姫様入団につき、中隊長の胃が限界です
挿話
――帝国暦三五〇年・夏中頃 第七騎士団本庁――
石造りの巨大な建物は、陽光を受けて白く乾いていた。高い天井を支える黒い梁には長年の煤が染みつき、窓から差し込む強い光が、床の石畳にくっきりとした影を落としている。
整然としたはずの執務室。
だが今、その空気は――明らかにおかしかった。
「来るぞ……」
「今日こそ話しかける」
「いや順番守れって」
ひそひそ声。
(なんだこれは)
レオンはペンを動かしながら、わずかに眉を寄せる。
「……通常運転だな」
クリスが横でぼそりと言う。
そのとき扉が開く。
「お兄さま……いえ、団長閣下」
リリアが入ってくる。
空気が、変わる。
光が、少しだけ柔らかくなるような錯覚。
小柄で華奢な体、整えられた所作。
騎士団の制服すら、どこか上品に見える。
「……来た」
誰かが呟いた瞬間。
「前出るな!!」
「押すなって言ってるだろ!!」
「順番守れ!!」
なぜか隊列が崩壊する。
「何してるお前ら!!」
クリスが一歩前に出る。
「中隊長命令だ、下がれ」
低い声。
一瞬、場が止まる。
「少しだけです!!」
「確認したいだけで!!」
「何をだよ」
「姫様の――」
「黙れ!」
空気が凍る。
クリスの目が完全に据わっている。
「業務中だぞ」
一歩踏み込む。
「任務と関係ない行動するな」
「書類を置いたら帰れ!」
誰も動けない。
「次やったら訓練倍だ」
静かに言う。
「……いいな?」
「は、はい!!」
完全に統制が戻る。
(珍しいな)
レオンが横目で見る。
クリスがここまで本気で怒るのは珍しい。
(……昔からこうだ)
小さい頃から知っている。
危なっかしいほど無防備で。
放っておけない。
(……守る側だろ、俺は)
「……あの」
リリアが控えめに口を開く。
クリスの表情が一瞬で緩む。
「そんなに気を遣っていただかなくても……」
柔らかく微笑む。
そして。
「すみませんでしたぁ!!」
なぜか全員、さらに大声で謝る。
「逆だろ!!」
クリスが思わず声を荒げる。
「なんで悪化してるんだ!!」
完全に素。
「いやだって中隊長が怖くて……」
「俺のせいかよ!!」
(巻き込まれてるな)
レオンは小さく息を吐く。
その横で。
「整列」
エリシアの声。
一瞬で静まる。
「私語は不要です」
冷たい、完全に締める。
――数秒後。
「……さっき笑ったよな?」
「いや微笑みだろ」
「違いあるか?」
「聞こえている」
クリスが低く言う。
(長引くなこれ)
レオンは天井を見上げる。
「……仕事しろ」
の一言。
ようやく業務が動き出す。
「こちら、本日分です」
リリアが書類を差し出す。
「早いな」
「効率を上げましたので」
その後ろで、なぜか騎士たちが誇らしげに頷いている。
(なんでお前らが誇ってる)
レオンは視線を細める。
「こちらも」
エリシアが別の束を出す。
「再編済みです」
「……誰がやった」
「主導は彼女です」
(だろうな)
仕事は回る。
異常な速度で。
紙の音が規則的に重なり、
まるで機械のように処理が進んでいく。
夕方。
西日が差し込み、部屋が橙色に染まる。
長い影が三人の足元を重ねる。
「団長」
エリシアが声をかける。
「なんだ」
少しの間。
「……助かっています」
視線はリリアへ。
「彼女がいることで」
(引き止められる)
その言葉は、口には出さない。
(ここに)
そう願っている。
その横で。
リリアは静かにレオンを見る。
数ヶ月前とは違う。
正式に、この場所に。
(これでいい)
そう思う。
レオンの手が止まる。
ほんの一瞬。
視線が窓の外へ向く。
(……外)
まだ消えていない。
むしろ強くなっている。
(行きたい)
その感情だけが、確かにある。
三人は同じ場所にいる。
同じ光の中に。
しかし、それぞれの視線だけが、
わずかに違う方向を向いていた。
――そして。
「……はぁ」
クリスが壁にもたれかかる。
「どうした」
「なんか今日、妙に疲れてる」
腹を押さえる。
「ここが痛い」
「知らん」
「いや絶対違うだろ……」
そのとき。
「……大丈夫ですか?クリス様」
リリアが覗き込む。
空気が止まる。
「……っ」
クリスの動きが固まる。
「だ、大丈夫!!」
反射的に直立。
「全く問題ない!!」
声が大きい。
(悪化してるな)
レオンは思う。
リリアは安心したように微笑む。
「よかったです」
その一言。
クリスは再び壁にもたれる。
「……無理だこれ」
小さく呟く。
誰にも聞こえないようにだが。
確実に。
「俺の胃が先に死ぬ」
それだけは、はっきりしていた。




