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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第1章 騎士団長編

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第55話 近づく声

 ――帝国暦三二〇年・秋終盤 ヴェリア帝国 東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁 中庭――


 最近、レオンの姿は中庭にあることが増えた。


 執務室から少し離れた場所。本庁の喧騒は届くが、机の上の書類までは追ってこない。


 短い休憩のつもりで出てきて、気づけば少し長く話している。


 そんな時間が、いつの間にか増えていた。


「それで、その港町は?」


 レオンが尋ねる。


 隣に立つイリスは、静かに視線を空へ向けた。


「昼と夜で、まるで別の場所のように見えるのです」


「別の場所?」


「ええ。灯りの色も、人の声も変わります」


 イリスは淡々と語る。


 けれど、その声には確かな熱があった。


「昼は仕事の音。夜は、生きる音に変わる」


 レオンは頷く。


「……面白いな」


「ええ」


 イリスが、わずかに微笑む。


 自然な会話だった。

 無理がない。


 説明を重ねなくても、話が進む。


 沈黙が挟まっても、気まずくならない。


(……楽だな)


 レオンは、そう思った。


 気を使わない。

 余計に飾らなくていい。


 知りたいことを聞けば、イリスは答える。


 分からないことがあれば、分からないまま受け止める。それが、妙に心地よかった。


「レオン様は、どこに行ってみたいのですか?」


「……海だな」


 ほとんど即答だった。


 イリスは少しだけ目を細める。


「では、まずそこからですね」


「簡単に言うな」


「言うだけなら簡単です」


「実行が面倒なんだよ」


「それは、あなたの方が詳しいでしょう」


「そうだな」


 レオンは小さく笑った。


 そのやり取りを。

 少し離れた場所で、二人が見ていた。


 エリシアと、リリアだった。


(……あの顔)


 エリシアは気づく。


 レオンが、楽しそうに話している。


 仕事では見せない表情。


 書類を処理している時でも、部下に指示を出している時でも、ああいう顔はあまりしない。


 緩んでいるわけではない。

 気を抜いているわけでもない。


 ただ、少しだけ遠くを見ている。


(……私は)


 あの顔を、引き出せていただろうか。


 答えは出ない。


 隣で、リリアもまた、視線を外さずにいた。


(……お兄様、楽しそう)


 それは嬉しいことのはずだった。


 兄が楽しそうにしている。

 誰かと自然に話している。


 それは悪いことではない。

 むしろ、きっと良いことだ。


 けれど、リリアの胸の奥には、少しだけ落ち着かないものがあった。


 知らない時間。

 知らない会話。


 自分では聞いたことのない場所の話。

 自分では見たことのない世界の話。


(……でも)


 リリアはほんの少しだけ息を吐く。


(イリス様は、悪い方ではない)


 それは分かっている。


 一緒に過ごして、感じている。


 イリスは優しい。

 静かで、賢くて、押しつけない。


 リリアの話も、きちんと聞いてくれる。


(……でも、ちょっとだけ)


 視線が細くなる。


(危ない)


 理由は、うまく言えない。


 イリスが悪いわけではない。


 レオンが悪いわけでもない。


 けれど、このままでは。


(……変わる)


 その予感だけが、リリアに残った。


 ■第七騎士団 本庁 執務室――


 その日の執務室。


 いつものように書類が並び、いつものように人が動いている。だが、空気は少しだけ違っていた。


「こちら、処理終わりました」


 リリアが書類の束を差し出す。


「助かる」


 レオンが受け取った。


 軽く目を通し、小さく頷く。


「本当に有能だな」


 自然に出た言葉だった。


 リリアは一瞬だけ目を見開く。


「……ありがとうございます」


 嬉しい。

 それは間違いない。


 褒められた。

 兄に認められた。


 胸の奥が、ふわりと温かくなる。


 けれど。


「イリスも、判断が早い」


 レオンが続けた。


「状況の見方がいい」


 無意識だった。

 ただ、思ったことを口にしただけ。


 比べるつもりも、並べるつもりもない。


 それだけなのに。

 空気が、わずかに変わった。


 エリシアの手が止まる。


(……並べられた)


 レオンに意図はない。

 だからこそ、余計に引っかかる。


 自然に並んだ。


 リリアの仕事ぶりと、イリスの判断力が。


 同じ流れの中で語られた。


(……差が出る)


 立場の差。


 見てきたものの差。


 できることの差。


 そのすべてが、言葉の裏に浮かぶ。


「さすが皇女殿下ですね」


 エリシアが言った。


 声は変わらない。

 だが、わずかに硬い。


「いえ」


 イリスは首を振る。


「見てきたものが違うだけです」


 淡々とした声だった。


 否定でもない。


 誇示でもない。


 ただの事実。


(……届かない)


 エリシアは思う。


 同じ場所に立っていない。

 同じものを見ていない。


 だから、同じ言葉で測れない。


 一方で、リリアは静かに微笑んだ。


「素晴らしいですね」


 やわらかく言い、そのままイリスを見る。


 その声に棘はない。


 素直だった。


(……すごい)


 そう思う。

 認めている。


 イリスは本当にすごい。

 自分では見えないものを見ている。


 兄が楽しそうに話すのも、少しだけ分かる。


(……でも、ちょっとだけ)


 胸の奥が引っかかる。


(……やっぱり怖い)


 それは敵意ではない。


 嫌いでもない。


 ただ、変わってしまいそうなものへの感覚だった。リリアは、書類を胸元にそっと抱え直した。


 ■第七騎士団 本庁 廊下――


 その夕方。


 執務室の外に出たところで、イリスが声をかけた。


「レオン様」


「なんだ」


「少し、お話よろしいでしょうか?」


「ああ」


 返答に迷いはなかった。


 二人は並んで歩き出す。


 それは特別なことではなくなりつつあった。


 短い移動の間。


 中庭へ出る前。


 廊下の端で足を止める時。


 イリスが話しかけ、レオンが応じる。

 その流れが、自然に生まれている。


 エリシアは、その背中を見ていた。


(……レオンが迷わない)


 以前とは違う。


 外の話をする時。

 知らない場所の話を聞く時。

 レオンは、ほんの少しだけ前に出る。


 引き止める理由はない。


 止める理由もない。


 だが、見ているだけでは済まないものが、そこにはあった。


 そばで、リリアも同じ背中を見ている。


(……当たり前みたいに)


 隣にいる。


 日常のように。


 イリスが。


 二人の背中が遠ざかる。


「……エリシアさん」


 リリアが静かに呼んだ。


「はい」


「このままで、よろしいのでしょうか?」


 エリシアは、すぐには答えなかった。


(……よくありません)


 そう思う自分がいる。


 だが。


(……止めるのも違う)


 それも分かっている。


 レオンが外に興味を持つこと。


 イリスと話すこと。


 リリアが不安を覚えること。


 そのどれも、間違ってはいない。


 だから、簡単に答えを出せない。


「……分かりません」


 エリシアは正直に言った。


 それは、彼女にしては珍しい答えだった。


 リリアは小さく頷く。


「そうですか」


 責めない。

 驚かない。


 ただ、受け止める。


(……なら)


 リリアは静かに決める。


(もう少しだけ、頑張ろう)


 何をどう頑張ればいいのか、まだ分からない。けれど、見ているだけではいられない。


 兄が遠くを見るなら。


 その背中を、ただ不安そうに眺めているだけではなく。自分も少しだけ、近づかなければならない。


 エリシアはそれを見て、ほんのわずかに目を伏せた。


(……頼ってしまいますわね)


 本来なら、自分が答えを出すべきなのかもしれない。


 この場を整え、レオンを支え、リリアを守る。そういう役目を、自分は担っていると思っていた。


 それでも。


(……今は答えが出ません)


 そう思ってしまう。


 レオンの中では、もう止められない変化が起きていた。


 イリスと話す時間。

 それが、当たり前になりつつある。


 その“当たり前”が、静かに周囲を変えていく。まだ誰も、はっきりとは止められないまま。

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