名前を呼んで
――帝国暦三二〇年・秋中頃
東ロンバルディア帝国騎士団領
第七騎士団 執務室――
同じ屋敷と、同じ職場。
距離は、自然と縮まる。
「……皇女様、こちらでよろしいでしょうか?」
リリアが、少しだけ遠慮がちに言う。
まだ残る、呼び方の距離。
イリスは書類から顔を上げる。
「“皇女様”はやめてください」
やわらかく言う。
「ここでは、その必要はありません」
押しつけない。
だが、線は引く。
リリアは少し考えて。
「……では、イリス様で」
一歩、踏み出す。
完全ではない。
でも、確実に近い。
イリスは微笑んで、小さく頷く。
「はい、それで構いません」
それだけで、十分だった。
だが、受け入れている。
そして、ほんの少しだけ付け加える。
「正式には“イリスティア”ですが、その名で呼ばれることは、あまりありませんので」
静かな補足。
リリアの表情が、わずかに柔らぐ。
「……素敵なお名前ですわ」
素直に言う。
「ですが」
小さく微笑む。
「イリス様の方が、今はしっくりまいります」
距離を選ぶ言い方。
イリスは、ほんの少しだけ視線を逸らして微笑み。
「……そうですか」
短く返す。
否定しない。
――数日後。
屋敷の廊下。
「イリス様」
リリアが軽く手を振る。
仕草は柔らかい。
呼び方に、もう迷いはない。
「どうされましたか?」
「少し、お時間よろしいでしょうか」
控えめだが、距離は近い。
「こちら、少しだけ見ていただきたくて」
イリスは自然に足を止める。
話を聞き、少しだけ考える。
「こちらの方が良いと思います」
静かに指摘する。
リリアはすぐに頷く。
「なるほど……そうですのね」
素直に受け取る。
「ありがとうございます、イリス様」
やわらかく微笑む。
その品のあるまっすぐさに。
イリスは、ほんの少しだけ目を細める。
「……リリア様は」
言葉を続ける。
「判断が早いですね」
簡潔な評価。
だが、きちんと見ている。
リリアは少しだけ驚いたように瞬きをして。
「そうでしょうか?」
小さく首を傾げる。
「自分では、あまり意識しておりませんでした」
イリスは頷く。
「迷いが少ない」
短く、だが的確に。
リリアは少しだけ照れたように微笑む。
「イリス様の方が、ずっとお見事ですわ」
自然に言う。
「見ていらっしゃるところが、まるで違いますもの」
イリスの動きが止まる。
そして。
「……そうかもしれません」
わずかに視線を逸らす。
否定しない。
受け取る。
それだけで。
距離が、また少し縮まる。
少し離れた場所。
レオンがそれを見ている。
腕を組み、壁にもたれて。
何も言わない。
「お兄様」
リリアが気づく。
「ご覧になっていらしたのですか?」
柔らかく問いかける。
レオンは妹に視線を向ける。
「見てた」
短く返す。
リリアが、少しだけ嬉しそうに微笑む。
「わたくしたち、上手くやれておりますでしょう?」
控えめな誇らしさ。
イリスがその横で小さく笑う。
「ええ」
「とても助かっています」
自然な物言い。
だが、軽くない。
レオンは二人を見る。
整っているわけではない。
けれど、噛み合っている。
「……そうか」
それだけ言う。
それで足りる。
リリアがまた微笑む。
イリスも、わずかに笑う。
屋敷の空気が、やわらかくなる。
(……悪くない)
レオンは目を細める。
(任せておけばいいか)
その時、リリアが少しだけためらってから口を開く。
「……イリス様」」
「もしよろしければ」
「今度、ご一緒に外を歩きませんか?」
丁寧にしっかりとした誘い。
「屋敷の外は、まだあまりご覧になっていないかと」
やわらかく続ける。
イリスはわずかに目を見開く。
「……ええ」
小さく頷く。
「是非」
その返事は、静かで迷いがない。
リリアの表情が、ふっと明るくなる。
「ありがとうございます」
嬉しさを、きちんと抑えながら。
そのやり取りを見て。
レオンは何も言わない。
(……広がってるな)
そう思う。
自分だけではない。
この場所そのものが。
少しずつ変わっていく。




