第54話 名前を呼んで
――帝国暦三二〇年・秋中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁 執務室――
同じ屋敷に滞在し、同じ本庁へ通うようになると、距離は自然と縮まっていく。
それは劇的な変化ではない。
挨拶の回数が増える。
同じ机の近くに立つ。
同じ書類を見る。
分からないことを尋ねる。
そうした小さな積み重ねが、少しずつ呼び方にも現れ始めていた。
「……皇女様、こちらでよろしいでしょうか?」
リリアが、少しだけ遠慮がちに言う。
手には、整理途中の書類があった。
まだ残る、呼び方の距離。
イリスは書類から顔を上げる。
「“皇女様”はやめてください」
やわらかく言った。
「ここでは、その必要はありません」
押しつけない。
だが、線は引く。
リリアは少し考えた。
「……では、イリス様で」
一歩、踏み出すような声だった。
完全に近いわけではない。
けれど、確実に先ほどより近い。
イリスは微笑んで、小さく頷く。
「はい。それで構いません」
それだけで、十分だった。
だが、リリアはまだ少し迷っているようだった。
「本当に、よろしいのですか?」
「ええ」
「皇女様を、お名前でお呼びするのは、少し失礼ではないかと……」
「名前は、呼ぶためにあるものです」
イリスは静かに言う。
「それに、私はその呼び方の方が好きです」
リリアの表情が、わずかに柔らぐ。
「……素敵なお名前ですわ」
素直に言った。
「ですが」
小さく微笑む。
「イリス様の方が、今はしっくりします」
距離を選ぶ言い方だった。身分ではなく、人を見て呼ぼうとしている。
イリスは、ほんの少しだけ視線を逸らして微笑む。
「……そうですか」
短く返す。
否定しない。
受け取る。
それだけで、部屋の空気が少しやわらいだ。エリシアは少し離れた場所で書類を整理している。
レオンは机に向かい、別の書類をめくっていた。
誰も口を挟まない。
ただ、呼び方がひとつ変わっただけ。
けれど、その小さな変化は、確かにそこに残った。
■ヴァイス邸 廊下――
数日後。
屋敷の廊下で、リリアが軽く手を振った。
「イリス様」
その呼び方に、もう迷いはない。
仕草は柔らかく、声も自然だった。
イリスは足を止める。
「どうされましたか?」
「少し、お時間よろしいでしょうか」
控えめだが、距離は近い。
「こちら、少しだけ見ていただきたくて」
リリアが差し出したのは、本庁で使う簡単な整理案だった。
自分なりに考えたのだろう。
文字は丁寧で、内容も分かりやすい。
ただ、ところどころに迷いがある。
イリスは受け取り、少しだけ目を通した。
「こちらの方が良いと思います」
静かに指摘する。
「先に分類を決めるより、実際に使う方の順番に合わせた方が、迷いが少なくなります」
リリアはすぐに頷いた。
「なるほど……そうですのね」
素直に受け取る。
反発しない。
言い訳もしない。
すぐに内容を見直し、指摘された箇所に目を落とす。
「ありがとうございます、イリス様」
やわらかく微笑む。
その品のあるまっすぐさに、イリスはほんの少しだけ目を細めた。
「……リリアさんは」
「はい?」
「判断が早いですね」
簡潔な評価。
だが、きちんと見ている言葉だった。
リリアは少しだけ驚いたように瞬きをする。
「そうでしょうか?」
小さく首を傾げた。
「自分では、あまり意識しておりませんでした」
イリスは頷く。
「迷いが少ないです」
短く、だが的確に。
「分からないものは尋ねる。納得したら、すぐに直す。それは簡単なようで、誰にでもできることではありません」
リリアは少しだけ照れたように微笑む。
「イリス様の方が、ずっとお見事ですわ」
自然に言った。
「見ていらっしゃるところが、まるで違いますもの」
イリスの動きが止まる。
そして。
「……そうかもしれません」
わずかに視線を逸らす。
否定しない。
受け取る。
それだけで、距離がまた少し縮まった。
少し離れた場所。
レオンがそれを見ている。
腕を組み、壁にもたれていた。
何も言わない。
ただ、二人のやり取りを見ている。
「お兄様」
リリアが気づく。
「ご覧になっていらしたのですか?」
柔らかく問いかける。
レオンは妹に視線を向ける。
「見てた」
短く返す。
リリアが、少しだけ嬉しそうに微笑む。
「わたくしたち、上手くやれておりますでしょう?」
控えめな誇らしさ。
それが少しだけ声に混じっていた。
イリスがその横で小さく笑う。
「ええ」
リリアへ向けて、静かに言った。
「とても助かっています」
自然な物言い。
だが、軽くはない。
レオンは二人を見る。
整っているわけではない。
けれど、噛み合っている。
速さも、考え方も、立場も違う。
それでも、無理なく隣に立てている。
「……そうか」
それだけ言う。
それで足りた。
リリアがまた微笑む。
イリスも、わずかに笑う。
屋敷の空気が、やわらかくなる。
(……悪くない)
レオンは目を細める。
(任せておけばいいか)
その時、リリアが少しだけためらってから口を開いた。
「……イリス様」
「はい」
「もしよろしければ」
リリアは、背筋を伸ばす。
「今度、ご一緒に外を歩きませんか?」
丁寧で、しっかりとした誘いだった。
「屋敷の外は、まだあまりご覧になっていないかと」
やわらかく続ける。
イリスはわずかに目を見開いた。
それは、客人への案内というよりも。自分の知っている場所を、一緒に見てほしいという誘いに聞こえた。
「……ええ」
小さく頷く。
「ぜひ」
その返事は、静かで迷いがない。
リリアの表情が、ふっと明るくなる。
「ありがとうございます」
嬉しさを、きちんと抑えながら。
そのやり取りを見て、レオンは何も言わなかった。
(……広がってるな)
そう思う。
自分だけではない。
リリアも。
イリスも。
この場所そのものも。
少しずつ、外へ向かって広がっていく。
それは、悪い変化ではないように思えた。




