表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第1章 騎士団長編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
59/230

第59話 揃え続ける者

 ――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国 東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁 執務室――夜。


 人の気配が減っていく。


 昼のうちは絶えず響いていた足音も、報告の声も、書類を運ぶ気配も、夜になると少しずつ遠ざかる。


 執務室は静かになっていた。

 それでも、机の上には書類が残っている。


 報告書。

 物資台帳。

 配置表。


 昼のうちに処理しきれなかったものが、まだ数束ある。


 エリシアは椅子に座り、ペンを走らせていた。


 止まらない。


 一定の速度。


 迷いはない。


 書類を確認し、必要な箇所に印を入れ、次に回すものと保留するものを分ける。


 整っている。


 それが、エリシアにとっては当たり前だった。


 誰かが迷わないように。

 誰かが止まらないように。


 明日の朝、最初にこの机を見る者が、すぐに動けるように。そのために、夜のうちに形を整えておく。


 ただ、それだけのことだった。


 ――ふと。


 ペンを持つ手が止まる。


 昼のやり取りが、頭に浮かんだ。


『回ることと、正しいことは別です』


 イリスの声。

 柔らかく、静かで。


 だが、逃げない声だった。


(……正しい)


 エリシアは認める。

 否定はできない。


 回っているからといって、正しいとは限らない。誤差を許容し続ければ、どこかでずれは大きくなる。


 小さな不便を見過ごせば、やがて誰かの負担になる。


 それは、分かっている。

 分かっているからこそ、困る。


(だから、困るのよ)


 エリシアはペンを置いた。


 小さく息を吐く。


 夜の執務室に、その音だけが落ちる。


(その通りにしたら)


(回らなくなる)


 エリシアは知っている。


 人は、揃わない。

 書類は、ずれる。

 予定は、崩れる。


 誰かが急ぎ、誰かが忘れ、誰かが判断を間違える。それでも、組織は止められない。止まった瞬間に、遅れが積み重なる。


 一つの確認のために全体を止めれば、別の場所で待ちが生まれる。


 待ちが増えれば、焦りが生まれる。焦りが生まれれば、また別のずれが起きる。


 だから、多少の誤差は許容する。


 多少の無理は飲み込む。その場で完全に正すのではなく、流れの中で修正する。


 それが、現場だ。それが、第七騎士団を止めないために必要なことだった。


(あの人は)


 イリスの姿が浮かぶ。


 静かに書類を見る横顔。


 紙の流れを追う目。


 誰かを責めることなく、ずれだけを抜き取る手つき。


 押さない。

 急がない。

 声を荒げない。


 それでも、整えてしまう。


(……ずるい)


 小さく、そう思った。


 口には出さない。

 出す必要もない。


 努力していないわけではない。


 イリスは見ている。


 考えている。

 確かに働いている。


 それは分かる。


 だが、無理をしているようには見えない。

 歯を食いしばっているようにも見えない。


 それなのに、成立している。


 止めずに直す。


 流れを崩さず、誤差を消す。


 それを、まるで当然のようにやってしまう。


(同じやり方では)


(無理よ)


 エリシアは視線を落とした。

 自分の書類は、完璧ではない。


 完璧ではないことを、本人が一番よく知っている。


 どこかに妥協がある。

 どこかに後回しがある。


 今は処理しないと決めたものがある。


 明日の朝に回すものがある。


 それでも、回っている。

 止まっていない。


 人が動ける。

 報告が流れる。


 部隊は待たない。

 それでいい。


 そうしてきた。

 そうして、この場所を保ってきた。


(……でも)


 ほんのわずかに。

 胸の奥が揺れる。


 昼の光景。


 イリスが、止めずに整えたやり方。


 リリアが目を輝かせた瞬間。


 書類の流れが、少しだけ楽になった瞬間。


 あれが、できるのなら。


 ――もっと、良くなるのではないか。


 その考えを、エリシアはすぐに切った。


(必要ありません)


 強く。

 自分に言い聞かせるように。


(現場は、理想で動かない)


 正しさだけでは回らない。

 美しい形だけでは維持できない。


 誰もが同じ速度で理解できるわけではない。誰もが同じ精度で動けるわけではない。


 だから、余白ではなく、基準を作る。

 基準に届かないものを拾い、流れに戻す。


 崩れそうなところを支え、止まりそうなところを押す。


 それが自分の役割だ。

 エリシアは、そう結論づける。


 ペンを取り直した。

 再び、書き始める。


 一定の速度。

 迷いはない。


 紙の上に、細い文字が並んでいく。


 その時。


 足音が一つ、廊下に響いた。

 夜の本庁では、よく響く音だった。


 近づいてくる。


 止まる。


 扉の前。


 だが、ノックはない。

 少しだけ間があった。


 誰かが、そこで立ち止まっている。


 エリシアは顔を上げなかった。


 呼びかけもしない。


 ただ、ペンを止めずにいる。


 やがて、足音は遠ざかっていった。


 誰だったのか。

 それを確かめる必要はない。


 リリアかもしれない。


 イリスかもしれない。


 あるいは、ただ通りかかった騎士かもしれない。どちらでもよかった。


(……必要ありません)


 もう一度、繰り返す。


 自分に。


 そう言い聞かせるように。


 書類は整っていく。


 一枚。

 また一枚。


 処理済みの束が増え、保留の束が薄くなる。


 誰にも見えないところで。

 誰にも褒められない時間に。


 エリシアは、ただ揃え続ける。


 止まらないために。

 崩れないために。


 明日も同じように、この場所が動き出せるように。


 イリスのやり方が間違っているわけではない。自分のやり方が、完全なわけでもない。


 それでも。


 今、この場所を止めずにいるのは、自分のやり方だ。


 エリシアはペンを走らせる。


 紙の音だけが、静かに響く。


 揃え続ける。


 それが。


 今の自分の役割だから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ