第4話 家という場所
――帝国暦三二〇年・春初め ヴァイス家屋敷――
屋敷へ帰る馬車の中、父アルヴェルトは向かいに座ったまま、ほとんど口を開かなかった。
沈黙は、いつものことだ。
責められているわけではない。
ただ、ヴァイス家では余計な言葉を重ねない。それだけだった。
「……問題はなかったな」
「特には」
「そうか」
会話は、それで終わる。褒められたわけでも、叱られたわけでもない。
今日も問題なく終わった。
それだけで十分だった。
昔から、そういう家だった。
(……まあ、これでいい)
レオンは窓の外へ目を向ける。
馬車は、ヴァイス家の屋敷へ近づいていた。鉄柵の向こうには、手入れの行き届いた庭が広がっている。
石畳には落ち葉ひとつない。
花壇の花も、きちんと整えられている。
この屋敷は、いつも正しい。
正しすぎるくらいに。
馬車が止まる。
扉が外から開かれた。
「お帰りなさいませ、旦那様。レオン様」
迎えに出たのは、年配の執事だった。
背筋を伸ばし、いつも通り隙のない一礼をする。
その後ろには侍女たちが控えていた。
その中に、見慣れない少女がひとりいる。
年はレオンとそう変わらないだろうか。
盆を持つ手が、少しだけ震えていた。
「新しく入った者か?」
アルヴェルトが尋ねる。
「はい。侍女見習いのノーラでございます」
執事が答えると、少女は慌てて頭を下げた。
「ノ、ノーラと申します。本日よりお屋敷で働かせていただきます」
「そうか」
父の返事は短い。
それだけで、ノーラの肩がびくりと跳ねた。
(父上、怖がられてるな)
レオンは少しだけ気の毒になる。
「よろしく頼む」
そう声をかけると、ノーラは驚いたように顔を上げた。
「あ……はい、レオン様」
言葉を噛み、また顔を赤くする。
執事が静かに咳払いをした。
ノーラはもう一度、深く頭を下げた。
屋敷の玄関へ入ると、セレナが待っていた。
「お帰りなさいませ、あなた。レオン」
柔らかな声。
乱れのない所作。
父の再婚により、この家に入った人。
血の繋がりはない。それでもセレナは、この家の空気を誰より自然に整えている。
「本日もお疲れさまでした」
「ああ」
アルヴェルトが短く答える。
レオンも軽く頭を下げた。
「ただいま戻りました」
「ええ。お帰りなさい」
その言葉は、とても自然だった。
自然すぎて、少しだけ困る。
屋敷の奥から、小さな足音が聞こえた。
リリアだ。
少しブラウンが混じった長い金髪が、歩くたびに柔らかく揺れている。
髪には青いリボンが結ばれていた。
派手な飾りではない。
それでも、白い頬と明るい金髪の中で、その青だけが不思議とよく映えていた。
駆けてきたいのを我慢しているのか、歩幅だけが少し早い。
青いリボンが小さく揺れる。
けれど最後はきちんと足をそろえ、丁寧に一礼した。
「お帰りなさいませ、お父様。お兄様」
レオンが答えると、リリアの表情がぱっと明るくなる。
「お兄様、本日はお早いお帰りですね」
「早いか?」
「はい。昨日より四半刻ほど」
「……よく覚えてるな」
「もちろんでございます」
迷いのない返事だった。
セレナが口元に手を添え、静かに笑う。
「リリアは、朝からずっと待っていたのですよ」
「お母様」
リリアが恥ずかしそうに声を上げる。その様子に、侍女たちの表情も少し和らいだ。
食堂へ向かうと、長い食卓にはすでに料理が並び始めていた。
焼き立てのパン。
香草の香りがするスープ。
鹿肉の煮込み。
春野菜の皿。
リリアの前には、小さな焼き菓子の皿も置かれている。
「リリア、それは夕食前に食べていいものなのか?」
レオンが尋ねると、リリアは一瞬だけ固まった。
「今日は刺繍の課題を最後まで終えたのです」
セレナが微笑む。
「ご褒美にひとつだけ」
「ひとつだけ、です」
リリアが真剣な顔で言う。
皿の上には、小さな焼き菓子が三つあった。
レオンはそれを見てから、リリアを見る。
「三つあるが」
「これは、ひとつを三つに分けたものです」
「なるほど」
「お兄様、疑っておいでですか」
「いや。立派な理屈だと思っただけだ」
リリアは少しだけ頬をふくらませた。
セレナが楽しそうに笑う。
父は黙って席に着いた。
けれど、その目元はわずかに緩んでいる。
(父上も、こういう顔をするんだな)
レオンは少しだけ驚いた。
夕食が始まる。
会話は多くない。
それでも、馬車の中の沈黙とは違っていた。
器を置く音。
パンを切る音。
侍女が水差しを替える音。
静かで、穏やかで、よく整った時間。
その中で、ノーラだけが明らかに緊張していた。手つきが硬い。足の運びも、ほかの侍女より半歩遅い。
(初日なら、こんなものか)
レオンはそう思い、特に何も言わなかった。
その直後だった。ノーラがリリアの後ろを通ろうとした瞬間、盆の上の器が揺れた。
熱いスープの入った器が、縁へ滑る。
「あっ」
ノーラの顔が青ざめた。
器は盆から落ちる。
その先には、椅子から少し身を乗り出していたリリアがいた。
「リリア」
レオンは反射的に立ち上がった。リリアの椅子を片手で引き、もう片方の手で落ちかけた器を受け止める。
熱が手袋越しに伝わった。
同時に銀の匙が床へ落ちかける。
レオンは足先で軽く受け、布の上へ落とした。
音は、ほとんどしなかった。
食堂が静まり返る。
リリアは椅子ごと少し後ろへ下がったまま、目を見開いていた。
ノーラは真っ青になっている。
「……熱いな」
レオンが呟く。
その一言で、リリアが我に返った。
「お兄様!」
「座ってろ。こぼれる」
「ですが、お手が」
「手袋越しだから平気だ」
「平気ではありません!」
リリアの声が、いつもより強くなった。
セレナもすぐに立ち上がる。
「冷やした布を」
「はい」
侍女が素早く動く。
ノーラは震える声で頭を下げた。
「も、申し訳ございません……!」
父の目がノーラに向く。
低く、静かな声が落ちた。
「後で聞く」
それだけで、ノーラの肩が縮む。
食堂の空気が一気に固くなった。
レオンは器を侍女に渡し、父を見る。
「父上」
「何だ」
「ノーラだけの失敗ではありません」
全員の視線が、レオンに集まった。
「リリアの椅子が、少し通路側に出ていました。俺が先に気づいて直すべきでした」
「お兄様、それは」
「それに、初日の者に熱い器を運ばせるなら、通る側を変えた方が安全です。熱いものは父上側から。菓子や水差しはリリア側から。その方がぶつかりにくい」
言ってから、しまったと思った。
ノーラを少し庇うつもりだった。
なのに、なぜか配膳の手順まで話している。年配の執事の目が、わずかに光った。
「なるほど。若様のおっしゃる通りでございます。以後、配膳の順を改めましょう」
「いや、そこまで大げさにしなくても」
「事故が起きてからでは遅うございます」
真面目に受け取られた。
完全に受け取られた。
セレナも静かにうなずく。
「レオンは、よく見ているのですね」
「たまたまです」
「たまたま、リリアを守って、使用人を庇って、屋敷の手順まで見直したのですか?」
「言い方に悪意があります」
「褒めているのですよ」
リリアは目を潤ませながら、胸の前で手を握っていた。
「お兄様……」
「リリア、その顔はやめろ」
「やはり、お兄様は素晴らしいです」
「違う。今のはただの事故対応だ」
「普通の方は、あの一瞬で動けません」
「騎士なら動く」
「お兄様だからです」
まっすぐな尊敬が突き刺さる。
レオンは返す言葉に困った。
父はしばらく黙っていた。
やがて、短く言う。
「悪くない判断だった」
それだけだった。
だが、その一言で食堂の空気が変わる。
ノーラは泣きそうな顔で、もう一度深く頭を下げた。
「レオン様……ありがとうございます」
「礼はいい。次から気をつければいい」
「はい……!」
その返事が、やたら大きかった。
(……こういうのが困るんだよな)
助けるつもりはあった。
目立つつもりはなかった。
ましてや、褒められるつもりなどまったくなかった。
夕食は再開された。
けれど、さっきまでとは空気が違う。
ノーラはまだ緊張しているが、動きは少し丁寧になった。
執事はすでに配膳の順を変え始めている。
「今すぐ変えなくてもいいんじゃないか」
「良い案は、早く試すべきでございます」
「俺の案みたいに言うな」
「若様の案でございます」
駄目だ。
逃げ道がない。
セレナは楽しそうに微笑んでいる。
リリアはずっと嬉しそうにレオンを見ている。
父は何も言わない。
だが、否定もしない。
つまり、この家では今の一件が“よいこと”として処理されてしまった。
(……休む場所のはずなんだけどな、ここ)
夕食の後、レオンは廊下へ出た。
少しだけ一人になりたかった。
だが、すぐ後ろから小さな足音がついてくる。振り返るまでもない。
「リリア」
「はい、お兄様」
「部屋に戻らなくていいのか」
「少しだけ、お話ししたくて」
リリアはまだ心配そうな顔をしていた。
「お手は、本当に大丈夫ですか」
「大丈夫だ。少し熱かっただけだ」
「お兄様は、すぐ大丈夫とおっしゃいます」
「大丈夫だからな」
「それが心配なのです」
真剣に言われ、レオンは困ってしまう。
「お兄様」
「何だ」
「わたくし、今日のことは忘れません」
「忘れてくれ」
「無理です」
リリアは小さく笑った。
「お兄様は、やっぱりわたくしの自慢のお兄様です」
レオンは何も言えなかった。
嬉しくないわけではない。
むしろ、嬉しい。
嬉しいから、困る。
この家は温かい。
父がいて、母がいて、妹がいる。執事も侍女も、レオンを大切に扱ってくれる。
誰も悪くない。
誰も間違っていない。
それなのに。
(……少し、外に出たい)
そう思ってしまう自分が、ひどく贅沢な人間に感じられた。
■ 翌朝。
冷たい空気の中、レオンは父と向かい合って剣を握っていた。
「集中しろ」
「はい」
木剣が打ち合う。
乾いた音が庭に響く。
少し離れた場所では、年配の執事が無言で見守っている。
侍女たちは水と布を用意していた。
屋敷の窓辺には、リリアの姿がある。
その横には、ノーラまで立っていた。
昨日の失敗を取り返したいのか、やたら真剣な顔をしている。
(……増えたな)
見守る人数が増えた。
期待も増えた。
感謝も増えた。
レオンは木剣を構え直す。
この家は、あまりにもよくできている。
だから、誰も気づかない。
レオンがその完璧な場所から、ほんの少しだけ逃げ出したがっていることに。
剣が打ち合う。
日常は続く。
すべてが整ったまま。
レオンだけが、胸の奥で小さく呟いた。
(……家でも、あまり休めないのか)
それはまだ、誰にも言えない願いだった。




