幕間 お茶の席で聞くこと
――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国 東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁 客間前――夕方。
執務室の仕事が一段落した頃、エリシアは一枚の短い伝言を受け取った。
差出人は、イリス皇女殿下。
用件は、客間まで来てほしいというものだった。
急ぎの書類ではない。
補給計画の確認でもない。
ただ、少し時間があれば来てほしい、とだけ記されていた。
(……何のご用件でしょうね)
エリシアは客間の前で足を止める。呼ばれて来た以上、訪ねること自体に不自然はない。
だが、理由までは聞いていない。
先日の補給計画の続きか。
イリス皇女殿下の滞在中の確認か。
あるいは、何か別の相談か。
エリシアは軽く息を整え、扉を叩いた。
すぐに返事はない。
少しして、扉が内側から開いた。
顔を出したのは、イリス付きのメイド、メリッサだった。
「エリシア様でございますね。お待ちしておりました」
「お招きいただいた件で参りました」
エリシアは静かに答える。
メリッサは丁寧に一礼した。
「殿下がお待ちです。どうぞ」
「ありがとうございます」
エリシアは軽く礼を返し、案内される形で客間へ入った。
■第七騎士団 本庁 客間――
客間に入った瞬間、エリシアは少しだけ足を止めた。
中では、すでにリリアとイリスが向かい合って座っていた。
机の上には茶器と、小さな菓子皿が置かれている。
書類はない。
報告書もない。
積まれた帳簿もない。
ただ、温かい茶と、柔らかな空気があった。
「それで、お兄様は結局、ご自分では何も欲しがらないのです」
リリアが、少し困ったように笑っていた。
「欲しいものを聞いても、大抵は『別にない』で終わってしまいますわ」
「本当に?」
イリスは目を細める。
いつもの静かな表情ではあるが、声には明らかに興味があった。
「はい。本当にそうなのです。ですから、贈り物を選ぶ時はとても困ります」
「では、どうしているのですか?」
「必要そうなものを探します。お兄様は欲しいものは言いませんが、必要なものなら受け取ってくださいますから」
「……なるほど」
イリスは楽しそうに頷いた。
「レオン様らしいですね」
「ええ。とてもお兄様らしいです」
その光景に、エリシアは一瞬だけ戸惑った。
(……もう、始まっていましたのね)
仕事の席ではない。確認でも、相談でも、打ち合わせでもない。
ただ、話している。
それだけなのに、少しだけ見慣れない光景だった。
「エリシアさん」
イリスが顔を上げる。
「来てくださってありがとうございます。どうぞ、お掛けください」
「……失礼いたします」
エリシアは礼をして、示された席に座った。
すぐにメリッサが、エリシアの前へ静かに茶を置く。
「お口に合えばよろしいのですが」
「ありがとうございます」
茶の香りが、ほのかに立つ。
メリッサはさらにリリアとイリスの茶を整え直し、菓子皿の位置をそっと直した。
動きに無駄がない。
主張しない。
だが、場を乱さずに整えている。
(……なるほど)
エリシアは茶器へ視線を落とす。
(この方が、殿下の周囲を整えているのですね)
メリッサは一歩下がり、控える。
完全に場から消えるわけではない。
だが、会話の邪魔にもならない。
その距離の取り方が、妙に自然だった。
「急なお招きで、失礼いたしました」
イリスが言う。
「いえ。ご用件を伺います」
エリシアは姿勢を正した。
だが、イリスは少しだけ首を傾げる。
「用件、というほど堅いものではありません」
「……では」
「お茶をご一緒したかったのです」
エリシアは、わずかに瞬きをした。
「お茶、ですか」
「はい」
イリスは素直に頷く。
「仕事の中で分かることもありますが、仕事の中だけでは分からないことも多いですから」
その声は柔らかい。
けれど、ただ親しくなりたいだけの言葉ではなかった。
「第七騎士団のことも、レオン様のことも、エリシアさんやリリアさんのことも。私は、まだ知らないことが多いのです」
「……知りたいのですか?」
「ええ」
イリスははっきり答えた。
「知りたいです」
隠さない。
その姿勢に、エリシアは少しだけ息を吐いた。
イリスは、興味で人を見るようだ。
けれど、それは軽い好奇心だけではない。
理解したいという意思がある。
だから厄介で。
だから、避けづらい。
「リリアさんには、レオン様がどのような方なのかを聞いていました」
イリスが言う。
「騎士団長としてのレオン様ではなく、妹から見たレオン様を」
「お兄様は、お兄様ですわ」
リリアは少し照れたように言う。
「強くて、頼りになって、でも、放っておくとすぐどこかへ行こうとなさいます」
「外へ?」
「はい。外へ」
リリアは真剣に頷いた。
「それに、ご自分のことをあまり大事になさいません。何かあると、すぐ自分で行けば早いと考えてしまわれます」
「……それは、よく分かります」
エリシアが思わず言った。
リリアがぱっと顔を向ける。
「エリシアさんも、そう思われますか?」
「思います。というより、何度も見ています」
エリシアは茶器を置き、淡々と続ける。
「団長は、面倒だと言いながら、結局は自分で動きます。必要だと思えば、止めても動きます。そして、後から疲れた顔をします」
「そうですわ!」
リリアが身を乗り出した。
「本当にそうなのです。疲れるなら最初から少し休めばよろしいのに」
「それができる方なら、私も苦労していません」
エリシアが静かに返す。
リリアは一瞬きょとんとした後、くすりと笑った。
イリスも、口元に手を添えて小さく笑う。
「お二人の見方は、少し似ていますね」
「そうでしょうか」
エリシアが言う。
リリアは嬉しそうに頷いた。
「似ているかもしれません。エリシアさんは、いつもお兄様のことをよく見てくださっていますから」
「職務上、必要ですので」
「それだけではないと思います」
リリアの言葉に、エリシアは一瞬だけ黙る。
すぐに茶へ視線を落とした。
「……必要だからです」
それ以上は言わない。
イリスはそのやり取りを、静かに見ていた。
何かを評価するようではない。
ただ、覚えている。
聞いたことを、自分の中へ積み上げている。
「レオン様は、周囲に大切にされていますね」
イリスが言った。
「本人がそれをどこまで理解しているかは、別として」
「理解していませんわ」
リリアが即答する。
「理解しておりませんね」
エリシアも、ほぼ同時に言った。
二人の声が重なる。
イリスは目を丸くし、それから静かに笑った。
メリッサも、控えた位置でほんの少しだけ目元を和らげる。
空気が、少し軽くなった。
エリシアは自分でも意外だった。
仕事の話ではない。
それなのに、無駄な時間だとは思わない。
むしろ、少しだけ分かる気がした。
イリスが何を知りたがっているのか。
この場で何を見ようとしているのか。
人の動き。
距離。
誰が誰をどう見ているのか。
それは、書類には載らない。
だが、組織を動かす時には確かに影響するものだった。
「メリッサ」
イリスが静かに呼ぶ。
「はい、殿下」
「あなたも、少し座りなさい」
メリッサはすぐに首を下げた。
「私は控えております」
「ずっと立っている必要はありません。ここは公務の席ではありませんから」
「ですが」
メリッサは一瞬、エリシアとリリアへ視線を向ける。
リリアがにこりと笑った。
「わたくしは構いませんわ」
エリシアも静かに頷く。
「殿下のお許しがあるのでしたら」
メリッサは少しだけ迷い、それから深く一礼した。
「では、一杯だけ失礼いたします」
彼女は控えめに席の端へ座る。
自分の茶は、立ったまま手早く用意してからだった。
そこまできっちりしているのが、いかにもメリッサらしい。
「メリッサさんは、ずっとイリス様のお側に?」
リリアが尋ねる。
「はい。殿下が幼い頃から、身の回りのお世話を仰せつかっております」
「では、イリス様のことを一番ご存じなのですね」
「恐れながら、そう言っていただけるほどの役目は、まだ果たしきれておりません」
「メリッサは、こう言うのです」
イリスが少し困ったように言う。
「私が何を言っても、まだ足りませんと返します」
「殿下のお側に仕える以上、十分ということはございません」
メリッサは静かに答える。
リリアは感心したように目を輝かせた。
エリシアは、それを聞いて少しだけ納得する。
(……この方も、揃え続ける側ですわね)
主の身の回りを整える。
場を整える。
人を取り次ぎ、距離を守る。
メリッサの役目は、ただ茶を淹れることではない。イリスという存在の周囲に、必要な形を作ることだ。
その時、メリッサが静かに口を開いた。
「エリシア様、リリア様」
「はい」
リリアが返事をする。
「今後、殿下にご用の際は、客間でも、ヴァイス邸でも、私にお声がけくださいませ。殿下へは、必ず私がお取り次ぎいたします」
丁寧な言葉だった。
だが、はっきりしていた。
イリスへ直接声をかけるのではなく、メリッサを通す。それが、皇女付きとしての線引きなのだろう。
エリシアは頷く。
「承知いたしました」
リリアも続く。
「分かりました、メリッサさん」
そこで、イリスが少しだけメリッサを見る。
「ただし、このお二人については、あまり堅くしなくて構いません」
「殿下」
「もちろん、取り次ぎはあなたを通します」
イリスは落ち着いた声で言う。
「ですが、私が話せる状態であれば、あまり待たせないでください」
メリッサは短く沈黙した。
それから、静かに頭を下げる。
「承知いたしました。お二人については、殿下のご都合を確認した上で、できるだけ速やかにお通しいたします」
「ええ。お願いします」
イリスは頷いた。
エリシアは、そのやり取りを黙って見ていた。
形式は崩していない。
メリッサを通すという線は残っている。
だが、扱いは少しだけ変わった。
イリスが、自分たちとの距離を少し近づけようとしている。
それは分かる。
分かるからこそ、少し不思議だった。
(……私たちを、知ろうとしている)
仕事のためだけではない。
だが、ただの親しさだけでもない。
この人は、人を知ることで場所を知ろうとしている。そして、その場所へ入ろうとしている。
「エリシアさん」
イリスが声をかける。
「はい」
「あなたから見たレオン様は、どのような方ですか?」
エリシアは少しだけ考えた。
騎士団長。
上司。
面倒な人。
有能すぎる人。
外へ出たがる人。
無理をする人。
言い方はいくつもある。
だが、お茶の席で言うなら。
「……放っておくと、勝手に抱え込む方です」
エリシアは答えた。
「ですが、任せれば任せた相手を信じる方でもあります」
リリアが静かに頷く。
イリスは、その言葉を大切そうに受け取った。
「そうですか」
「はい」
「それは、覚えておきます」
イリスはそう言って、茶器を手に取った。
エリシアも茶を口に運ぶ。
温かい。
少しだけ甘い香りがする。
書類の前で飲む茶とは、まるで違う味がした。
しばらく、四人の声が客間に落ちていった。
レオンの話。
第七騎士団の話。
リリアが本庁に来たばかりの頃の話。
エリシアが、最初にレオンの補佐を任された時の話。
メリッサが、イリスの旅支度で一番困るものの話。
どれも大きな話ではない。
けれど、書類には載らないことばかりだった。
エリシアは、途中から少しだけ肩の力が抜けている自分に気づいた。
認めるには、まだ早い。
親しいと言うには、まだ距離がある。
だけど。
(……こういう時間も、悪くありませんわね)
そう思う自分を、否定しなかった。
客間の外では、夜が少しずつ深くなっていた。
その中で、茶器の触れ合う音と、リリアの明るい声と、イリスの静かな問いが、穏やかに続いていた。




