第47話 理性の壁と、軽めの処分
――帝国暦三二〇年・夏中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁大廊下――
人の往来の中、妙な一角だけ空気が歪んでいる。
「……それでですね」
ランド・フェルディンが語っていた。
妙に誇らしげに。
「確かに感じたのです」
「……何をです」
冷たい声。
エリシア・グランフェルト。
いつの間にか、ランドの背後に立っていた。周囲の騎士たちは、無言で距離を取る。
(来た)
誰もが思った。
ランドはまだ気づかない。
「上品で柔らかく、それでいて――」
「何をです」
二度目。
気温が落ちる。
ランドが、ようやく振り返った。
「ああ、副官殿」
気づいた。
だが、遅い。
「団長のハンカチの件ですが――」
(やめろ)
近くにいた騎士が、目を閉じた。
「それを」
エリシアが一歩前に出る。
「嗅いだのですか?」
ランドは、迷いなく頷いた。
「確認は必要でした」
「必要」
エリシアは、静かに復唱した。
「あなたは、その行動を必要だと判断したのですね」
「はい」
「では聞きます」
声は荒くない。
だが、冷たい。
「あなたの行動は、人間として正しいと思っているのですか?」
ランドの表情が、わずかに止まった。
「……人間として、ですか」
「はい」
エリシアは視線を逸らさない。
「落とし物であっても、それは誰かの私物です。」
「はい」
「許可なく手に取り、顔に近づけ、匂いを嗅ぐ」
一つずつ、言葉にする。
「それを、あなたは人として正しい行動だと思っているのですか?」
「……自分は」
「はい」
「確認のために」
「確認のためなら、人として礼を欠いてもよいのですか」
「……」
ランドは答えられない。
周囲の騎士たちが、息を潜める。
エリシアはさらに続けた。
「あなたは、尊いものを大切に扱ったつもりなのかもしれません」
「……はい」
「ですが、その“尊い”という言葉で、相手の私物を勝手に扱った事実は消えません」
ランドの喉が、小さく動いた。
「……軽んじたつもりはありません」
「つもりの話はしていません」
エリシアは即座に切った。
「行動の話をしています」
「……はい」
「あなたの中では、それが敬意だったのかもしれません」
「はい」
「ですが、人として見た時、それは敬意ですか?」
「……」
「本当に、そう思っていますか」
ランドの目が揺れる。
それでも、完全には折れない。
「……自分は、姫様のものかもしれないと」
「だから何ですか」
短い一言。
ランドが詰まる。
「姫様のものかもしれないなら、許されるのですか」
「……いえ」
「団長のものなら、許されるのですか」
「……いえ」
「誰のものなら、許されるのですか」
「……誰のものでも、許されません」
「そうです」
エリシアは静かに頷いた。
「そこまで分かっていて、なぜ正しいと考えたのですか」
「……」
「あなたが守ろうとしているものは、本当に敬意ですか?」
ランドは答えない。
「それとも、自分の中の感情を、敬意という言葉で正当化しているだけですか」
「……副官殿」
「答えてください」
逃がさない。
静かに、徹底的に。
「そのあなたの行動を、人間として正しいと思っているのですか?」
ランドは、すぐには答えられなかった。
さっきまで迷いなく「必要だった」と言っていた顔から、その確信だけが少しずつ剥がれていく。
だが、まだ納得はしていない。
「……正しい、とは」
ランドは絞り出すように言った。
「言い切れません」
「そうですか」
エリシアは、最後にもう一つだけ問いを置いた。
「では、逆の立場ならどう思いますか」
「逆、ですか」
「はい」
エリシアは表情を変えない。
「もし、あなたの私物を、リリアさんが勝手に手に取り、匂いを確かめたら」
その瞬間。
ランドの顔が、ぱっと明るくなった。
「それは極楽です」
廊下の空気が止まった。
エリシアも止まった。
「……」
「自分のような者の私物を、姫様がそこまで気にかけてくださるのであれば、それは身に余る光栄であり、むしろ一生の誉れです」
「……」
「その場で倒れても悔いはありません」
静寂。
エリシアは、ゆっくりと目を閉じた。
そして、静かに振り返る。
「クリス」
少し離れたところで様子を見ていたクリス・ラングレーが、嫌そうな顔をした。
「聞こえてる」
「この男は、もう言葉では無理です」
「だろうな」
「処置なしです」
「そこまでか」
「手遅れです」
「そこまでか」
クリスは深く息を吐き、ランドの前に立った。
第七騎士団の中隊長。
ランドの直接の上官である。
「ランド」
「はい、中隊長」
「副官殿の言葉、分かったか」
「はい。自分の行動が、人として正しいとは言い切れないという点は理解しました」
「ほう」
「ですが、自分は正しいことをしたつもりです」
「駄目だな」
クリスが即答した。
「何がでしょうか」
「全部だ」
「全部」
「中隊長命令だ。来い」
「……処罰、ということでしょうか」
「そうだ」
「自分は正しいことをしたつもりなのですが」
「それが一番駄目なんだよ」
クリスはランドの首根っこを掴んだ。
「中隊長、せめて理由を――」
「理由は今、副官殿が全部言った」
「ですが、自分はまだ完全には――」
「だから俺が分からせる」
「軽めでお願いできますでしょうか」
「お前がそれを言える立場か」
「申し訳ありません」
ランドはそのまま、廊下の奥へ引きずられていった。残された騎士たちは、誰も声を出さない。
エリシアは静かに息を吐いた。
「……人としての基準を、もう少し整える必要がありますね」
誰も否定しなかった。
しばらくして。
「ぐあっ!!」
鈍い音。
「中隊長、お待ちくだ――」
「待たない」
「申し訳ありま――」
「反省しろ」
音が続く。
やがて、静かになる。
少しして、クリスが戻ってきた。
「……終わりだ」
平然としている。
「どうなったんだ」
誰かが恐る恐る聞く。
「歩ける」
それだけ。
(軽めとは)
誰も言わない。
言わない方がいいと、全員が判断した。
その時。
「自分は間違っておりません……」
遠くから、ランドの声。
「尊いものは尊いのです……」
(これはダメだ)
全員が思った。
クリスは天井を見上げる。
「……ほんと、保たねぇな」
ぼそりと呟く。
騎士団の日常は、今日も少しだけ壊れていた。




