第3話 騎士団領という場所
――帝国暦三二〇年・春初め 東ロンバルディア帝国騎士団領――
庭を抜け、石畳の道へ出る。
夜の街は、静かだった。
東ロンバルディア帝国騎士団領。
帝国の中でも、少しだけ異質な場所だ。
ここには、貴族がいない。正確に言えば、血筋だけで土地を支配する者はいないことになっている。
税も、治安も、戦力の配分も、人事も。騎士団と、その代表たちの合議によって決まる。
もちろん、完全に綺麗な仕組みではない。
派閥もある。
古い家の影響もある。
実績の差もある。
それでも、この土地はうまく回っていた。
夜でも街灯は安定している。巡回の騎士たちは、静かに街を歩いている。酒場からは笑い声が漏れ、パン屋の明かりもまだ消えていない。
人の生活が、ここにはちゃんとある。
「団長」
すれ違った騎士が敬礼した。
「ご苦労」
レオンは自然に返す。
それもまた、この場所では当たり前だった。騎士は支配者ではない。
土地を守る代わりに、領民の税で生きている。守る側であり、仕組みの一部。
この騎士団領には、十の騎士団がある。
総兵力は、およそ五万。
ただし、それは正式な騎士だけの数ではない。
正式騎士。
準騎士。
見習い騎士。
従卒。
歩兵。
弓兵。
衛兵。
書記官や、雑務を担う者たち。
騎士団と呼ばれていても、その中身は、騎士だけで成り立つ集団ではない。
戦う者がいて。
支える者がいて。
記録する者がいて。
街を守る者がいる。
そのすべてを合わせて、十騎士団の兵力は五万に届く。その中で、騎兵として扱われる者は全体の二割ほど。
およそ一万。
そこには正式な騎士だけでなく、準騎士や見習い騎士も含まれる。従卒や歩兵は、騎士に従い、部隊を支える側だ。だから、騎士団に属している者すべてが、騎士として扱われるわけではない。
この国で正式な騎士になるのは、簡単ではない。
剣を振れるだけでは足りない。
馬に乗れるだけでも足りない。
任務を果たし、規律を守り、試験を通り、推薦を受ける。
騎士資格を得て、ようやく一人前。
ロンバルディアでは、そう見なされる。
(……やはり厳しい国だよな)
レオンは、夜の通りを見ながら思う。
騎士団領において、騎士とは、貴族のように血筋で高い身分を得た者ではない。
強さでその席に立つ者だ。
国を守っているのは自分たちだ。
この土地の秩序を支えているのは騎士の力だ。そういう自負が、ロンバルディアの騎士たちには深く染みついている。
ロンバルディアの騎士といえば、帝国でも知られていた。
強い。
誇り高い。
規律に厳しい。
そして、扱いづらい。
身分を笠に着る貴族とは違う。
だが、実力で国を守っているという自負が強すぎる分、別の意味で面倒でもある。
誇りが高く、譲らない。自分たちのやり方に強い確信を持っている。騎士としての矜持を傷つけられることを、何より嫌う。
だから帝都の者たちからは、融通が利かない者と見られることも多い。
それでも、この土地の者たちは騎士に憧れる。少年たちは、いつか騎士団の制服を着ることを夢見る。
剣を握り、訓練場に立ち、騎士資格を得ることを目指す。
それは男だけではない。
少女の中にも、騎士を目指す者はいる。
数は多くない。
簡単な道でもない。
けれど、騎士になりたいと願う者は確かにいろ。
エリシアも、その一人だった。もっとも、彼女の場合は父の影響も大きかったのだろう。
グラナート・グランフェルト。
騎士として、指揮官として、厳格に生きる男。あの父の背中を見て育てば、騎士というものを特別に思わない方が難しい。
エリシアが騎士であることに誇りを持ち、規律を重んじ、迷わず前へ進もうとするのも、たぶんこの土地と父の両方が作ったものなのだろう。
(まあ、本人は当然だと思ってるんだろうけどな)
レオンは小さく息を吐いた。
この街の者たちは、騎士団を信頼している。騎士団が街を守り、街が騎士団を支える。
理想的な仕組み。
そう言っていいのだろう。
実際、この土地は帝国の中でも安定している。
治安は良く、物資も回り、街には活気がある。騎士団が強いから、外からの脅威にも耐えられる。
多分、正しい場所なのだ。
正しいからこそ。
(逃げ場がない)
間違っていれば、離れる理由になる。
腐っていれば、嫌う理由になる。
どうしようもない場所なら、捨てる言い訳にもなる。
けれど、ここは違う。
騎士たちは誇りを持っている。
街の者たちは騎士団を信じている。
仕組みは、多少の歪みを抱えながらも、ちゃんと動いている。だから、そこから外れたいと思う自分の方が、どこか間違っているように思えてしまう。
レオンは足を止めた。
視線の先には、第七騎士団本庁がある。
巨大な建物だった。
第七騎士団を束ねる中心。
今は、そこに自分の席がある。
いずれ指揮するのではない。
もう、自分が指揮している。
(……冗談じゃない)
小さく息が漏れた。
史上最年少の団長。
ヴァイス家の嫡子。
騎士団領でも指折りの実力者。
そう見られている。
たぶん、間違いではない。
剣も振れる。
判断もできる。
書類も処理できる。
任された仕事は、結局こなしてしまう。
だから余計に、逃げにくい。
「……似合わないな、騎士団長とか」
自分で呟いて、小さく笑った。新任団長がそんなことを考えているなんて、誰も思わないだろう。
背後で足音がした。
「こんなところにいらしたのですね」
エリシアだった。
夜の街に出ても、姿勢は崩れない。
声も、いつも通り整っている。
「仕事は終わったのか」
「一段落です」
嘘だな、と思った。
だが、指摘はしなかった。どうせ指摘しても、彼女は仕事に戻るだけだ。
「団長」
「なんだ」
「ここは、良い土地です」
まっすぐな声だった。
迷いがない。
「そうだな」
否定はできなかった。
エリシアは、少しだけ街を見た。
巡回する騎士。
灯りの残る店。
夜風に揺れる騎士団領の旗。
「だからこそ」
一瞬、言葉が止まる。
それから、いつもの整った声に戻った。
「守る価値があります」
レオンは、すぐには答えなかった。
ああ。
やっぱり、この場所は正しい。
エリシアも、その正しさの中にいる。
騎士であることを誇りに思い。
この土地を守ることを当然だと思い。
そのために自分の隣に立っている。
父から受け継いだもの。
この土地から与えられたもの。
そして、彼女自身が選んだもの。
それらが、今のエリシアを作っている。
だから。
(俺だけ、やっぱりズレてるみたいだな)
風が吹いた。
整いすぎた街を、静かに撫でていく。
石畳も。
灯りも。
騎士たちの足音も。
すべてが、正しい場所に収まっているように見えた。
その中で、レオンだけが。
ほんの少し、居場所を間違えている気がしていた。風が静かに撫でていった。




