第57話 第十一騎士団と動かない男(後)――離れない理由
――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国 東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁 団長室――
――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国 東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁 団長室――
第七騎士団長室は、本来、団長が面会や個別の報告を受けるための部屋である。
もちろん執務もできるよう整えられているが、レオンは普段、ほとんどこの部屋を使っていない。日常の仕事は、エリシアやリリアたちが出入りする執務室で処理する方が早いからだ。
だからこそ、ノインをここへ呼んだ時点で、これは通常の確認ではなく、団長として個別に聞く話だった。
その団長室は、いつもより静かだった。
机の上には書類が並び、棚には処理済みの報告書が整えられている。
窓際には、午前の光が細く差し込んでいた。
その中央に、レオンが座っている。
その隣に、エリシアが立っていた。
そして、机を挟んだ向かいには、ノイン・ヴァルツェンがいる。
背筋はまっすぐ。
表情は静か。
呼び出された理由を察しているのか、いないのか。
少なくとも、その顔からは何も読めない。
「……聞いたぞ」
レオンがぽつりと言った。
ノインは表情を変えない。
「第十一の話だ」
「はい」
短い返答。
「断ったらしいな」
「はい」
それ以上はない。
レオンは少しだけ考える。
(おかしい)
あのノインが。
合理で動く男が。
最適解を捨てた。
副団長から、新設騎士団の初代団長へ。
普通なら、断る理由がない。いや、普通でなくても、ほとんどの者は受ける。
権限。
名誉。
立場。
どれを取っても、今より上だ。
それでも、ノインは断った。
「……理由、聞いてもいいか」
静かな問いだった。
強制ではない。
詰問でもない。
ただ、知りたいというだけの声。
ノインは一瞬だけ沈黙する。
「……可能であれば」
前置き。
それから、ノインはまっすぐレオンを見た。
「もうしばらく、団長のもとで働きたいと考えております」
その言葉は、まっすぐだった。
曇りがない。
迷いもない。
レオンは一瞬、言葉を失う。
「……俺のもとで?」
「はい」
ノインは、いつもと同じ声で答える。
「団長のもとで働くことは、私にとって得るものが多いと考えております」
「……」
「第十一騎士団長という役目が重要であることは、理解しています」
静かな声だった。
「ですが、打診であるならば」
ノインは、わずかに頭を下げる。
「私は、もうしばらく、あなたのもとに残りたいと思っております」
その言葉に、レオンは完全に黙った。
胸の奥に、少しだけ熱が灯る。
自分の下に残りたい。
そう言われた。
ノインのような男に。
それは、軽く受け取れる言葉ではなかった。
(……そうか)
思っていた以上に、響いた。
レオンは視線を少しだけ落とす。
そして、ゆっくり息を吐いた。
「……そうか」
それしか言えなかった。
少し遅れて、レオンは小さく頷く。
「ありがたいな」
本音だった。
ノインは何も言わない。
ただ、わずかに頭を下げる。
それで会話は終わる。
静かに。
自然に。
だが、その隣に立っていたエリシアは、別のことを考えていた。
(……違いますわね)
今の言葉は、嘘ではない。ノインは本当に、レオンのもとで働き続けたいと思っているのだろう。
それ自体は間違っていない。ノインほどの男が、心にもないことを言うとは思えない。
けれど。
(団長だけではありません)
エリシアは、わずかな違和感を見逃さなかった。
言葉を発した直後。ノインの視線が、ほんの一瞬だけ横へ流れた。
団長室の扉。
その向こう。
廊下の先。
そこには、リリアが使う小さな作業机がある。リリアが書類を届けに来る時、必ず通る場所でもあった。
ノインの視線は、すぐに戻った。
本当に一瞬。気づかない者なら、何も分からない。
だが、エリシアは見ていた。
(……信じがたいですね)
ほんのわずかに、思考が揺れる。
あの副団長が。
規律第一。
私情排除。
任務優先。
それを体現し続けてきた男。
感情を挟まず、常に正しさを選ぶように見えた人間が。
(誰よりも“正しさ”に忠実だった人が)
視線を逸らさず、エリシアは現実を見る。
(……あのようになるとは)
驚きは小さい。
だが、確かにあった。
ノインの態度に乱れはない。
言葉にも出さない。
職務にも出さない。
だが、理由のすべてがレオンにあるわけではない。それは、もう明らかだった。
そしてエリシアは、すぐにその事実を心の中へ押し込める。
(……ですが)
感情ではなく、評価する。
(職務に支障はありません)
統率。
判断。
処理速度。
部下への指示。
どれも精度は一切落ちていない。
むしろ、リリアが第七騎士団に関わるようになってから、ノインの勤務態度はさらに安定している。
無遅刻。
無欠勤。
処理漏れなし。
過剰な接触もなし。
私情を公務へ持ち込んでいる様子もない。
(ならば、問題はありません)
それが、エリシアの結論だった。
普通なら、問題しかない。
だが、この第七騎士団においては、職務に支障がないなら一旦保留にできる。
少なくとも、今は。
その時だった。
「お兄さま」
扉の向こうから、控えめな声がした。
レオンが顔を上げる。
「入れ」
扉が開く。
リリアが顔を出した。
いつも通りの笑顔。
それだけで、団長室の空気が少しだけ柔らぐ。
「こちら、まとめておきました」
「……ああ、助かる」
レオンが書類を受け取る。
リリアは、部屋の中にいたノインにも気づいて、丁寧に頭を下げた。
「ノイン副団長、お疲れさまです」
「お疲れさまです、リリア様」
ノインの声は、いつも通りだった。
平静。
端正。
過不足なし。
ただ、その視線が――。
一瞬だけ、リリアへ向く。
本当に一瞬。
誰も気づかない程度。
だが、エリシアは見逃さなかった。
(……やはり)
確信する。
(離れたくないのは)
(団長だけのためではありませんわね)
静かな理解だった。
リリアは何も気づいていない。
レオンも気づいていない。
ノインも、気づかれているとは思っていないだろう。
それでいい。
少なくとも、今は。
リリアは書類を渡し終えると、少しだけ笑う。
「では、失礼します」
「ああ」
レオンが短く返す。
リリアはもう一度小さく頭を下げて、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
空気はまた、元の静けさに戻る。
ノインはすぐに姿勢を正していた。
乱れていない。
動揺もしていない。
何もなかったかのように、次の言葉を待っている。
(……それでも)
エリシアは、わずかに目を伏せる。
(正しさは、崩れていません)
私情はある。
だが、職務は乱れていない。
理由は不純かもしれない。
だが、結果は正しい。
ならば。
(問題はありません)
そう結論づける。
レオンは知らない。
ノインの本当の理由を。
そして、それでいいとエリシアは思った。
知れば、レオンは確実に面倒な顔をする。
リリアが知れば、困ってしまう。
ノインが知られたと知れば、完璧な顔のまま何かが終わるかもしれない。
だから、誰も知らなくていい。
ただ一人を除いて。
(……本当に困った人ですね)
エリシアは心の中で呟く。
それでも。その男は今日も、完璧に職務をこなしていた。
机の上の書類は乱れない。
指示は正確。
判断は迅速。
副団長として、何一つ欠けていない。
だからこそ、余計に扱いづらい。
「分かった」
レオンが静かに言った。
「第十一の件は、保留になるだろう」
「はい」
「ただ、いつまでも逃げられるとは限らないぞ」
「承知しております」
「それでも残るのか」
「はい」
迷いのない返答だった。
レオンは、もう一度だけ小さく息を吐く。
「……そうか」
それ以上は言わなかった。
その一人の判断によって――。
第十一騎士団の編成は、静かに遅れていくことになる。




