第65話 知らなかった姫様
――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国 東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁 執務室前廊下――朝。
「おはようございます、姫様!」
いつもの声が響いた。
リリアは足を止め、明るく手を振る。
「おはようございます!」
返す声は、少しだけ嬉しそうだった。
いつも通り。
そう。
いつも通りの朝。
――の、はずだった。
「……あの、リリア様」
騎士の一人が、少しだけ言いづらそうに声をかけた。
「はい?」
「昨日の件ですが」
「……昨日?」
リリアが首を傾げる。
騎士はそこで言葉を止めた。
すぐ隣の騎士が、小声で肘をつつく。
「おい、本当に言うのか」
「でも、いずれ分かるだろ」
「本人に言う話か?」
「……たぶん、言わない方が後でまずい」
ひそひそと相談している。
リリアはさらに首を傾げた。
「あの、何の話ですか?」
逃げられなくなった騎士が、観念したように姿勢を正す。
その横から、別の騎士が一歩出かけた。
どこか妙に嬉しそうな顔だった。
「お前が話せないなら、俺が話す」
「待て。お前が話すと余計なことまで言うだろ」
「余計なことではない。姫様の重要性を正確に――」
「それが余計なんだ」
小声の押し問答が始まる。
リリアはますます困った顔になった。
「ええと……?」
最初に声をかけた騎士が、慌てて前へ出た。
「私が話します」
そう言って、改めてリリアへ向き直る。
「その……昨日、執務室で、皆で団長にお願いをしました」
「お願い?」
「はい」
騎士は一度だけ目を伏せる。
そして、腹を決めたように言った。
「リリア様を第十騎士団に行かせないように、と」
リリアの動きが止まった。
「……え?」
数秒。
そして、もう一度。
「え?」
理解が追いついていない顔だった。
「え? どうして?」
素直な疑問だった。
騎士たちは困ったように視線を交わす。
「その……必要でして」
「必要?」
「はい」
騎士は真剣に頷いた。
「姫様がいらっしゃらないと」
「空気が……」
「朝が……」
「確認が……」
言葉が少しずつ崩れていく。
リリアがじっと見る。
騎士たちは慌てて姿勢を正した。
「……仕事に支障が出ると判断しました」
なんとか整えた。
リリアは少しだけ黙る。
それから、困ったように眉を下げた。
「……ええと」
どう答えればいいのか、分からない。
少しだけ顔が赤くなる。
「そんなこと、ないと思うのですが……」
小さく言う。
だが、騎士たちは真剣だった。
「いえ、あります」
即答だった。
「あります!」
「間違いなくあります!!」
強い。
リリアはさらに困った。
「……そう、なの?」
自覚がない。
だから、どうしていいか分からない。
その様子を、少し離れた場所でイリスが見ていた。
静かに。
「人気なのですね」
ぽつりと言う。
リリアが振り返る。
「え?」
「とても」
イリスは淡々と答えた。
事実として、そう見えたのだろう。
リリアは少しだけ顔をそらす。
「……なんか、違う気がします」
納得していない。
けれど、完全には否定できない。
その様子に、イリスがわずかに目を細めた。
少しだけ、楽しそうに。
その時だった。
「そこ、騒ぐな」
低い声がした。
レオンが廊下の向こうから歩いてくる。
騎士たちが一斉に姿勢を正した。
「団長!」
リリアが慌てて振り向く。
「お兄さま、あのね――」
「聞いてる」
レオンは短く遮った。
それから、騎士たちを見る。
「……お前ら」
呆れた声だった。
「朝から、こんなところで何をしてる」
騎士たちは一瞬固まる。
けれど、目は逸らさなかった。
レオンは小さく息を吐く。
「廊下で話す内容じゃない。中へ入れ」
その一言で、騎士たちは慌てて動いた。
リリアはまだ状況を飲み込めないまま、イリスと顔を見合わせる。
イリスは静かに頷き、レオンの後に続いた。
■第七騎士団 本庁 執務室――
執務室へ入ると、朝の空気は一気に仕事のものへ戻った。
机の上には、すでに書類が積まれている。
第七騎士団の通常業務。
それに加えて、第十騎士団から回ってきた確認書類。
さらに、まだ整理されていない別の束もある。
レオンは机の前に立ち、騎士たちを見る。
「……で、結果だが」
騎士たちの表情が引き締まる。
リリアも、よく分からないままレオンを見る。
「第十だけじゃなく、第二も詰まってる」
現実だった。
騎士たちの肩が、少しだけ落ちる。
昨日、第十騎士団の分も第七で処理すると決まった。
だが、実際に確認してみれば、問題は第十だけではなかった。
第二騎士団側にも、処理待ちの書類が残っている。
しかも、ただ量が多いだけではない。
「第二も第十も、騎士の質が悪いわけじゃない」
レオンは淡々と言う。
「剣の腕は悪くない。現場で動けるやつも多い」
そこで一度、書類の束へ視線を向ける。
「だが、書類を整理できる人間が少ない」
はっきりした理由だった。
「書記官の数も足りない。手の空いている騎士に昨日補助させたが、ほとんど進まなかった」
騎士たちは黙った。
気合いでどうにかなる話ではない。
書類は剣で斬れない。
現場で強い騎士が、必ずしも帳簿や連絡書類に強いとは限らない。
「昨日、お前らはやると言った」
レオンが騎士たちを見る。
騎士たちは背筋を伸ばした。
「はい!」
「やります!」
「姫様のため――第七のために!」
「それで、早速昨日から書類整理を手伝わせてみたわけだ」
レオンは表情を変えない。
少しの間。
そして、静かに言った。
「正直、邪魔だった」
執務室が止まった。
「……え」
「いや、団長、それは」
「気持ちは分かった」
レオンは遮る。
「だが、書類の束を増やすな。確認済みと未確認を混ぜるな。番号順に並べたものを、気合いで分類し直すな」
騎士たちは目を逸らした。
「結局、俺たちでやった方が早い」
厳しい。
だが、事実だった。
エリシアが横で静かに頷いている。
「……否定できませんわね」
「副官殿まで……」
「事実です」
騎士たちはさらに肩を落とした。
リリアは慌てて言う。
「でも、皆さん、頑張ってくださったのですよね」
「姫様……!」
騎士たちの目が輝く。
「だから騒ぐな」
レオンが即座に止めた。
それから、書類の束を指す。
「ともかく、このまま第十と第二がそれぞれ抱えていても終わらない。最低限の人数は向こうに残す。向こうで無理な分は、書類ごとこっちへ持ってこさせる」
レオンは続ける。
「人も少し送らせる。書記官も、事務に使える騎士もだ」
「こちらで一括して処理するのですか?」
エリシアが尋ねる。
「ああ」
レオンは頷いた。
「一度、第七でまとめて整理する。どれだけ効率が上がるかも見る」
イリスが静かに目を向ける。
「処理だけではなく、仕組みを見るのですね」
「そうだ」
レオンは短く答えた。
「第七で全部抱え続けるためじゃない。こっちで処理しながら、向こうから来た連中に流れを覚えさせる」
合理的な結論だった。
「仕事に慣れたら、それぞれの騎士団へ戻す。戻した後は、向こうで単独で処理できるようにする」
騎士たちは黙って聞いている。
「つまり、教育も兼ねる」
レオンはそこで、エリシアを見る。
「エリシア」
「はい」
「来た連中の教育と監督は、お前に任せる」
エリシアは一瞬だけ目を細めた。
第二騎士団と第十騎士団から来る書記官。
事務に使える騎士。
未処理書類。
それらを第七で一括して整理しながら、処理の流れを覚えさせる。
簡単な役目ではない。
「……承知いたしました」
だが、エリシアの返事は早かった。
「こちらで処理手順を統一し、向こうへ戻しても崩れない形に整えます」
「頼む」
レオンは短く言う。
それから、リリアを見る。
「リリアは確認補助だ」
「はい」
「お前は確認が丁寧だし、相手を萎縮させにくい。来た連中が迷っていたら、必要に応じて間に入ってやれ」
リリアは少しだけ目を丸くする。
それから、背筋を伸ばした。
「……分かりました。私も頑張ります」
その言葉に、騎士たちの目が一斉に輝いた。
「姫様……!」
「我々も頑張ります!」
「だから、お前らはまず書類を混ぜるな」
レオンが言う。
騎士たちは一斉に口を閉じた。
レオンは最後に、イリスへ視線を向ける。
「イリス」
「はい」
「今までより、少し大変になるかもしれない。無理のない範囲でいい。引き続き、手伝ってもらえるか」
イリスは静かにレオンを見る。
それから、落ち着いた声で答えた。
「分かりました」
短い返事だった。
だが、迷いはない。
「私にできる範囲で、お手伝いいたします」
「助かる」
レオンは頷いた。
「三騎士団分、ここでまとめて処理する」
止めない。
逃がさない。
抱えられない場所から、第七へ流す。
そして、レオンの下でまとめて動かしながら、処理できる人間を育てる。
「分かったら働け」
「はい!」
今度は、迷いがなかった。
騎士たちは一斉に散っていく。
嵐のように。
残されたリリアは、まだ少し呆然としていた。
「……なんだったのでしょう」
本音だった。
イリスが静かに答える。
「信頼、だと思います」
「信頼……」
リリアは少し考える。
それから、正直に言った。
「……ちょっと重いです」
レオンが小さく笑う。
「だろうな」
短く。
それで終わる。
けれど、どこか悪くない空気だった。
リリアはまだ困ったような顔をしていた。
騎士たちは、いつもより妙に気合いを入れて動いている。
イリスはその様子を静かに見ている。
そしてレオンは、面倒そうな顔をしながらも、誰も止めなかった。
第七騎士団の朝は、また少し騒がしく始まった。




