第67話 普通ではない場所――連携の完成
――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国 東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁――朝
まだ静かな時間だった。
第七騎士団本庁の空気は、昨日の騒ぎが嘘のように落ち着いている。
だが、机の上にはすでに書類が積まれていた。
第二騎士団の分。
第十騎士団の分。
第七騎士団の分。
三つの騎士団の書類が、今日もここで処理される。
その前に、第二と第十から来た四人が少し早く集まっていた。
第二騎士団副官、ダリオ。
第十騎士団副官、ヴァルド。
書記官、シエラ。
書記官、ミナ。
昨日一日を、第七騎士団の中で過ごした四人だった。
ヴァルドが腕を組む。
「……妙だな」
短く言った。
シエラが静かに頷く。
「ええ」
ダリオが首を傾げた。
「何がだ?」
ミナも、小さく続く。
「……普通じゃない、です」
「普通じゃない?」
ダリオはさらに首を傾げる。
ヴァルドが少し考えた。
「何が普通じゃないのかは分からん」
「だが、普通じゃない」
雑な言い方だった。
だが、核心ではあった。
シエラが補足する。
「回りすぎています」
「……は?」
ダリオが顔をしかめる。
「回るのはいいことだろ」
「ええ。通常は」
シエラは淡々と続ける。
「あの量で」
「昨日の速度で」
「滞りがほとんどない」
そこで、はっきりと言った。
「あり得ません」
ミナが小さく頷く。
「……私のところだと、どこかで止まります」
「まあ、確かに」
ダリオは腕を組んだ。
「無茶はしてたな」
「無茶だけではない」
ヴァルドが視線を向ける。
執務室の奥。
イリスが静かに書類を分けている。
大きく声を出すわけではない。
誰かを押し退けるわけでもない。
ただ、流れが詰まりそうな場所に、先に手を入れている。
「こちらは第十へ」
「こちらは第二で処理可能です」
「こちらは一度、団長確認に回した方がよいかと」
静か。
的確。
そして、速い。
その横では、エリシアが全体を見ていた。
「その順序では遅れます」
「こちらを先に」
「確認済みと未確認を混ぜないでください」
指示が飛ぶ。
速くて、正確。
迷いがない。
さらに、その間をリリアが動いている。
「次、お願いします!」
明るい声。
その声が通るだけで、周囲の動きが少し軽くなる。
誰かが迷えば、リリアが先に近づく。
誰かが言い出しにくそうにしていれば、自然に間に入る。
書類を運び、確認を受け、戻す。
その動きが、場の空気を止めない。
ヴァルドが小さく言う。
「……あれだな」
「どれだ?」
ダリオが聞く。
「全部だ」
短い。
だが、正しかった。
シエラが目を細める。
「イリス皇女殿下の処理能力」
「エリシア副官の運用」
「そして――」
少しだけ言葉を選ぶ。
「噂の姫様の存在」
リリアのことだった。
「空気が、繋がっています」
ミナが小さく呟く。
「……はい」
それは、昨日から感じていたことだった。
「動きやすいです」
「迷わないです」
ダリオが感心したように息を吐く。
「噂の姫様、何かすごいな」
素直な感想だった。
ヴァルドも静かに頷く。
「……あれがいると」
少し間を置く。
「止まらん」
その時だった。
「おはようございます!」
リリアの声が響いた。
明るい声。
ただ、それだけ。
それだけなのに。
空気が変わる。
重さが少し抜ける。
動き出しが早まる。
騎士たちの返事が自然に揃う。
「おはようございます、姫様!」
ミナが目を丸くした。
「……ほんとだ」
シエラが静かに言う。
「数値には出ませんが」
視線はリリアを追っている。
「明確に影響しています」
だが、ヴァルドは少しだけ眉をひそめた。
「……違うな」
「え?」
ミナが見る。
「繋いでいるだけではない」
ヴァルドは執務室全体を見る。
イリスが流れを整える。
エリシアが手順を締める。
リリアが空気を動かす。
レオンが要所を見ている。
それぞれが別の働きをしている。
しかし、ばらばらではない。
「もう、出来上がっている」
その言葉に、シエラが静かに頷いた。
「……完成している」
偶然ではない。
勢いでもない。
無理やり動かしているわけでもない。
成立している。
それが、一番おかしかった。
その時、入口側から騎士が駆け込んできた。
「失礼します!」
場の空気が一瞬揺れる。
騎士の手には、数枚の書類があった。
「第二騎士団分の輸送確認書です! ただ、第十騎士団の照合番号も入っていて、どちらへ戻すべきか確認を――」
その言葉で、第二と第十から来た四人の表情が変わった。
ダリオがすぐに手を伸ばす。
「第二の輸送確認なら、こっちで――」
ヴァルドが眉を寄せる。
「待て。第十の照合番号が入っているなら、第十側の記録も見る必要がある」
シエラが手元の帳面を開く。
「書式は第二ですが、番号体系は第十です」
ミナが小さく声を上げた。
「でも、戻し先が二つあると、処理棚が止まります」
普通なら、ここで止まる。
第二の確認か。
第十の照合か。
団長確認か。
差し戻しか。
誰が先に見るべきか。
どこへ置くべきか。
一つ間違えれば、同じ書類が二つの棚を行き来する。ダリオとヴァルドは、どちらも副官としてまともに判断しようとしていた。
だからこそ、一瞬だけ止まった。
だが。
「止めないでください」
エリシアの声が飛んだ。
鋭いが、慌ててはいない。
「その書類は、今ここで分けます」
イリスがすでに書類を受け取っていた。
目を通し、静かに言う。
「内容は第二の輸送確認です。ただし、第十の倉庫番号を使っています」
「なら、第二の処理棚へ――」
ダリオが言いかける。
エリシアが即座に遮った。
「いえ、先に第十の倉庫照合へ回します」
ヴァルドが顔を上げる。
「第十側からですか」
「照合番号が誤っていれば、第二へ戻しても再処理になります。先に第十側で番号確認。問題がなければ第二の輸送確認へ戻します」
イリスが書類の端を整える。
「こちらの一枚だけ、控えを取っておくとよいです。後で同じ混線が起きた時、照合しやすくなります」
「リリア」
エリシアが呼ぶ。
「はい!」
「第十照合棚へ。戻り先は第二輸送棚。両方に札をつけてください」
「分かりました!」
リリアはすぐに札を二枚取った。
「第十照合、戻り先は第二輸送ですね」
「そうです」
「こちら、先に第十へ回します!」
リリアの声が通る。
第七の騎士がすぐに机を一つ空けた。
「こっち使えます!」
別の騎士が棚を指す。
「第十照合棚、右側空けました!」
「第二輸送棚、札をつけます!」
誰かが言う前に、動いている。
書類は止まらない。
迷いは一瞬だけで、すぐに流れへ戻った。
ダリオが、半ば呆然と見ていた。
「……今、止まるところだったよな」
ヴァルドが静かに答える。
「止まらなかった」
シエラは帳面に今の流れを書き留めている。
「第十照合、第二戻し。処理棚を二段に分ける。控えを取る」
ミナは目を丸くしている。
「……今の、一瞬でしたよね」
「一瞬だったな」
ダリオが苦笑する。
「普通なら、誰が見るかで少し揉めるぞ」
ヴァルドが頷く。
「少なくとも、うちなら一度止まる」
シエラが静かに言った。
「ここでは、止まりませんでした」
その言葉が、四人の間に落ちる。
ただ効率がいいのではない。
止まるはずの場所で、止まらない。
そこが、おかしい。
書類の流れが戻ったあと、ミナが小さく息を吐いた。
「……すごいですね」
「何がですか?」
シエラが尋ねる。
「いえ、その……皆さん、迷わず動いていて」
ミナは視線を少し泳がせた。
「それに、さっきから何度か聞こえるんですけど」
「何がだ?」
ダリオが聞く。
「噂の姫様、って」
その言葉に、近くにいた第七騎士団の騎士が、ぴたりと手を止めた。
ダリオがそちらを見る。
「……何だ、それは」
騎士は少しだけ誇らしげな顔をした。
「見れば分かります」
「何を?」
「朝です」
「朝?」
「明日の朝、見れば分かります」
それだけ言って、騎士は何事もなかったように書類へ戻った。
ダリオは困ったように眉を下げる。
「……説明になってないな」
ヴァルドが静かに頷いた。
「だが、本人は説明したつもりらしい」
シエラが帳面に何かを書き留める。
「第七騎士団内呼称、噂の姫様。詳細未確認」
ミナが小さく呟いた。
「……明日の朝、ですか」
四人は、何となく同じ方向を見る。
第七騎士団の奥。そこに何かがあるようで、しかし、今はまだ分からなかった。
しばらくして、ミナがふと手を止めた。
「……あれ?」
「どうしました?」
シエラが聞く。
「いえ、その……」
ミナは少し考える。
「私、さっきからずっと書いてますよね?」
ダリオが小さく笑った。
「仕事だからな」
「いや、そうなんですけど」
ミナは首を傾げる。
「……疲れてないです」
長い沈黙。
ヴァルドがぼそっと言う。
「……俺もだ」
ダリオがそちらを見る。
「お前も?」
「ああ。いつもなら、どこかで集中が落ちる」
ヴァルドは自分の手元の書類を見る。
「だが、今日は止まらん」
シエラが頷く。
「集中が途切れていません」
彼女は処理済みの束と未処理の束を見る。
「効率も維持されています」
わずかに目を細める。
「……通常ではあり得ない状態です」
ダリオが頭をかいた。
「……気合いが入ってるだけじゃないのか?」
「違います」
シエラは即答した。
「気合いだけなら、もっと早く崩れます」
「身も蓋もないな」
「事実です」
ミナが小さく呟く。
「……なんか」
少しだけ不思議そうに、自分の手元を見る。
「頑張れてしまいます」
言ってから、自分で驚いたような顔をした。
ヴァルドが視線を向ける。
リリア。
明るく動き回っている。
エリシア。
正確に指示を飛ばしている。
イリス。
流れを整えている。
そして、レオン。
少し離れた場所で、全体を見ている。
「……あれか」
ヴァルドが小さく呟く。
だが、答えは出ない。
理由は、そこにある気がした。
その後も、処理は続いた。
途中で、ミナがリリアに小さく頭を下げる場面があった。
「ありがとうございます。さっきの札、助かりました」
「いえ。分かりにくかったですよね」
リリアが笑って答える。
その瞬間。第七騎士団の数名が、ふっとそちらを見た。
鋭いわけではない。
怒っているわけでもない。
だが、妙に揃っていた。
ミナが固まる。
「……今、私見られました?」
シエラが淡々と答える。
「見られましたね」
ダリオが困ったように眉を下げる。
「何かしたのか?」
ヴァルドも低く言う。
「分からん」
理由はない。
少なくとも、説明されていない。
ただ、第七騎士団の騎士たちは、リリアに礼を言ったミナを妙に見ていた。
すぐに視線は外れた。
何事もなかったように、仕事へ戻る。
だが、四人には残った。
小さな違和感として。
一方、少し離れた場所で、レオンも四人の様子を見ていた。
腕を組み。
ただ、見る。
クリスが隣に来る。
「気づいたな」
楽しそうに言った。
「遅いくらいだ」
レオンは短く返す。
「どうする?」
「何がだ」
「欲しがられるぞ」
レオンが、わずかに目を細めた。
「させるか」
速答だった。
迷いはない。
クリスが肩をすくめる。
「だよな」
軽い。
だが、本気だった。
その時。
「団長」
エリシアが歩いてくる。
手には書類を持っていた。
「本日の分、整理できております」
淡々とした声。
けれど、以前より少しだけ柔らかい。
レオンは書類を受け取る。
「……早いな」
「効率が上がっておりますので」
エリシアは少しだけ視線を逸らした。
「……全体として」
言葉を濁す。
それで十分だった。
レオンは小さく笑う。
(……変わったな)
ほんの少し。
だが、確実に。
この場所は、もう普通ではない。
そして、それは誰か一人が作ったものではない。
レオンの能力。
エリシアの運用。
イリスの視点。
リリアの存在。
第七騎士団の騎士たちの空気。
それらが、いつの間にか噛み合っていた。
だからこそ。
少しだけ、厄介だった。
第二や第十から来た者たちが、それに気づき始めている。
気づけば、欲しくなる。
戻れば、比べる。
比べれば、足りないものが見える。
レオンは書類を見下ろす。
普通ではない場所。
それを作ったつもりはない。
だが、もう出来上がっている。
「……面倒だな」
小さく呟く。
隣で、クリスが笑った。
「今さらだろ」
レオンは否定しなかった。




