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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第1章 騎士団長編

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第58話 揃え方の違い

 ――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国 東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁 執務室――昼。


 書類が積まれている。


 報告書。

 物資台帳。

 配置表。


 どれも、ひとつひとつは整っている。だが、並べて見ると、少しだけ噛み合っていなかった。


「……これ、合ってないですよね?」


 リリアが眉を寄せる。


 目の前にあるのは、物資確認用の帳簿だった。記載された数と、別紙の報告数が合わない。


 大きな差ではない。

 だが、確かにずれている。


「ええ」


 イリスが静かに答えた。


「どこかでずれています」


 落ち着いた声だった。


 焦りはない。


 リリアは帳簿と報告書を見比べる。


「……結構、ありますよね」


「一つずつ確認しましょう」


 イリスは紙を手に取る。


 品目。

 日付。


 倉庫番号。

 移動先。


 順に追っていく。


 止まらない。


 戻らない。


 ただ、流れるように目が動く。


 リリアはその横顔を、少しだけ感心したように見ていた。


 イリスは慌てない。

 急いでいるようにも見えない。

 けれど、速い。


「ここですね」


 指が止まる。


「転記の際に、一行ずれています」


 リリアが覗き込む。


「……ほんとだ」


「こちらも連動しています」


 イリスは次の書類を取る。


 さらに次。帳簿のずれが、別の報告書に移り、さらに配置表へ繋がっている。


 一つの誤記ではない。小さなずれが、紙の上を静かに移動していた。


「ここを直せば、戻ります」


 静かな結論だった。


「……イリス様、すごいです」


 リリアが素直に言う。


 イリスは首を振った。


「大したことではありません」


「でも、すぐ分かりました」


「流れを見ただけです」


 淡々としている。


 誇るでもなく、遠慮しすぎるでもない。

 ただ、そういうものとして答えている。


 その時だった。


「何をしているの?」


 エリシアの声がした。


 空気が少し締まる。


 リリアが反射的に背筋を伸ばした。


「帳簿の確認です」


 イリスが答える。


 エリシアは近づき、書類に目を通した。


 視線が速い。


 どこが問題で、どの程度のずれなのかを、すぐに把握する。


「……誤差ね」


 短く言った。


「許容範囲よ」


 迷いがない。


 リリアが少し戸惑う。


「え、でも……」


「運用上、問題はありません」


 エリシアはきっぱりと言う。


「次の集計時にまとめて修正すれば十分です。今ここで流れを止める必要はありません」


 止めないための判断だった。


 実際、それは正しい。


 今すぐ直すために処理を止めれば、別の確認が遅れる。担当者に差し戻せば、さらに時間を使う。


 この程度のずれなら、次の集計で修正した方が早い。リリアにも、それはなんとなく分かった。


 だから、何も言えなくなる。


 イリスは一瞬だけ黙った。


「そうですね」


 静かに頷く。


 エリシアの判断を否定しない。


 だが。


「このままですと」


 イリスは、もう一枚の報告書を手に取った。


「次の報告で、さらにずれます」


 エリシアの視線が止まる。


「……それでも、回ります」


 少しだけ強い声だった。


「はい」


 イリスは頷く。


「回ると思います」


「なら問題はありません」


「ただ」


 イリスは、首を傾げるようにして続けた。


「回ることと、正しいことは別です」


 やわらかい声。

 だが、逃げない。


 一瞬、空気が張る。


 リリアが二人の顔を見比べる。


 エリシアは表情を変えない。


「現場では、優先順位があります」


「はい」


「止めないことが最優先です」


 はっきりとした言葉だった。


 エリシアは、止まる怖さを知っている。


 ひとつの確認に時間を取られれば、別の処理が詰まる。別の処理が詰まれば、人が止まる。人が止まれば、部隊が止まる。


 だから、誤差は誤差として処理する。

 流れを止めずに、あとでまとめて直す。


 それが、ここを回すためのやり方だった。


 イリスは静かに聞いていた。


「理解しています」


 一瞬の間。


 それから、自然に言う。


「ですから、止めずに直します」


 エリシアの目がわずかに細くなる。


「……どうやって?」


 声が、少しだけ低い。


 イリスは紙を整えた。


 今処理中の束。

 次に回す束。

 集計前の控え。


 その順序を、少しだけ変える。


「こちらを先に通します」


 イリスは一枚を抜き出す。


「この部分だけ差し替えます」


 さらに、控えの一部に印をつけた。


「担当者へ戻すのは、この一枚だけで済みます」


「……」


「全体の流れは止まりません。次の報告へ出る前に、ずれだけが消えます」


 リリアが目を見開いた。


「……ほんとだ」


 回る。


 しかも、整う。


 差し戻しも最小限。

 手を止める人数も少ない。


 全部をひっくり返すわけではない。


 今の流れを使ったまま、ずれだけを抜き取っている。


 エリシアは黙っていた。


 数秒。


 書類を見る。

 順序を見る。


 イリスを見る。


 やがて、短く言った。


「……任せるわ」


 否定はしない。


 だが、完全に受け入れているわけでもない。その声には、わずかな硬さが残っている。


「はい」


 イリスは静かに頷いた。


 エリシアはもう一度だけ書類を見てから、その場を離れる。


 足音が遠ざかる。


 執務室の空気が、少しだけ戻った。


「すごいです、イリス様……」


 リリアが小さく言った。

 さっきより、少し強い声だった。


 ただ感心しているだけではない。

 目の前で、違いを見た声だった。


 イリスは少し考えてから、答える。


「やり方が違うだけです」


「でも」


「エリシアさんの判断も、間違っていません」


 イリスは書類を揃えながら言う。


「止めないことを優先するなら、先ほどの判断が正しいです」


「では、イリス様のやり方は?」


「止めずに直せるなら、直すというだけです」


「……」


「どちらも、整え方です」


 リリアは書類を見る。


 机の上には、同じように整えられた紙が並んでいる。


 エリシアが揃えたもの。


 イリスが並べ直したもの。


 どちらも、乱れていない。

 どちらも、間違ってはいない。


 でも。


(……違う)


 リリアは、胸の中で思った。


 同じ“整える”でも。


 こんなに違うのだ。


 エリシアは、止めないために揃える。


 イリスは、ずれを残さないために揃える。


 どちらも正しい。

 だからこそ、難しい。


 リリアは、そっと書類の端を揃えた。


 紙の音が、小さく鳴る。

 その音は、いつもと同じようで。


 ほんの少しだけ、違って聞こえた。

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