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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第1章 騎士団長編

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第53話 本当の姫様

――帝国暦三二〇年・秋中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁前――


 朝、ヴァイス邸を出る。


 レオン。

 リリア。

 イリス。


 今日、三人は並んで、第七騎士団本庁へ向かって歩いていた。


 言葉は少ない。


 だが、空気は重くない。


 リリアが時折、道端の花や通り過ぎる騎士に小さく反応し、レオンが短く返す。


 イリスは、そのやり取りを静かに見ていた。


 やがて、本庁前が見えてくる。


 整列する騎士たち。

 無駄のない配置。


 揃った足並み。

 静かな緊張。


 朝の第七騎士団は、すでに動き始めていた。その中で、数名の騎士たちがこちらに気づく。


 次の瞬間。


「姫様、おはようございます!」


 声が揃った。

 一糸乱れぬ礼。

 視線が、まっすぐ向けられる。


 イリスの足が、わずかに止まった。


(……私に?)


 自然に、そう思う。


 この整い方。

 この空気。


 そして、“姫様”という呼びかけ。


 身分を考えれば、そう受け取るのが普通だった。


(……そういうものかしら)


 イリスは一瞬だけ、その呼びかけを受け止めかける。


 だが、その隣で。


「ち、違います!」


 リリアが慌てて一歩前に出た。


「すみません、皇女様にじゃなくて、私にです!」


 空気が止まる。

 イリスはゆっくりと瞬きをした。


「……そうでしたか」


 静かに返す。


 リリアはさらに慌てる。


「すみません、驚かせてしまって……!」


 ぺこりと頭を下げた。


 レオンが横で息を吐く。


「……毎朝だ」


 呆れた声だった。


「気にするな。あいつらの姫様は、そっちだ」


「お兄さま!」


「事実だろう」


 リリアは困ったように頬を赤くする。


 だが、騎士たちの表情は真剣だった。


 からかいではない。

 悪ふざけでもない。


 彼らは、本気でリリアに向けて礼をしている。


 特別な儀式ではない。


 ただの日常。


 リリアは少しだけ顔を上げて、騎士たちの方を見る。そして、小さく息を吸った。


「おはようございます!」


 今度は、自分から。

 少しだけ大きな声。


 まだぎこちない。

 でも、ちゃんと届く声だった。


「おはようございます、姫様!」


 返ってくる声もまた、揃っていた。


 だが、先ほどより少しだけ柔らかい。


 誰かが笑みを浮かべる。

 誰かが、わずかに姿勢を正す。


 その変化は小さくない。


 リリアはぱっと表情を明るくした。


「……!」


 嬉しそうに、少しだけ胸を張る。


 分かりやすい。

 隠せていない表情だった。


 その様子に、また空気が少し緩む。

 イリスは、その光景を静かに見ていた。


(……違う)


 これは形式ではない。


 命令でもない。

 身分に対して返されている敬意でもない。


 すべてが自然に繋がっている。


 リリアが笑う。

 騎士たちが応える。


 騎士たちが呼ぶ。

 リリアが少し背筋を伸ばす。


 その小さなやり取りが、朝の本庁前に当たり前のように馴染んでいる。


 “姫様”という言葉も。


 与えられているのではなく。


 ひとりでに返されている。


 だから続いている。


 イリスはゆっくりと視線を巡らせた。


 騎士たちの立ち位置。

 リリアを見る目。

 レオンの諦めたような横顔。


 そのどれにも、無理がない。


(……こういう調和もあるのね)


 ほんの少しだけ、認識が変わる。


 整っているのに、固くない。


 敬意があるのに、遠すぎない。


 イリスが知っている宮廷の礼とは違う。同じ“姫様”でも、ここにあるものはまるで別の音をしていた。


 レオンはそれを横目で見ている。


 何も言わず、ただ歩き出した。


「行くぞ」


 それだけ。


 リリアが慌てて後を追う。


「はい!」


 イリスも一歩遅れて歩き出した。


 ■第七騎士団 本庁 廊下――


「さっきは、すみませんでした」


 本庁に入ってすぐ、リリアが改めて頭を下げた。


「勘違いさせてしまって」


 イリスは少しだけ首を振る。


「いえ、問題ありません」


「でも、皇女様の前で姫様なんて、紛らわしかったですよね」


「そうですね」


 イリスは素直に頷いた。


 リリアの肩が小さく跳ねる。


 だが、イリスは続けた。


「ですが、悪いものではありませんでした」


「え?」


「むしろ、興味深かったです」


 リリアが少し驚く。


「そうですか?」


「ええ」


 イリスは頷く。


「良い関係ですね」


 静かな声だった。


 リリアは、少し照れたように笑う。


「えへへ……そうだと、嬉しいです」


「嬉しい?」


「はい。最初は、すごく恥ずかしかったんですけど」


 リリアは歩きながら、小さく笑った。


「でも、みんながそう呼んでくれると、ちゃんとしなきゃって思うんです」


「ちゃんと」


「はい。私は騎士でもありませんし、すごいこともできませんけど」


 少しだけ、背筋を伸ばす。


「でも、ここにいていいんだなって、思えるので」


 イリスは黙って聞いていた。


 リリアの声には、飾りがない。


 誇るためでもない。


 自分を大きく見せるためでもない。


 ただ、本当にそう感じているのだと分かる声だった。


「だから、姫様って呼ばれると、ちょっとだけ頑張れます」


「そうですか」


 イリスは、ほんの少しだけ目を細める。


 リリアはすぐに慌てた。


「あっ、でも本当の姫様は皇女様ですから!」


「本当の?」


「はい。私は、ただみんながそう呼んでくれているだけで……」


 イリスは少しだけ考える。


 それから、静かに言った。


「それなら、なおさら本物に近いのかもしれませんね」


「え?」


「役目や血筋で呼ばれる名は、与えられるものです」


 イリスは前を見る。


「ですが、誰かが自然に返してくれる名は、与えられるだけでは続きません」


 リリアは、ぽかんとした顔でイリスを見た。


 少し難しかったらしい。


 イリスは、ほんの少しだけ口元を緩める。


「つまり、皆があなたをそう呼びたいと思っている、ということです」


「……そう、なんでしょうか?」


「ええ」


 イリスは頷く。


「少なくとも、先ほどの声はそう聞こえました」


 リリアはゆっくりと顔を赤くした。


「……嬉しいです」


 小さな声だった。


 二人は並んで歩き出す。


 距離は自然に近い。

 無理のない間隔。


 イリスは、ほんの少しだけ目を細める。


(……本当の姫様)


 声には出さない。


 だがイリスは、リリアという少女を少し理解した。


 血筋ではない。


 地位でもない。


 それでも、誰かの中で自然にそう呼ばれる人がいる。その事実は、イリスにとって少しだけ興味深く。


 そして、少しだけ羨ましいものでもあった。

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