第48話 揃わない椅子
――帝国暦三二〇年・夏中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア 帝国騎士団領 総騎士団本庁――
石造りの大広間は、無駄なく整えられていた。
長い机。
等間隔に並ぶ椅子。
誰も触れていないのに、揃っている。
それが、この場所の当たり前だった。
騎士団幹部たちが席についている。
皆、鎧ではない。
だが、空気はそれ以上に硬い。
レオンは席に着き、正面を見る。
中央最上席には、まだ誰も座っていない。
扉が開く。
静かに。
だが、確実に空気を変える音だった。
総騎士団長が入ってくる。
ヴァルド・エイゼン。
長く総騎士団を率いてきた男。
年老いてはいる。
だが、どっしりとして、衰えは見えない。
ヴァルドは中央最上席に着いた。
「待たせたな」
それだけで、場が揃う。
視線が集まる。
「本日は、ひとつ伝える」
無駄のない言葉。
「来年をもって、私は退く」
空気が沈む。
驚きはない。
だが、軽くもない。
誰も声を出さない。
誰も椅子を動かさない。
ただ、その場にいる者たちの呼吸だけが、少し重くなった。
「後任については」
ヴァルドは、静かに続ける。
「現在、候補を絞っている最中だ」
決まっていない。
その事実だけが残る。
視線が動く。
誰も口にはしない。
だが、全員が考えている。
誰が座るのか。
誰が外れるのか。
どの椅子が動くのか。
その中で、レオンが口を開いた。
「……質問を」
低く、落ち着いた声。
ヴァルドが頷く。
「許可する」
レオンはわずかに視線を上げた。
「現状、団長有資格者は既に不足している」
静かな声だった。
だが、その言葉に反応しない者はいない。
「その上で、第一騎士団長まで不在になる」
さらに続ける。
「その空白を、どう埋めるおつもりか?」
空気が、わずかに張る。
個人ではない。
組織の話だ。
だからこそ、重い。
ヴァルドが何を考え、どこまで先を見ているのか。
レオンは、それを聞いていた。
ヴァルドはしばらく黙った。
視線を巡らせる。
席と人。
配置。
そのすべてを確認するように。
「……急ぎはしない」
静かな答えだった。
「来年までは、私がいる」
「その間に、形を整える」
整える。
その言葉に、わずかに反応が走った。
誰かが息を止める。
誰かが視線を伏せる。
レオンは目を細めた。
「なるほど」
それ以上は何も言わない。
十分だった。
ヴァルドが立ち上がる。
「本日の議題は以上だ」
会議は終わる。
椅子は、まだ揃っている。
だが中身は、揃っていない。
そのズレだけが、静かに残っていた。
■総騎士団本庁 会議室前――
会議室の扉が開く。
幹部たちが、重い空気をまとったまま出てくる。
その出入口の近くで、エリシア・グランフェルトは静かに待っていた。
会議に同席はしていない。
だが、出てくる者たちの表情だけで、会議が軽いものではなかったことは分かった。
誰も大きな声では話さない。
誰もすぐには笑わない。
ただ、それぞれが何かを持ち帰る顔をしていた。
最後の方に、レオンが出てくる。
エリシアは一礼した。
「団長閣下」
「ああ」
レオンは短く返す。
足を止めず、そのまま回廊へ進む。
エリシアも一歩後ろに続いた。
■総騎士団本庁 回廊――
会議室を離れると、回廊の空気は少しだけ軽くなった。
だが、レオンの顔は軽くない。
歩きながら、短く呟く。
「……ヴァルド総長は、何を考えている」
エリシアは一歩後ろを歩いていた。
「総騎士団長の後任について、ですか」
「それだけならいい」
「では」
「後任の形だ」
レオンは立ち止まらない。
歩きながら、続ける。
「あの人は“整える”と言った」
「整える、ですか」
「来年までに形を整える、と」
エリシアは少しだけ目を伏せた。
「会議では、後任は決まっていないと?」
「ああ」
「ですが、団長有資格者は不足している」
「そうだ」
「その上で、第一騎士団長まで不在になる」
「だから聞いた」
レオンは前を向いたまま言う。
「空白をどう埋めるのか、と」
「総長の返答が、“整える”だったのですね」
「ああ」
短い返事。
エリシアは、その意味を静かに考える。
「椅子が足りないなら、増やすか、詰めるか、誰かを動かすしかない」
レオンが言う。
「つまり」
「誰かが、望まない場所に座らされる」
エリシアは黙る。
その“誰か”が誰なのか。
レオンが何を警戒しているのか。
すぐに分かった。
「昇進がお嫌いなのですね」
エリシアが静かに言う。
レオンは即答した。
「嫌いだ」
迷いがない。
「特に、空いた椅子の都合で座らされる昇進はな」
「能力を評価されること自体は、悪いことではないと思いますが」
「評価だけならな」
レオンは、ちらりとエリシアを見る。
「評価は椅子になる」
「椅子」
「座ったら最後、立つのが面倒になる鎖の椅子だ」
「団長閣下らしい表現ですね」
「事実だ」
エリシアは、ほんの少しだけ息を吐いた。
「ですが、今回の件は避けられないかもしれません」
「分かっている」
レオンは不機嫌そうに言った。
「分かっているから、嫌なんだ」
回廊の先には、まだ人の気配がある。
会議を終えた団長たちが、それぞれの場所へ戻っていく。
椅子は揃っていた。
だが、人は揃っていない。
そして、次にどの椅子が動くのか。
まだ、誰も口にはしない。
レオンだけが、その気配を見ていた。
「……面倒だな」
いつもの言葉。
だが、その声はいつもより少し低い。
エリシアは隣に並ばず、一歩後ろからそれを聞いていた。
レオンは前を向いたまま、もう一度だけ呟く。
「あのジジイ、本当に何を考えている」
答えは、まだない。
ただ、揃っているはずの椅子だけが、レオンにはひどく歪んで見えていた。




