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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第1章 騎士団長編

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第62話 同じ速度で

 ――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国 東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁 執務室――夕方。


 人が減り始める時間だった。


 昼のざわめきは少しずつ遠ざかり、報告に来る騎士の数も減っている。


 それでも、仕事は残っていた。机の上には、処理待ちの書類がまだいくつか積まれている。


 エリシアは机に向かい、書類を整えていた。


 順番を確認する。

 不要なものを除く。


 急ぐものを上に置き、翌朝でも構わないものを別の束へ移す。


 無駄はない。

 崩れもない。

 いつも通りの手つきだった。


 その時。


「こちら、確認をお願いできますか?」


 イリスの声がした。


 静かだった。いつも通り、押しつけるような響きはない。


 エリシアは顔を上げる。


「……イリス皇女殿下」


 呼び方は変えない。

 距離も、まだある。


 イリスはそれを気にした様子もなく、数枚の書類を差し出した。


「先ほどの補給処理に関連する書類です」


「拝見します」


 エリシアは書類を受け取った。


 目を通す。


 品目。

 隊別配分。

 処理順。


 倉庫への戻し。


 すぐに気づく。


「……この配置では、遅れます」


 短く言った。


 遠慮はない。


「はい」


 イリスは頷く。


「その通りです」


 否定しない。

 言い訳もしない。


 エリシアはわずかに目を細める。


「分かっていて、持ってきたのですか」


「はい」


「では、なぜそのままに?」


「私の見方だけで整えると、また流れがずれるかもしれませんので」


 イリスは、静かに言った。


「エリシアさんなら、どう修正されますか?」


 エリシアの手が、わずかに止まる。


(……聞くのね)


 試されているわけではない。


 勝ち負けを決めようとしているわけでもない。ただ、求められている。


 この場所を止めないための判断を。


 エリシアのやり方を。


「こちらを先に通します」


 自然に口に出た。


「この部分は後回しに」


 指先が書類の端を叩く。


「連動している箇所は、一度切り離します。全部をまとめて処理しようとすると、確認待ちが増えますので」


 いつものやり方だった。

 止めないための配置。


 全体を一度に正そうとしない。


 今流すべきものと、後で整えるものを分ける。


「この控えは、今は担当へ戻さず、こちらで一時保留」


「はい」


「第三中隊分の処理が終わってから、補給担当へ返します。その方が担当側も混乱しません」


 イリスは静かに聞いている。

 途中で口を挟まない。


 頷きも最小限。


 ただ、エリシアの説明を最後まで受け取っていた。


「……以上です」


 エリシアが言い切る。


 イリスは小さく頷いた。


「ありがとうございます」


 それだけだった。


 評価もしない。

 否定もしない。

 余計な改善案も足さない。


 ただ、受け取る。


 そして、手が動いた。


 書類が並び替えられる。


 エリシアの指示通りに。


 正確に。

 迷いなく。


(……そのまま)


 エリシアは黙って見ていた。


 イリスは、余計なことをしなかった。


 自分の考えで押し広げない。

 別の正しさで上書きしない。


 ただ、エリシアの配置をそのまま再現する。それでいて、手際は速い。


 紙の束が動き、処理順が変わり、必要な控えだけが分けられていく。


 流れが整う。

 止まらない。

 遅れない。


 そして、無理もない。


 エリシアはそれを見る。


 数秒間、何も言わなかった。


(……違う)


 前とは違う。


 イリスは、押してこない。


 正しさを示して終わりにしない。


 エリシアのやり方を聞き、その速度に合わせている。自分が先に進むのではなく、この場所の流れに足を合わせている。


(……なら)


 ほんのわずかに、考えが変わる。


 エリシアは書類の配置をもう一度確認した。


 問題はない。

 流れも止まらない。


 担当者にも無理が出ない。


「……その配置で問題ありません」


 静かに言った。


 肯定だった。

 はっきりとした。


 初めての。


 イリスは頷く。


「ありがとうございます」


 それだけだった。


 勝ち誇らない。

 喜びすぎない。


 ただ、確認を得た者として、書類を次の束へ移した。空気が少しだけ変わる。


 遠くの机で作業していたリリアが、その様子を見ていた。


(……あ)


 気づく。


 さっきまでと違う。

 ぶつかっていない。


 でも、離れてもいない。


 どちらかがどちらかに従ったわけでもない。イリスが少し速度を落とし、エリシアが少しだけ受け入れた。


 同じ速度。

 ただ、それだけ。


 けれど、それだけで空気が変わっている。


 レオンは壁にもたれていた。


 腕を組み、少し離れた場所から二人を見ている。


 口を挟むつもりはない。そもそも、細かい書類の流れについては、エリシアたちの方が正確に見ている。


 ただ、今のやり取りだけは分かった。


(……いいな)


 短く思う。


 口には出さない。

 その必要もない。


 エリシアは再び机に向かった。


 イリスも同じように、別の席へ座る。


 距離は変わらない。

 呼び方も変わらない。

 まだ、親しいわけではない。


 完全に噛み合ったわけでもない。


 それでも。


 ほんの少しだけ。

 やりやすくなっている。


 エリシアは次の書類を手に取った。


 そして、心の中で小さく思う。


(……悪くないですわ)


 認めるには、まだ少し早い。

 受け入れるには、まだ距離がある。


 だが、同じ速度で進めるのなら。


 この場所で、共に動けるのなら。

 少なくとも、今よりは悪くない。


 紙の音が、小さく重なる。


 エリシアの手元で。


 イリスの手元で。


 二つの速度は、初めて少しだけ揃っていた。

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