第52話 合わない音
――帝国暦三二〇年・秋中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁 執務室――
皇女は、そのまま第七騎士団に残ることになった。総騎士団長への挨拶を終えた後、本人の希望により、しばらく第七騎士団本庁に滞在する。
扱いは、あくまで客人。
そう決まった。
それだけなら、珍しくはない。
皇族や貴族が視察の名目で騎士団に滞在することはある。案内し、応接し、見せられる範囲を見せればいい。
だが。
「少し、手伝わせていただけませんか」
その一言で、状況が変わった。
エリシアは書類をめくる手を止める。
「……本気ですか」
「ええ」
イリスは静かに頷いた。
「見ているだけでは、理解が浅くなりますから」
理にかなっている。
否定はできない。
だからこそ、困る。
「殿下はお客様です」
「承知しています」
「業務をお願いする立場ではありません」
「ですから、命令ではなく、許可をいただきたいのです」
迷いがない。
強引ではない。
だが、引く気もない。
エリシアは一瞬だけ黙った。
皇女を働かせるわけにはいかない。
だが、本人が望み、範囲を限定し、機密にも触れさせないのであれば、完全に拒む理由は薄い。
それが一番、厄介だった。
「……では、軽い補助のみです」
エリシアは条件をつける。
「機密書類、人事記録、処分記録には触れないこと。判断を要するものにも手を出さないこと。確認は必ず私か担当者を通すこと」
「分かりました」
「それと、無理はなさらないでください」
「はい」
イリスは素直に頭を下げる。
その動きも、整っていた。
まるで、最初からそこに収まる形を知っていたかのように。
エリシアは小さく息を吐いた。
(……やりにくい)
数日後。
イリスは、もう完全に“外”にはいなかった。
書類の分類。
物資台帳の照合。
報告書の写しの整理。
どれも、あくまで補助の範囲だ。
責任ある判断には触れていない。
機密にも踏み込んでいない。
だから、問題はない。
問題はないはずだった。
「こちらは、倉庫別に分けた方がよろしいですか?」
イリスが静かに尋ねる。
エリシアは差し出された束を見る。
備品確認の写しだった。
分類は正しい。
日付順ではなく、倉庫別。
次に確認する者の手間を考えれば、その方が早い。
「……ええ。その方が見やすいでしょう」
「では、こちらに」
「お願いします」
「はい」
それだけで終わる。
押さない。
主張しない。
褒められようともしない。
自然に、流れに入ってくる。
(……早い)
エリシアは横目で見る。
手際がいい。
覚えもいい。
しかも、余計なことをしない。
これなら止められない。
止める理由が、見つからない。
「皇女様、これ、どうやるんでしたっけ?」
リリアがひょこっと顔を出した。
手には、物資確認用の小さな帳票がある。
エリシアが声をかけるより先に、イリスが視線を向けた。
「これはですね」
イリスは、リリアの隣に紙を置く。
「ここに品目があります。こちらが数、こちらが保管場所です。まず、同じ保管場所のものをまとめてから確認すると、行ったり来たりしなくて済みます」
「なるほどー」
リリアが頷く。
「じゃあ、同じ場所ごとに分ければいいんですね」
「はい。その方が迷いません」
「分かりました」
リリアはそのまま隣に座る。
距離が近い。
だが、不自然ではない。
気づけば、あの二人で作業している。
小さな笑い声も混じる。
(……早い)
今度は別の意味で、エリシアはそう思った。
リリアが人に懐くのは珍しくない。だが、ここまで自然に隣へ入るのは、少し珍しい。
イリスは距離を詰めているわけではない。
押してもいない。
ただ、リリアの速度に合わせている。
それが、妙に場に馴染んでいた。
エリシアは視線を戻す。
書類に集中する。
紙の音。
筆の音。
椅子がわずかに軋む音。
いつもと同じ執務室のはずだった。
だが、二人の会話が耳に入る。
柔らかい声。
少し緩んだ空気。
リリアの小さな笑い。
イリスの静かな相槌。
(……違う)
ここは、そういう場所ではない。
整えるべき場所だ。
無駄を排し。
効率を維持し。
止めない。
止まらせない。
そのために、余白を削ってきた。
迷いを減らしてきた。誰が見ても分かるように、誰が動いても回るように。
そうして、ようやく今の形になった。
それなのに。
イリスは、それを崩さないまま、少しだけ変える。
「少し、詰めすぎかもしれませんね」
ふと、イリスが言った。
書類の配置を見ながら。
エリシアの手が止まる。
「何がですか?」
「この棚です」
イリスは、分類済みの書類を置いた棚を示した。
「種類ごとに揃っていて、とても綺麗です。ただ、取り出す時に、隣の束まで動きます」
「……」
「この間隔なら、もう少し余裕があっても問題ありません。取り出す時間は、少し短くなると思います」
正しい。
エリシアは即座に分かった。
確かに、棚は詰めている。
保管量を優先した結果だ。
だが、日常的に出し入れするものまで同じ密度で詰めているため、扱いづらさはあった。
分かっている。
分かっていた。
だが。
(それをやると)
棚の再配置が必要になる。
一部の保管場所を動かすことになる。
担当者への周知も必要になる。
一時的に、回転が落ちる。
遅れが出る。
その先にあるものを、エリシアは知っている。
「現状で問題はありません」
短く返す。
それ以上は言わせない。
イリスは一瞬だけ、こちらを見る。
何も言わない。
ただ、小さく頷いた。
「そうですか」
それで終わる。
否定しない。
押し返さない。
だが、引いたわけでもない。
エリシアには、それが分かった。
(……この人は)
理解する。
この人は、間違っていない。
それが困る。
間違っていれば、否定できる。
浅ければ、教えればいい。
現場を知らないだけなら、説明すれば済む。
けれど、イリスは違う。
見ている。
理解している。
その上で、別の音を鳴らしてくる。
(その通りにしたら)
(今の形は、少し変わる)
それは、たぶん悪いことではない。
むしろ、良くなる部分もある。
けれど、すぐには受け入れられない。
エリシアが作ってきた音と、イリスが鳴らす音は、似ているのに合わない。
同じ譜面を見ているはずなのに、聞こえている響きが違う。
(……気に入らない)
小さく息を吐く。
一方で。
「これ、楽ですね」
リリアが笑った。
「さっきよりやりやすいです」
イリスが少しだけ微笑む。
「それならよかったです」
それだけで誇らない。
押しつけない。
ただそこにある。
リリアは嬉しそうに紙をまとめている。
作業は遅くなっていない。
むしろ、迷いが減っている。
エリシアは視線を落とした。
書類は整っている。
棚も整っている。
作業も進んでいる。
誰も困っていない。
だが、どこか、違う。
揃っている。
間違っていない。
それなのに。
(……合わない)
それが、結論だった。
不快ではない。
危険でもない。
けれど、落ち着かない。
イリスの音は、静かにこの場所へ混じり始めている。
そしてエリシアは、その音をまだ受け入れきれずにいた。




