第63話 頼るという選択
――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国 東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁 執務室――夜。
人の気配は、ほとんどなかった。
昼の喧騒は遠ざかり、廊下を行き交う足音も少ない。
残っているのは、灯りと紙の音だけ。
エリシアは机に向かっていた。
書類が広がっている。
補給計画。
配置表。
日程案。
各隊の交代予定。
すべては揃っている。
――はずだった。
(……足りない)
エリシアの視線が止まる。
一箇所。
ほんのわずかな無理がある。
今すぐ崩れるほどではない。
運用はできる。
明日の朝も、予定通りに回せる。
だが、そのまま続ければ、三日後には誰かに負担が寄る。補給担当か、交代に入る隊か、あるいは確認役か。
どこかで、必ず無理が出る。
(……削るしかないですわね)
判断は早い。
慣れている。
無理が残るなら、どこかを削る。
優先順位を決め、重要度の低いものを後ろへ回す。現場を止めないためには、必要な判断だった。
ペン先が紙の上へ降りかける。
その時。
昼の光景が浮かんだ。
イリスが、書類の流れを止めずに整えたやり方。
止める部分と、流す部分を分けた判断。
無理を残さず、全体を動かした配置。
(……別の方法もある)
一瞬、迷う。
削る。
それはいつもの方法だ。
確実で、早い。
けれど、最善とは限らない。
エリシアはペンを置いた。
椅子から立ち上がる。書類をまとめ、必要なものだけを手に取った。
廊下へ出る。
足音は迷いなく進む。
だが、胸の奥には、わずかな引っかかりがあった。
頼る。
その言葉が、頭のどこかに浮かぶ。
エリシアは、それを否定しなかった。
■第七騎士団 本庁 客間――
一つの扉の前で、エリシアは足を止めた。
夜の本庁は静かで、扉の向こうの灯りだけが細く漏れている。
イリスに用意された客間だった。
滞在中、彼女が書類を確認したり、私物を置いたりするために使っている部屋である。
エリシアは扉を軽く叩いた。
すぐに返事はない。
少しして、扉が内側から開いた。
顔を出したのは、イリス付きのメイドメリッサだった。
「夜分に失礼いたします。イリス皇女殿下に、少しご相談したい件がございます。お取り次ぎいただけますか」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
メリッサは丁寧に一礼し、いったん扉の奥へ戻る。
短い間があった。
やがて、再び扉が開く。
「殿下がお会いになるとのことです」
「ありがとうございます」
エリシアはもう一度小さく礼をし、案内される形で客間へ入った。
「……どうぞ」
すぐに、イリスの声が返る。
中では、イリスが机の前に座っていた。
手元には数枚の書類がある。読書ではなく、何かを確認していたらしい。
「お忙しいところ、失礼いたします、イリス皇女殿下」
変わらない呼び方。
変わらない姿勢。
礼も、距離も、崩さない。
だが今回は、目的が違っていた。
「少し、ご相談してもよろしいでしょうか?」
イリスは顔を上げる。
その表情に、驚きはあった。
けれど、すぐに静かなものへ戻る。
「ええ、構いません」
エリシアは中へ入った。
机の前まで進み、持っていた書類を差し出す。
「補給計画です」
イリスは書類を受け取る。
エリシアは続けた。
「現状でも運用は可能です」
「はい」
「ですが、わずかに無理が残ります」
正確な説明だった。
感情は挟まない。
困っているとは言わない。
助けてほしいとも言わない。
ただ、状況を示す。
「削ることもできますが」
そこで、エリシアは一度止まった。
言葉を選ぶ。
ほんの短い沈黙。
「……より良い方法があればと」
遠回しだった。
だが、十分に伝わる言葉だった。
イリスは書類へ視線を落とした。
急がない。
焦らない。
まず全体を見る。
次に、日程を追う。
さらに、補給の流れと隊の配置を確認する。紙をめくる音だけが、小さく響いた。
エリシアは黙って待つ。
口を挟まない。
説明しすぎない。
ただ、イリスが見終えるのを待っていた。
やがて、イリスの指が一箇所で止まる。
「こちらを少しだけ変えます」
書類の端を指した。
「この順序を入れ替えて」
次に、別の欄を示す。
「補給を一度に通さず、二つに分けます」
「分割するのですか」
「はい」
イリスは自然な声で答える。
押さない。
結論を急がせない。
「先に必要な分だけを通し、残りは交代後の戻り便に合わせます」
「戻り便を使うのですね」
「ええ」
イリスは、もう一枚の書類を重ねる。
「そうしますと、全体の流れは維持したまま、負担が分散されます」
簡潔だった。
無理がない。
誰か一人に押しつける形でもない。
日程を大きく変える必要もない。
エリシアはそれを見る。
頭の中で組み立てる。
補給の分割。
戻り便の利用。
交代予定との接続。
担当者の確認回数。
どこにも、大きな破綻はない。
(……成立しますわね)
否定できない。
むしろ。
自分の案よりも、滑らかだった。
削れば、確かに回る。
だが、削った分の負担はどこかへ残る。
イリスの案なら、削らずに流せる。
無理を薄く分けて、流れの中へ戻せる。
「……問題ありません」
エリシアは静かに言った。
それが評価だった。
イリスは小さく頷く。
「よかったです」
それだけだった。
誇らない。
求めない。
自分の案を押しつけない。
ただ、役に立ったことを受け止めている。
エリシアは書類を受け取った。
指先で紙の端を揃える。
「……ありがとうございます」
短く。
だが、はっきりと。
初めて、自分から言った。
イリスは少しだけ目を細める。
「お役に立てたのであれば、何よりです」
やわらかく返す。
それで終わる。
余計な言葉はない。
勝ち負けもない。
貸し借りにするような気配もない。
ただ、相談があり、答えがあり、受け取った。
それだけだった。
エリシアは軽く一礼する。
「失礼いたします、殿下」
「はい。お疲れさまです、エリシアさん」
メイドが扉を開ける。
エリシアはもう一度礼をして、客間を出た。
外に出る。
扉が静かに閉まった。
■第七騎士団 本庁 廊下――
夜の廊下は静かだった。
エリシアは数歩進み、そこで一度だけ足を止める。手の中の書類を見る。
先ほどまで無理が残っていた計画は、ほんの少し形を変えただけで、滑らかに流れるものになっていた。
(……頼りましたね)
小さく思う。
否定はしない。
後悔もない。
自分だけで処理できなかったわけではない。
削れば回せた。
止めずに動かすこともできた。
だが、より良い方法があるかもしれないと思い、その相手に聞いた。
その結果、実際に良くなった。
ならば。
(……悪くありません)
エリシアは、そう結論づける。
頼ることは、負けではない。
勝ち負けよりも、この場所をうまく回すことの方が大切だ。
そう考える自分がいることに、エリシアは少しだけ気づいていた。
この場所をより良く回すための、ひとつの選択だった。
少なくとも、今回に限っては。
この場所をより良く回すための、ひとつの選択だった。
エリシアは再び歩き出す。
足取りは、来た時よりも少しだけ軽い。
手元の書類は、きれいに揃っていた。




