第69話 噂の姫様 ― 欲しくなる理由
――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国 東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・執務室――昼。
仕事は、回っている。
いや、回りすぎている。
朝の光景が、まだ四人の頭に残っていた。
本庁前の両側に整列した、およそ五十人の騎士。リリアが近づいた瞬間、一斉に直立した音。そして、本庁前を震わせるような大声。
「姫様、おはようございます!」
あれを、毎朝やっている。
式典ではない。
閲兵でもない。
ただの朝だ。
だが、そのただの朝が、第七騎士団では明らかに何かを起動させていた。
始業直後から、空気が軽い。
書類の流れが速い。
声を荒らげる前に誰かが気づき、迷いが生まれる前に手順が出る。第七騎士団の仕事は、朝からすでに回る形になっていた。
ヴァルドは処理済みの書類を置いた。
「……なあ」
低い声だった。
シエラが視線を向ける。
「どうしました?」
「仮にだ」
ヴァルドは少しだけ言葉を選んだ。
「仮に、あれを他に持っていったら、どうなる」
ダリオが吹き出した。
「おいおい」
その顔には、分かっていても言うな、という色があった。
「そんな簡単に持っていけるもんじゃねえだろ」
「分かっている」
ヴァルドは真顔だった。
「結果だけ考えろ」
シエラは少しだけ考えた。
そして、執務室全体を見る。
「……再現できる可能性は低いです」
そこで一度、言葉を切る。
「ですが、成功した場合、組織の効率は確実に跳ね上がります」
ミナが小さくリリアを見る。
リリアは少し離れた場所で、書類を受け取っていた。
「ありがとうございます」
目を合わせて、笑う。
ただ、それだけだった。
それだけなのに、相手の肩の力が抜ける。
次の動きが少し早くなる。
「こちら、確認お願いします」
「はい、任せてください!」
明るい声が通る。
周囲の空気が、ほんの少し軽くなる。
ミナがぽつりと言った。
「……欲しい、とは思います」
ダリオが腕を組む。
「まあ、気持ちは分かるな」
朝のあれを見たあとでは、否定しにくかった。
五十人ほどが整列して、大声で姫様を迎える。普通なら奇妙な儀式にしか見えない。
だが、第七騎士団では違った。あれが終わった瞬間、騎士たちは浮つくどころか、職務へ切り替わった。
むしろ、動き出しが早くなっていた。
あれを見れば、どの騎士団でも思う。
自分たちのところにも、あれがあれば、と。
だが。
「でも……」
ミナが、少し困ったように言った。
「同じことをしてるのに、全然違いますよね」
視線が動く。
リリア。
そして、エリシア。
エリシアは書類を確認していた。
「不備があります」
即答だった。
「こちらを修正してください」
正確。
無駄がない。
指摘も早い。
手順も明確。
その場にいる者は、迷わず次の行動に移れる。ただし、相手の背筋は伸びる。
動きは慎重になる。
結果として精度は上がる。
けれど、空気は軽くならない。
シエラが頷いた。
「ええ。作用が違います」
リリアは、繋ぐ。
エリシアは、整える。
どちらも正しい。
どちらも必要。
だが、場に与える影響が違う。
リリアは、相手の動きを軽くする。
エリシアは、相手の動きを正確にする。
片方だけでは、流れは緩む。
片方だけでは、場が硬くなる。
両方あるから、止まらない。
ダリオが苦笑した。
「片方は天使で」
少し間を置く。
「片方は怖えな」
シエラが即座に訂正する。
「恐怖ではなく、緊張です」
「似たようなもんだろ」
「違います」
「お前、エリシア副官側だよな」
「記録上、必要な区別です」
ミナが小さく言う。
「でも、どちらもいないと困ります」
その言葉に、四人は黙った。
実際、そうだった。
リリアがいれば、空気は軽くなる。
だが、手順までは締まらない。
エリシアがいれば、手順は締まる。
だが、空気は軽くならない。
イリスがいれば、書類の流れは整う。
レオンがいれば、全体の詰まりを見落とさない。
そして、第七騎士団の騎士たちが、その空気を当然のものとして受け入れている。
だから、この場所は回っている。
ヴァルドが低く言った。
「……リリア様だけを持っていっても、同じにはならん」
ダリオが頷く。
「だろうな」
「朝の整列だけ真似しても、駄目ですか?」
ミナが尋ねる。
ダリオは即答した。
「事故る」
シエラは淡々と口を開く。
「多分、あれは強制されていないから、だと思います。」
「皆が望んでやっているから、こそ効果があるんです。」
ヴァルドは頷く。
「そうだろうな。」
「それがなければ……」
シエラか続ける。
「おそらく、ただの奇妙な儀式になります」
「今朝のも十分奇妙だったけどな」
「ですが、機能していました」
「そこが怖いんだよ」
ダリオが頭をかいた。
「あんなの、普通なら上から禁止されるぞ。五十人くらい並んで、毎朝大声で姫様に挨拶してるんだからな」
ヴァルドが言う。
「禁止しても、別の形で残るだろう」
「何でだ?」
「必要だからだ」
短い答えだった。
だが、誰も否定しなかった。
あの朝の挨拶は、ただの遊びではない。
騎士たちがリリアを迎える。
リリアが応える。
その瞬間に、眠気も雑談も緩みも、一度に職務へ切り替わる。
外から見れば式典。
中から見れば、起動。
だから、毎朝やっている。
ミナが小さく呟いた。
「……欲しくなる理由、分かりますね」
「分かるな」
ダリオは苦い顔で頷いた。
「でも、持っていけない理由も分かる」
シエラが帳面に書き込む。
「第七騎士団の士気起動は、リリア様単体ではなく、周辺構造を含む機能。移植困難」
ダリオがその手元を見た。
「だから、それ上に出すなって」
「必要なら出します」
「出したら、絶対に誰かが言い出すぞ。うちにも姫様を用意しろって」
ミナが小さく首を振る。
「用意できるものなんですか?」
「できない」
ヴァルドが即答した。
「姫様は役職ではない」
シエラが頷く。
「制度でもありません」
ダリオが続ける。
「任命した瞬間、たぶん違うものになるな」
リリアは、何も知らない顔で笑っていた。
「なんだか今日は、皆さん動きが速いですね」
ただの感想だった。
本人は分かっていない。
自分が朝を起こしていることも。
周囲の動きを軽くしていることも。
外部の副官と書記官たちが、真剣に「欲しい」と考えていることも。その無自覚さが、余計に厄介だった。
一方のエリシアは、少し離れたところでリリアを見ていた。
ほんの一瞬だけ、視線を落とす。
同じように仕事を回している。
むしろ精度なら、自分の方が高い。
だが、リリアが動かすものと、自分が動かすものは違う。それを理解しているからこそ、何も言わない。
イリスが静かに書類を整えた。
「こちらは第十へ」
「こちらは第二で確認を」
「こちらは団長確認です」
声は穏やか。
けれど、流れは途切れない。
リリアが空気を繋ぐ。
エリシアが手順を締める。
イリスが流れを整える。
レオンが全体を見る。
四つが重なって、ようやく今の状態になる。
ダリオが小さく息を吐いた。
「どっちもいねえとダメか」
その一言は、軽く聞こえた。
だが、妙に重かった。
ヴァルドが頷く。
「どちらかではない」
「全部か」
「全部だ」
短いやり取り。
それで十分だった。
ミナが周囲を見る。
山のような書類。
次々に動く騎士たち。
迷いなく飛ぶ指示。その中で、自分たちももう自然に動いている。
ダリオがふと気づいたように言った。
「……今の俺たちも、その仕組みの一部になってるな」
誰も笑わなかった。
事実だった。
昨日は外から見ていた。
今朝は驚いていた。
だが昼には、もうこの流れの中で仕事をしている。
リリアが声をかければ、自然に少し動きやすくなる。
エリシアが手順を出せば、すぐに従う。
イリスが書類を分ければ、それを前提に手を動かす。
レオンが視線を向ければ、誰かが詰まりに気づく。
気づけば、もう戻れない。
比較してしまう。
自分たちの騎士団では、なぜ止まるのか。
なぜ重いのか。
なぜ、あの朝がないのか。
ミナが小さく言った。
「……姫様がいなくなったら、私たちも止まりそうです」
ダリオが苦笑する。
「今だけはな」
だが、すぐに真顔になった。
「いや、今だけじゃねえかもな」
ヴァルドが書類を一枚取る。
「だから、無理だ」
短く言った。
「あれは、人員ではない」
視線の先には、リリアがいる。
笑っている。
ただ、それだけで流れが続く。
「何かの仕組みだ」
シエラが頷いた。
「ええ」
そして、帳面に書き加える。
「個ではなく、機能」
その時、少し離れた場所でレオンが四人を見ていた。
腕を組み、どこか嫌そうな顔をしている。
隣にクリスが来る。
「考えてるな」
「考えなくていい」
レオンは即答した。
「無理だろ。あれだけ見せたら」
「見せたつもりはない」
「毎朝やってるんだろ」
「……そうだな」
否定できなかった。
クリスは笑う。
リリアが遠くで声を上げる。
「こちら、次お願いします!」
その声に、騎士たちが自然に応える。
書類が流れる。
人が動く。
空気が止まらない。
レオンはそれを見て、小さく呟いた。
「……面倒だな」
その言葉を、今回は誰も否定しなかった。
この場所は、もう切り離せない。
誰か一人を連れていけば済むものではない。役職でも、制度でも、命令系統でもない。
リリアがいて。
エリシアがいて。
イリスがいて。
レオンがいて。
第七騎士団の騎士たちが、それを当然の朝として受け入れている。だから、欲しくなる。
そして、だからこそ持っていけない。
第七騎士団は、すでに一つの仕組みになっていた。




