第5話 正しい場所に立つということ
――帝国暦三二〇年・春初め グラナート家 屋敷/訓練場――
グラナート家の朝は早い。
夜明け前に起き、身支度を整え、剣を握る。
エリシアにとって、それは特別なことではなかった。幼い頃から、ずっとそうしてきた。
「姿勢が甘い」
低く、よく通る声が訓練場に落ちる。第三騎士団長である父が、木剣を構えて立っていた。
娘を見る目ではない。
ひとりの騎士を見る目だった。
「はい」
エリシアは短く答え、踏み込んだ。
木剣が打ち合う。
一撃。
二撃。
三撃目で、弾かれる。
「遅い」
「もう一度お願いします」
「迷いがある」
「ありません」
即座に否定する。
だが、次の瞬間には足元を崩されていた。
膝がわずかに沈む。
「あるな」
父は淡々と言った。
責めているわけではない。
ただ、見抜いた事実を置いただけだ。
「……承知しております」
「承知しているなら、直せ」
「はい」
剣を握り直す。
力が入る。
自分でも分かった。
硬い。
余裕がない。
「団長の隣に立つ者が、その程度でどうする」
その言葉だけで、思い浮かぶ顔がある。
レオンハルト・ヴァイス。
第七騎士団団長。
幼い頃から知っている。まっすぐで、無駄がなく、誰よりも速く強い。
エリシアは、当然のようにその隣に立つものだと思ってきた。周囲も、それを疑わなかった。
だから、自分も疑わなかった。
「もう一度」
エリシアは踏み込む。
今度は崩れない。
崩れなかったが、父の木剣は喉元の前で止まっていた。
「守ることだけを考えるな」
「……はい」
「正しい位置に立つだけでは、足りない時もある」
珍しく、父が助言めいたことを言った。
エリシアは木剣を下ろしかけ、すぐに止める。
「それは、どういう意味でしょうか?」
「自分で考えろ」
「はい」
やはり、答えは与えられない。
グラナート家では、そういうものだった。
正しい姿勢。
正しい判断。
正しい役目。
それを身につける。
それが、この家に生まれた者の務めだった。
稽古が終わる頃、東の空は明るくなっていた。父が木剣を下ろす。
「エリシア」
「はい」
「お前は、どうしたい」
珍しい問いだった。
一瞬だけ、答えが遅れた。
その遅れが、自分で許せなかった。
エリシアはすぐに背筋を伸ばす。
「第七騎士団団長の副官として、職務を全ういたします」
淀みなく答えた。
正しい答えだった。
父はしばらくエリシアを見ていた。
「そうか」
それ以上は問わない。
エリシアも、それ以上は言わなかった。
回廊を歩く。
整った屋敷。
無駄のない生活。
正しい時間に朝食が用意され、正しい順で予定が進む。
ここは変わらない。
自分もまた、その一部だ。
(それでいい)
そう思う。
そう思うしかない。
翌日。
第七騎士団の執務室で、エリシアは予定表を開いた。
「団長。本日の予定です」
「頼む」
レオンハルトは机に向かっていた。
書類を処理する手は速い。
しかも、ほとんど間違えない。
本人は面倒そうな顔をしているのに、仕事だけは正確だった。
(だから、こちらが崩れるわけにはいかない)
エリシアは予定を読み上げる。
午前の訓練確認。
兵舎の巡回。
午後の報告書確認。
騎士団長会議への出席。
声の高さも、速度も、一定に保つ。
いつも通り。
乱れなく。
正しく。
「それから、昨日の巡回記録ですが、第三班の記載に不足がありました。こちらで確認を取っておきます」
「俺が見る」
「いえ、団長のお手を煩わせるほどではありません」
「不足があったんだろ」
「副官の範囲です」
即答した。
レオンハルトが顔を上げる。
「エリシア」
「はい」
「お前、疲れてないか?」
不意の言葉だった。
エリシアは一瞬、息を止める。
「問題ありません」
完璧な返答。
だが、レオンハルトは少しだけ眉を寄せた。
「問題ないって言う時ほど、問題ある顔してるぞ」
「そのような顔はしておりません」
「してる」
「しておりません」
「じゃあ、してることに気づいてないだけだな」
淡々と言われ、エリシアは言葉に詰まった。
「団長」
「なんだ」
「職務に支障はありません」
「支障が出てからでは遅い」
その言葉に、朝の稽古で父に言われた言葉が重なる。正しい位置に立つだけでは、足りない時もある。
「……お気遣い、感謝いたします」
「別に気遣いじゃない。副官が倒れたら俺の仕事が増える」
「そういう理由ですか」
「そういう理由だ」
レオンハルトは真顔で言った。
あまりにも正直な返答に、エリシアは少しだけ肩の力が抜けた。
「では、倒れないよう努めます」
「努める方向が違う気がするが」
「問題ありません」
「またそれか」
レオンハルトは小さく息を吐き、書類の一枚を手に取った。
「第三班の記録は俺も見る。お前は確認だけでいい」
「ですが」
「命令」
短い言葉だった。
副官としては、従うしかない。
「……承知しました」
エリシアは頭を下げる。
その姿勢は、いつも通りだった。
けれど胸の奥だけが、少し落ち着かない。
「エリシア」
「はい」
「お前が倒れたら困る」
「……団長のお仕事が増えるからですか」
「それもある」
「あるのですね」
「ある」
レオンハルトは当然のように頷いた。そして、書類へ視線を落としたまま続ける。
「でも、それだけじゃない」
エリシアの手が、わずかに止まった。
「お前がいないと、俺はたぶん、帰る場所まで間違える」
何気ない声だった。
深い意味などないのかもしれない。
けれど、その一言は、エリシアの胸の奥に静かに落ちた。
正しい場所に立つ。
団長の隣で、乱れなく、支える。
それが自分の役目。
ずっと、そう思ってきた。
けれど今、初めて思ってしまった。
自分はただ、正しい場所に立ちたいのではない。この人が道を間違えないように、隣にいたいのだと。
「レオンハルト団長」
「なんだ」
「本日も予定通り進行可能です」
「そうか」
短いやり取り。
変わらない執務室。
変わらない距離。
それでも、エリシアの中で、その距離だけが少し違って見えた。
それは迷いではない。
たぶん、まだ名前のないものだった。




