第64話 行かせない理由
――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国 東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁 執務室――午前。
執務室は、以前より静かに回っていた。
書類の山がなくなったわけではない。
報告が減ったわけでもない。
確認すべきものは相変わらず多く、外部から回ってくる案件も尽きない。
それでも、流れが違う。
止まり方が減った。
戻し方が軽くなった。
エリシアが流れを止めずに整え、リリアが細かな確認を拾い、イリスが別の視点でずれを抜く。三人の動きが、少しずつ噛み合い始めていた。
「……落ち着いたな」
レオンが書類から顔を上げて言う。
向かいに立つクリスが、軽く肩をすくめた。
「落ち着いたっていうか、うまく回り始めたな」
「そうだな」
「三人、いい感じに噛み合ってる」
クリスの視線が、執務室の奥へ向く。
エリシアは机の前で書類を分けている。
リリアはその隣で、確認済みの束に印をつけている。
イリスは少し離れた席で、流れのずれがないかを見ていた。
それぞれが別のことをしている。だが、ばらばらではない。
「正直、あそこまで上手くいくとは思ってなかった」
レオンは目を細める。
「……イリスがいると、かなり違うな」
「お前、言い方」
クリスが苦笑する。
「でも間違ってない。あれだけ見られる人が一人いると、第七の中がだいぶ軽くなる」
「ああ」
レオンは机の端に置かれた別の束を見る。
第十騎士団関連の補助書類だった。
第七騎士団の本来の書類ではない。
だが、今のレオンは第七騎士団長であると同時に、第十騎士団長も兼任している。
そのため、第十騎士団の処理も、最終的にはレオンのところへ流れ込んでくる。
「第十の書類、まだ詰まってるだろ」
クリスが言う。
「ああ」
「そろそろ手を入れるか」
「そうだな」
レオンは迷わなかった。
「応援を出す」
「だな」
クリスも頷く。
「今の第七なら、少し人を外に出しても回る」
「イリスが見てくれる間なら、何とかなる」
「客人に頼り切るのはまずいけどな」
「分かってる」
レオンは短く返した。
イリスはあくまで客人だ。
正式な第七騎士団の人間ではない。だが、現実として、彼女がいる間は第七の書類の流れが安定している。
ならば、その間に第十騎士団の詰まりも少し処理しておきたい。
「問題は、誰を出すかだな」
クリスが言った。
「イリスは客人だ。出せない」
「ああ」
「エリシアも無理だな」
その言葉に、少し離れた場所で書類を整理していたエリシアの手が止まった。
レオンは当然のように続ける。
「エリシアは長期で外せない」
短い言葉だった。
何の飾りもない。
「第七の中核で副官だ。今ここから抜いたら、せっかく回り始めたものが固まる」
「だよな」
クリスも軽く頷く。
「一日二日ならともかく、長期で外すのは無理だ」
エリシアは顔を上げない。
手元の書類へ視線を落としたまま、静かに次の紙を揃える。
だが、胸の奥がほんの少しだけ温かくなった。
(……そうですか)
必要だから外せない。
ただそれだけの判断だ。
評価でも称賛でもない。
分かっている。
それでも。
(中核、ですか)
その言葉は、少しだけ嬉しかった。
もちろん、顔には出さない。
エリシアは何事もなかったように、書類の端を揃えた。
「となると」
クリスが続ける。
二人の視線が、自然と一つの席へ向いた。
リリアだった。
机の端で、彼女は丁寧に書類を揃えている。
「……リリアか」
「だな」
クリスが即答する。
「長期で第十に回す。補助と連絡整理なら、あいつが一番丸い」
「第七の空気を分かった上で、外の書類も見られる」
「しかも、相手の受けもいい」
合理的だった。
問題はない。
――はずだった。
■第七騎士団 本庁 執務室――午後。
その時、リリアは執務室にいなかった。
隣の資料室で、控え書類の確認をしている。
それを確認したわけではないだろうが、少なくとも騎士たちは、リリア本人の前でこの話をするほど無謀ではなかった。
突然、執務室の扉が、勢いよく開いた。
「団長!!」
声が響く。
一人ではない。
次々と騎士たちが入ってくる。
数が多い。
明らかに、普通の報告ではなかった。
「……なんだ?」
レオンが眉をひそめる。
前に出た騎士が、拳を握りしめて叫んだ。
「姫様を――」
一瞬、言葉が詰まる。
そして、腹を決めたように続けた。
「行かせないでください!!」
声が揃う。
さらに、別の騎士たちも口々に訴え始める。
「姫様がいないと困ります!」
「朝が……!」
「空気が……!」
「確認印が……!」
「笑顔が……!」
「……業務に支障が出ます!!」
最後だけ、無理やり整えた。
だが、ほとんど感情だった。
レオンは無言で騎士たちを見る。
そして、小さく息を吐いた。
(……なるほどな)
理解する。
論理ではない。
完全に情だ。
いや、情だけではないのかもしれない。
リリアがいることで、執務室の空気が柔らかくなる。
騎士たちが書類を出しやすくなる。
確認を頼みやすくなる。
それも、確かに業務の一部ではある。
だが、この訴え方はひどい。
その時、後ろで扉がもう一度開いた。
エリシアが入ってくる。
すぐに足を止め、状況を見る。
騎士や団員たち。
涙目。
訴え。
机の前に立つエリシア。
「……何をしているのですか?」
低く、静かな声だった。
だが、視線は冷えている。
騎士たちが一瞬固まる。
それでも、誰かが叫んだ。
「姫様を第十騎士団に出すと聞きました!」
エリシアの眉が、わずかに寄る。
「……それがどうかしましたか?」
冷静だった。
「業務上、必要であれば当然の配置です」
正論。
騎士たちが一瞬ひるむ。
だが、ここまで来た以上、引けなかった。
「それでもです!!」
「姫様は第七の姫様です!」
「外へ長期で出すのは、士気に関わります!」
「確認作業にも関わります!」
「あと朝の挨拶にも関わります!」
「最後のは業務ではありません」
エリシアが即座に切る。
騎士たちは黙った。
だが、下がらない。
その中の一人が、なぜか真剣な顔で言った。
「代わりに、クリス中隊長を出してください!」
「え?俺?」
壁際にいたクリスが、自分を指差した。
騎士たちは一斉に頷く。
「はい!」
「クリス中隊長なら大丈夫です!」
「最近書類仕事にも慣れたので、第十騎士団でもやっていけます!」
「それに、姫様ほど第七の空気に影響しません!」
「おい」
クリスが少し笑いながら、眉を上げる。
「最後のはどういう意味だ」
騎士たちは視線をそらした。
レオンは肩を震わせて笑っている。
エリシアは、それを見て少しだけ苛立った。
「クリス中隊長を長期で外すのも、別の問題が出ます」
「では、副官殿が――」
「私ですか」
エリシアの声が一段低くなる。
騎士たちの背筋が伸びた。
「い、いえ、その、副官殿ならどこでも完璧に……」
「何でも褒めれば通ると思わないでください!」
「申し訳ありません!」
今度はクリスが横で完全に笑っている。
エリシアは一度だけ鋭くそちらを見た。
「クリス中隊長」
「はいはい」
「笑っていないで、あなたが行くという選択肢も検討されてはいかがですか?」
「いや、俺が長期で抜けるのもそれはそれで困るだろ」
「自覚はあるのですね」
「あるある」
軽い。
実に軽い。
エリシアは小さく息を吐いた。
それから、レオンを見る。
「……団長」
「なんだ」
「必要であれば、私が行きます」
執務室の空気が止まった。
騎士たちも、クリスも、一瞬黙る。
エリシアは淡々と続けた。
「一日程度ならともかく、長期で人を出す必要があるのでしたら、私が第十騎士団側へ入った方が早いかもしれません」
騎士たちが、少しだけ期待の目で見る。
リリアを守れる。
そう思ったのだろう。
だが、レオンは即座に首を横に振った。
「いや、それはない」
「ですが」
「一日で終わるならまだしも、長期だろ」
レオンは短く言う。
「お前を長く外すわけにはいかない」
迷いのない声だった。
「さっきも言った。今の第七は、お前が中で固めてる。そこを抜いたら、こっちが崩れる」
エリシアは少しだけ目を伏せた。
「……承知しました」
声はいつも通りだった。
だが、胸の奥には、また少しだけ温かいものが残った。
騎士たちは、それを見て慌てたように口々に言う。
「で、では姫様は……」
「姫様は……!」
「姫様だけは……!」
レオンは騎士たちを見る。
それから、クリスを見る。
エリシアを見る。
最後に、資料室へ続く扉の方を見る。
リリアはまだ戻ってこない。
(……面倒だな)
小さく息を吐く。
「……分かった」
一言。
空気が止まる。
「リリアは出さない」
一斉に騎士たちの顔が上がった。
安堵。
歓声。
泣きそうな顔。
その全部が同時に押し寄せる。
「団長……!」
「ありがとうございます!」
「さすが団長!」
「その代わりだ」
レオンの声で、騎士たちの動きが止まる。
視線が戻る。
「第十騎士団の書類も、第七で処理する」
一瞬の沈黙。
「……は?」
誰かが漏らした。
レオンは構わず続ける。
「量は増える」
「……はい」
「確認も増える」
「……はい」
「連絡調整も増える」
「……はい?」
「リリアを出さないなら、その分、お前らも動け」
短く。
逃げ道はない。
自分たちで選んだのだ。
「お前ら、騎士だろ。守りたいものがあるなら、泣きつく前に働け」
騎士たちは顔を見合わせる。
それから、一斉に背筋を伸ばした。
「……やります!」
「当然です!」
「任せてください!」
「姫様のためなら!」
「第七のためと言え」
「第七のためです!」
今度は声が揃った。
覚悟で。
レオンは頷く。
「決まりだ」
それで終わった。
騎士たちは一斉に動き出す。
「第十の分、こちらで受けます!」
「補助卓を一つ空けろ!」
「確認済みの束を分けろ!」
「姫様にはご負担をかけるな!」
「お前がまず落ち着け!」
嵐のように騎士たちは散っていく。
少しして、資料室へ続く扉が開いた。
リリアが、控え書類の束を抱えて戻ってくる。
「……あの、何かあったのですか?」
騎士たちの妙な熱気を見て、リリアが首を傾げる。
誰も答えない。
答えられない。
レオンは視線を逸らし、クリスは笑いをこらえ、エリシアは静かに書類を整え直した。
「何でもない」
レオンが言う。
「少し仕事が増えただけだ」
「そうなのですか?」
「ああ」
リリアは不思議そうに瞬きをしたが、それ以上は聞かなかった。
その隣で、イリスが静かに様子を見ていた。そして、少しだけ楽しそうに目を細める。
また一つ。
第七騎士団という場所の、理屈だけでは測れない部分を知ったように。
少しだけ静寂が戻った。
「……あいつら」
レオンが呟く。
呆れた声だった。
クリスがまだ笑っている。
「人気者だな、姫様」
「お前も止めろよ」
「無理だろ。あの勢いは止まらない」
「止める気なかっただろ」
「まあな」
軽いが、的確だった。
エリシアは静かに書類を見る。
増えた処理予定。
第十騎士団関連の束。
どう見ても、楽ではない。
「……非効率ですわね」
淡々と言う。
「ですが」
ほんのわずかに間を置く。
「……士気は上がってます」
認めた。
レオンが少しだけ笑う。
「回るならいい」
一言。
それで十分だった。




