第68話 噂の姫様 ― 朝が完成している場所
――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁前――朝。
まだ、始業前だった。
昨日一日、第七騎士団の中で働いた第二と第十の四人は、いつもより少し早く本庁前に来ていた。
第二騎士団副官、ダリオ。
第十騎士団副官、ヴァルド。
書記官、シエラ。
書記官、ミナ。
昨日、四人は見た。
イリスの処理能力。
エリシアの運用。
レオンの全体把握。
そして、リリアという少女の存在。
第七騎士団の中で“姫様”と呼ばれる彼女が、場の空気を軽くし、止まりかけた流れを動かしてしまうところも見ている。
だから、何も知らないわけではない。
むしろ、知ったつもりでいた。
だが。
「……何だ、これは」
ダリオが執務室窓から本庁前を見下ろして、低く呟いた。
本庁へ続く道の両側に、騎士たちが並んでいた。数は、およそ四十〜五十。
左右に分かれ、道を空けるように整列している。
姿勢は正しい。
服装、装備も整っている。
無駄話はない。
誰かを待っているのは明らかだった。
ミナが小さく瞬きをする。
「……何か、式典があるんですか?」
シエラも周囲を観察している。
「壇上挨拶、あるいは閲兵の準備に見えます」
「いや、聞いてないぞ」
ダリオが眉を寄せる。
「俺たち、何かに参加するのか?」
ヴァルドは腕を組んだまま、動じていなかった。
「まあ、見ておけ」
「だから何をだよ」
「朝だ」
「これを朝で済ませるな」
ダリオが思わず突っ込んだ。
どう見ても、ただの朝ではない。
少なくとも、第二騎士団や第十騎士団で毎朝見る光景ではなかった。
騎士たちは、両側に整列したまま動かない。だが、緊張で固まっているわけではない。
どこか、待ち構えている。
そして、楽しみにしている。
ミナが不安そうに小声で言う。
「本当に、何か始まるんですか?」
「始まる」
ヴァルドが短く答えた。
「第七騎士団のいつもの朝がな」
その時だった。
軽い足音が近づいてきた。
本庁前の空気が、一瞬で変わる。
両側に並んでいた騎士たちの背筋が、さらに伸びた。
足が揃う。
視線が揃う。
空気が揃う。
次の瞬間、明るい声が響いた。
「おはようございます! 今日は空気が軽いですね!」
リリアだった。
昨日も見た少女。
書類を運び、札をつけ、迷う者の間に自然に入り、場の流れを止めなかった少女。
その彼女が、本庁前に近づいた。
ただ、それだけだった。
だが、騎士たちは一斉に直立した。
鎧の音が、揃って鳴る。
そして。
「姫様、おはようございます!」
大声が響いた。
本庁前の空気が震えるほどの声だった。
ダリオが固まった。
ミナも固まった。
シエラだけは、手元の帳面を開こうとして、途中で手を止めている。記録する前に、理解が追いつかなかったのだ。
リリアは、まったく驚いていなかった。
むしろ、いつも通りという顔で笑う。
「はい、おはようございます! 今日もよろしくお願いします!」
「よろしくお願いします、姫様!」
「姫様!朝からご苦労様です!」
「姫様のおかげで、今日も朝から頑張れます!」
声が揃う。
リリアが歩く。
両側の騎士たちは、彼女が通る道をきれいに空けている。
その姿は、どう見ても式典だった。
少なくとも、外部の者にはそう見えた。
ミナが震えるような声で言う。
「……あの」
「何だ?」
ヴァルドが答える。
「これ、毎朝やってるんですか?」
その問いに、近くにいた第七騎士団の騎士が当然のように答えた。
「毎朝です」
長い沈黙。
ダリオが執務室窓下の騎士達を見る。
「毎朝?」
「はい」
「五十人くらい並んで?」
「その日、本庁前にいる者だけですが」
「だけ、で済む人数じゃないだろ」
騎士は不思議そうな顔をした。
「姫様が来られるので」
「理由になってるようで、なってないな」
ダリオが頭を抱えた。
ミナは小さく呟く。
「……朝礼より声量が大きいです」
シエラがようやく帳面に書き始めた。
「第七騎士団、朝の姫様挨拶。左右整列。約五十名。自発的直立。発声統一。日次実施」
ダリオがその手元を見た。
「書くな。危ない記録だ、それ」
「記録しない方が危険です」
「いや、記録したらもっと危険な気がするぞ」
ヴァルドは静かに本庁前を見ていた。
リリアは、整列した騎士たち一人一人に軽く視線を向けながら、明るく挨拶を返している。
「おはようございます!」
「今日も頑張りましょう!」
「無理はしないでくださいね!」
そのたびに、騎士たちの表情が緩む。
だが、姿勢は崩れない。
むしろ、動きが締まっていく。
眠気が残っていた者の目が開く。
荷を持っていた者が、少し早く動き始める。入口近くにいた者が、自然に持ち場へ向かう。
誰も命令していない。
誰も怒鳴っていない。
それなのに、本庁前の朝が動き出していた。
ダリオはしばらく黙っていた。
そして、低く笑う。
「……なんだこれ」
昨日も、リリアの効果は見た。
業務中、彼女がいると場が軽くなる。
迷っている者が動きやすくなる。
疲れている者が、もう少しだけ頑張れてしまう。
それは、分かった。
分かったつもりでいた。
だが、朝は違った。
これは、業務中の補助ではない。
開始の儀式だった。
いや、儀式という言葉すら、どこか違う。
誰かに命じられたものではない。
制度化されたものでもない。
それなのに、毎朝行われている。
シエラが静かに言った。
「起動しています」
ミナが聞く。
「起動、ですか」
「ええ」
シエラは周囲の動きを見る。
「人員の姿勢、発声、持ち場への移行、雑談の収束。リリア様の到着をきっかけに、全体が職務状態へ移行しています」
ダリオが顔をしかめた。
「言い方は分かるが、絵面がおかしい」
「絵面はおかしいです」
シエラは即答した。
「ですが、機能しています」
ヴァルドが低く頷く。
「だから見せた」
ダリオがそちらを見る。
「お前、これを前に見たことあるのか?」
「ああ」
ヴァルドは短く答えた。
「一度見た。その時は、何かの行事かと思った」
「そりゃ思うだろ」
「だが、次の日も同じだった」
「毎朝じゃねえか」
「多分な」
ダリオはそちを聞いて、疲れた顔をした。
その時、本庁の奥からイリスが姿を見せた。
すでに書類を抱えている。静かに周囲を見て、必要な場所へ視線を配る。
「おはようございます」
その声は大きくない。
けれど、よく通った。
続いて、エリシアが出てくる。
「配置に移りなさい」
短い指示だった。
その一言で、さきほどまで式典のようだった執務室の空気も、職務の形へ切り替わる。
暫くして第七騎士団の騎士団員たちが一斉に動き出した。
速い。
迷いがない。
それでいて、慌ただしくはない。
リリアが空気を起こす。
イリスが流れを整える。
エリシアが手順を締める。
そして、その奥にレオンがいる。
何も言わず、全体を見ている。
昨日見た連携が、朝の時点ですでに形になっていた。
ミナがぽつりと言う。
「……最初から、動けるようになってるんですね」
「そうです」
シエラが頷く。
「始まってから整えるのではありません」
ヴァルドが続けた。
「整った状態で、始まる」
その言葉に、ダリオは本庁前を見た。
騎士たちはすでに持ち場についている。
先程の光景は既にない。
そして、こちらでは書類の流れができ始めている。声かけが飛び、確認が回り、棚が動く。
まだ始業直後だというのに、重さがない。昨日見た異常な連携は、ここから始まっていた。
朝から、すでに完成している。
ダリオは頭をかいた。
「……うちと違いすぎるだろ」
誰も否定しなかった。
ミナが小さく言う。
「……あれ、欲しいです」
本音だった。
ダリオが即答する。
「無理だろ」
「ですよね」
ミナも、すぐに頷いた。
シエラは帳面にさらに書き込む。
「第七騎士団、朝の起動要因。リリア様。非役職性、非命令系統、士気誘導。式典に類似するが、制度ではなく慣習」
ダリオが渋い顔をした。
「それ、上に出すなよ」
「必要であれば出します」
「出したら、絶対に誰かが真似しようとするぞ」
ヴァルドが低く言った。
「真似できん」
「何でだ?」
「姫様がいない」
それはそうだった。
全員、黙った。
リリアは何も知らないまま、今日も明るく挨拶をしている。
「今日も頑張りましょう!」
「はい、姫様!」
その声に、第七騎士団の騎士たちが自然に応える。
朝が、完全に動き出す。
少し離れた場所で、レオンが四人を見ていた。腕を組み、どこか嫌そうな顔をしている。
隣にクリスが来る。
「気づいたな」
「気づかなくていい」
レオンは即答した。
「無理だろ。あれを見せたら」
「見せたのは俺ではない」
「毎朝やってるんだから、隠しようがないだろ」
レオンは黙った。
否定できなかった。
クリスが楽しそうに笑う。
「欲しがられるぞ」
「させるか」
速答だった。
迷いはない。
その間にも、第七騎士団の朝は進んでいく。整列していた騎士たちは、すでに職務へ完全に移っている。
さきほどまで式典のようだった場は、何事もなかったかのように通常業務へ切り替わっている。その切り替わりの速さもまた、おかしかった。
ダリオはそれを見て、苦笑する。
「勝てん」
ミナが聞く。
「何にですか?」
「朝にだよ」
ヴァルドが静かに頷いた。
「その通りだ」
シエラが帳面を閉じる。
「士気で負けています」
淡々とした結論だった。
だが、重かった。
始まってから差がつくのではない。
始まる前から、もう違っている。
それが、第七騎士団だった。
普通ではない場所。
昨日、四人はそう思った。
そして今、改めて理解した。
ここは、業務だけが普通ではないのではない。
朝からすでに、普通ではない。




