動させる合図だった。


 その中心にいる本人は、まったく分かっていない顔で、今日も普通に笑っている。


 だからこそ。


 少し疲れて。

 少し気が緩んで。


 ほんの少し、本音が混じった。


「なあ、姫様」


 ダリオは軽い調子で声をかけた。


 深い意味はなかった。


 軽口だった。第二騎士団の空気なら、その場で笑って流れる程度の言葉だった。


「うち来ません?」


 ――その瞬間。


 止まった。


 ペンの音が消える。

 紙の擦れる音が消える。


 椅子を引く音も、足音も、誰かの咳払いも、すべてが一斉に消えた。


 執務室の空気が、完全に固まる。


 視線が集まる。


 ダリオへ。


 正面から。

 横から。

 書類棚の方から。

 入口近くから。


 先ほどまで穏やかに仕事をしていた第七騎士団の騎士たちが、全員ではないにせよ、妙に揃った動きでこちらを見ていた。


(……あ)


 本人が、一番先に気づいた。


 これは、言ってはいけないやつだった。


 冗談の種類を間違えた。

 場所を間違えた。

 相手を間違えた。


 ついでに、聞いている人数も間違えた。


 ミナが固まっている。

 顔色が少し悪い。


 シエラは静かに目を伏せた。

 帳面を開こうとして、やめた。


 書いたら証拠になると判断したのかもしれない。


 ヴァルドは何も言わない。

 ただ、ほんの半歩だけ距離を取っていた。


(見捨てたな、お前)


 ダリオは心の中で思う。


 ヴァルドは目を合わせない。


 完全に見捨てていた。


 少し離れた場所で、クリスが小さく思う。


(終わったな)


 その時。


「え?」


 リリアが振り返った。


 目を瞬かせ、真面目に首を傾げる。


「ええと……どちらにでしょうか?」


 完全に、本気で受け取っていた。


 悪意も警戒もない。

 ただ、普通に質問している。


 その無垢さが、かえって場の緊張を増した。ダリオの顔から血の気が引く。


「いや、あの、違っ――」


 その声を遮るように、低く静かな声が落ちた。


「ダリオ副官」


 エリシアだった。


 声は荒くない。


 だが、逃げ場がない。


 怒鳴られる方がまだましだった。


 静かな声で、完全に詰めに来ている。


「その発言の意図を、説明していただけますか」


 ダリオは反射的に背筋を伸ばす。


「いや、冗談で――」


「冗談であれば」


 エリシアは即座に被せた。


「尚更、問題です」


 一歩、近づく。


 圧がある。

 執務室の温度が下がった気がした。


「当騎士団の運用に深く組み込まれている人物に対する、不適切な勧誘行為」


「および、現在進行中の共同処理体制への影響を軽視した発言と判断されます」


 言葉が止まらない。


「さらに、リリアさんが発言の冗談性を理解していない以上、誤認誘導の可能性もあります」


「どのような意図で発言されたのか」


「簡潔に説明を」


 逃げ道がない。


(怖え)


 ダリオは本気で思った。


「いや、本当に冗談で……! ちょっと、欲しいなって思っただけで……!」


 言ってから、さらに失敗したと気づいた。


 欲しい。


 今、言ってはいけない単語だった。

 空気がもう一段重くなる。


 近くの第七騎士団員の一人が、無言で書類を置いた。別の騎士が、無言で背筋を伸ばした。


 何もしていない。

 何も言っていない。


 だからこそ怖い。


「欲しい」


 エリシアが静かに繰り返した。


「第二騎士団への勧誘、という理解でよろしいですか」


「違う違う違う!」


 ダリオは慌てて両手を振った。


「第二騎士団に引き抜くとか、そういう意味じゃない!」


「では、どういう意味ですか」


「いや、だから、その……」


 ダリオは必死に言葉を探した。ここで正しい言葉を選べれば、まだ助かったかもしれない。


 だが、選んだ言葉は、さらに悪かった。


「俺の家に遊びに来ないかって意味で」


 空気が死んだ。先ほどまで重かった空気が、さらに底へ落ちた。


 ミナが小さく口を押さえる。


 シエラは静かに目を伏せた。


 ヴァルドは完全に視線を逸らした。


 助ける気は、もうない。


「……ダリオ副官」


 エリシアの声が、さらに低くなった。


「はい」


「当騎士団の中核的人員に対し、職務上の場において、私的な訪問を勧誘したという理解でよろしいですか?」


「よろしくないです」


「ですが、今そうおっしゃいました」


「言いましたけど、そういう意味ではなくて!」


「では、どういう意味ですか」


「だから、うちには妹がいるんだよ!」


 ダリオは慌てて説明を足した。


「姫様と同じくらいの年頃で、たぶん話も合うだろうし、遊び相手になるかなっていうか」


 言いながら、自分でも分かってきた。


 これは弁明になっていない。


 むしろ、別方向に危ない。


 エリシアの目が細くなる。


「つまり、リリアさんを、ご自身の妹君の遊び相手として私邸へ招く意図だった、ということですか」


「言い方!」


「内容確認です」


「その言い方だと、俺がものすごくまずいことを言ったみたいになるだろ」


「実際に、非常にまずい発言です」


「ですよね!」


 ダリオは即座に認めた。


 その時。


「遊びに行ってもいいんですか?」


 リリアが、素直に目を輝かせた。


 悪意はない。

 警戒もない。


 ただ、純粋に確認しているだけだった。


 だからこそ、場がさらに凍った。


 ダリオの顔から血の気が引く。


「違います! 違わないけど違います!」


「どちらなんですか?」


 シエラが淡々と聞いた。


「今は聞かないでくれ!」


 ダリオは本気で叫びそうになった。


 エリシアはリリアへ視線を向ける。


「リリアさん」


「はい」


「今の発言は、正式な招待ではありません」


「そうなのですか?」


「そうです」


「でも、妹さんがいらっしゃるんですよね?」


「その点は否定されていません」


「では、遊びに行ったら、その方ともお話しできるのでしょうか?」


 リリアは本当に楽しそうだった。


 ダリオは頭を抱える。


「やめてくれ、姫様。俺の罪が増える」


 エリシアが静かに言う。


「増えています」


「確認しないでくれ」


「必要な確認です」


 リリアは少しだけ残念そうに頷いた。


「では、今は行かない方がいいのですね」


「はい」


 エリシアが即答する。


「今は、ではなく、正式な手順と団長の許可がない限り、行かない方がいいです」


「分かりました」


 リリアは素直に頷いた。


 その素直さが、ダリオの胸をさらに刺した。


「いや、俺が悪いみたいになってるけど、俺が悪いな、これ」


「はい」


 ミナが小さく頷いた。


 シエラも頷いた。


 ヴァルドも頷いた。


 周囲の第七騎士団員たちも、静かに頷いた。


 ダリオは完全に負けた顔をした。


「全員で頷くなよ……」


 その時だった。


「……何を騒いでいる」


 そこへ、レオンが来た。


 いつの間にか近くに立っている。


 視線が集まる。ダリオは助かったと言わんばかりに顔を上げた。


「団長! 俺は悪く――」


「リリアさんを勧誘されました」


 エリシアが即答した。


 余計な説明はない。


 だが、十分すぎた。


 レオンはダリオを見る。


「そうか」


 そして、あっさり言った。


「別にいいだろ」


 執務室が凍った。


(よくない)


 その場にいた大半の心が一致した。


 だが、レオンは本気で分かっていない顔をしている。


「どうせ団長は自分だし、第二に来るかどうかは本人次第だ」


 クリスが片手で顔を覆った。


(だめだこいつ)


 エリシアの表情が、さらに冷たくなる。


「団長」


「何だ」


「今のご発言は、組織防衛上、不適切です」


「組織防衛?」


「はい」


 エリシアは淡々と言う。


「リリアさんを外部へ移すことは、第七騎士団の士気、朝の起動、業務連携、騎士たちの精神的安定に大きな影響を及ぼします」


「そんなにか?」


「そんなにです」


 即答だった。


 少し離れた場所で、シエラが小さく頷く。


「現状の観測では、否定できません」


 ミナも小声で続けた。


「……姫様がいなくなったら、朝が止まりそうです」


 ダリオはその発言に救われたような、さらに追い詰められたような顔をした。


「いや、俺、本当に連れていく気はなくてな……」


「発言は慎重にお願いします」


 シエラが静かに言った。


「今のは、第二騎士団による第七騎士団中核機能の引き抜き打診、または私邸への私的招待と解釈される余地があります」


「どっちも重すぎるだろ」


「発言が軽すぎたためです」


「それはそう」


 ダリオは抵抗を諦めた。


 その時、リリアが少し照れたように笑った。


「必要とされるのは、嬉しいことですね」


 その言葉に、空気がほんの少しだけ緩む。


 リリアはダリオへ向き直った。


「ですが」


 にこりと笑う。


「今は、ここで頑張りたいと思っています」


 まっすぐだった。

 迷いがない。

 軽くもない。


 その一言で、固まっていた空気が少しずつ戻っていく。エリシアの肩の力が、ほんのわずかに抜けた。


 ミナも小さく息を吐く。


 シエラはようやく帳面に一行だけ書いた。


「リリアさん、異動意思なし」


 ダリオは椅子にもたれ、大きく息を吐いた。


「……助かった」


 小さな声だった。


 クリスが横から言う。


「軽口に命をかけるなよ、お前」


 ダリオは苦笑した。


「……二度と言わん」


 周囲の騎士たちが、静かに頷いた。


 教訓としては、十分だった。


 だが、ただ一人。


 レオンだけが首を傾げていた。


「で、何がそんなに問題だったんだ?」


 エリシアが目を閉じる。


 シエラが帳面を閉じる。


 ヴァルドが低く言う。


「団長は、もう少し危機感を持たれた方がよいかと」


「何の危機だ」


「今のです」


「今の?」


 やはり分かっていない。


 リリアは不思議そうに笑っている。


 ダリオは、もう二度とこの手の冗談は言わないと決めた顔をしていた。


 クリスは、心の中で静かに思う。


(……親衛隊がここにいなくて、本当によかった)


 第七騎士団の執務室は、再び動き出す。


 ペンの音が戻る。


 紙の音が戻る。


 人の声が戻る。


 だが、ダリオだけはしばらく、リリアの方を見ないようにしていた。


 軽口ひとつで死にかけた。その事実だけは、はっきり理解していた。しかし、事件はまだ終わらなかった。

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