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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第1章 騎士団長編
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第46話 優しい誤解と、少しの違和感

 ――帝国暦三二〇年・夏中頃 ヴェリア帝国 東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁執務室――


 午後の光が差し込む中、書類が静かに積まれていく。


  リリアは机に向かい、確認済みの書類に目を通していた。


 少しブラウンが混じった長い金髪が、午後の光を受けて柔らかく光っている。


 髪に結ばれた青いリボンは、ペンを動かすたびにほんの少し揺れた。


 執務室の硬い空気の中でも、リリアの周りだけはどこか穏やかだった。


 少し離れたところでは、エリシアが若い騎士から報告を受けている。


「……それで?」


 エリシアの声は静かだった。だが、どこか警戒しているようにも聞こえる。


「ランドがですね」


 若い騎士が、声を落とした。


「団長のハンカチを……」


 リリアのペンが、わずかに止まる。


(お兄さまのハンカチ?)


 聞くつもりはなかった。


 けれど、同じ執務室の中だ。


 言葉の端だけが、どうしても耳に入ってしまう。


「大切そうに、ですか」


「はい。かなり……」


「かなり……」


 エリシアの声が低くなる。


「その……確認していました」


「何をですか」


「匂いを」


 長い沈黙が続く。


 リリアは瞬きをした。


(匂い……?)


 よく分からない。


 けれど、若い騎士の声は真剣だった。


「それで、間違いないと」


「何がですか?」


「団長のものだと」


「……そうですか」


 エリシアの返事は、非常に短かった。


 リリアは、そっと視線を落とす。


(お兄さまのものだと分かるくらい、大切に見ていたのですね)


 頬が、ほんの少しだけ熱くなる。騎士団の人たちは、レオンを尊敬し、恐れているだけではない。


 きっと、信頼し、慕っている。


 そう思うと、胸の奥がやわらかく温かくなった。


(仲がよいのは、とても素敵なことです)


 リリアは小さく微笑む。

 だが、エリシアの表情は少し違っていた。


「それで、ランドは今どこに?」


「大廊下です。クリス様に止められています」


「……またですか」


「またです」


 エリシアは、ほんのわずかに目を閉じた。


「リリアさんには、聞かせない方がよい話ですね」


 リリアは、そこで顔を上げた。


「私ですか?」


 エリシアと若い騎士が、同時に止まる。


「……聞こえていましたか」


「少しだけ」


 リリアは正直に答える。


「お兄さまのハンカチを、とても大切にされていた方がいるのだと」


 若い騎士の顔が固まった。


「……」


 エリシアも、わずかに沈黙する。


「リリアさん」


「はい」


「おそらく、少し違います」


「違うのですか?」


「はい」


 エリシアは言葉を選ぼうとした。


 だが、その前にリリアが、少しだけ頬を染めながら尋ねる。


「あの」


「はい」


「好きな方の持ち物を、大切にすることは……あるのでしょうか」


 エリシアの動きが止まった。


「……はい?」


「その、ハンカチの匂いを確かめる、というのは、どういう……」


 リリアは真剣だった。


 真剣すぎた。


「とても慕っている方のものだから、分かった、ということなのでしょうか?」


 若い騎士が、視線をそらした。


 エリシアは答えに困った。

 普通か、と問われれば、普通ではない。


 しかし、慕っているか、と問われれば、完全に否定もしづらい。


「……一般的な行為とは、言いがたいです」


「そうなのですか」


「はい」


 エリシアは、慎重に言葉を選ぶ。


「ですが、特別に思っている相手の持ち物を、大切に扱う方は……いるかもしれません」


「では」


 リリアの頬が、さらに少しだけ赤くなる。


「やはり、その方はお兄さまを慕われているのですね」


「……かなり独特な形で、という注釈は必要かと」


「独特」


「はい」


 エリシアは静かに頷いた。


「少々、変わっています」


 若い騎士が、小さく頷く。

 それはもう、全力で頷きたい顔だった。


 けれど、リリアは安心したように微笑む。


「でも、仲がよいのは、とても素敵なことですね」


「……仲がよい」


 エリシアの声が、わずかに低くなる。


「はい」


 リリアはやわらかく笑う。


「お兄さまが、皆さんに大切に思われているのなら、嬉しいです」


 若い騎士は完全に黙った。


 エリシアもまた、すぐには答えなかった。


 否定したい。だが、リリアのその受け取り方を、正面から壊すのも少し違う。


「……そうですね」


 エリシアは、最終的にそう答えた。


「少なくとも、団長閣下が軽く見られているわけではないと思います」


「よかったです」


 リリアは小さく微笑んだ。


 その時、執務室の扉が開いた。


「戻ったぞ」


 レオンが入ってくる。

 その後ろから、クリスも顔を出した。


「邪魔するぞ」


 クリスはいつもの調子だったが、室内の空気を見て、すぐに目を細める。


「……何の話だ?」


 レオンが尋ねる。


 リリアは振り向く。

 少しだけ嬉しそうに。


「お兄さま」


 言ってしまう。


「あ……団長閣下」


 すぐに言い直した。


 レオンは気にしていない。


「何かあったか」


「はい」


 リリアは少し迷った。

 だが、真面目に言う。


「とても、お兄さまを慕っている方がいらっしゃるようで」


「は?」


 レオンが眉をひそめる。


「……ランドという方です」


 しばらくの沈黙。


 クリスが、横で小さく呟いた。


「ランド、詰んだな」


「何がだ?」


 レオンが見る。


「いや、こっちの話」


 クリスは口元を押さえる。


 笑っている。

 だが、笑いきれない顔でもあった。


 リリアは少し照れたように微笑む。


「とても……大切にされているようで」


 レオンは無言になる。

 クリスも無言になる。


「誰かを慕う気持ちは、とても素敵なことですよね」


 室内が止まった。


 レオンは無言。

 クリスも無言。

 若い騎士も無言。


 エリシアだけが、静かに目を伏せている。


「……そう、だな」


 レオンがようやく言った。


「そうなんだが」


 クリスも続ける。


「そうなんだけどな」


「違うのですか?」


 リリアが尋ねる。


 レオンは短く答えた。


「違う」


「え?」


「完全に違う」


 リリアが固まる。


「……そう、なのですか?」


「そうだ」


 迷いがない。


 クリスは隣で肩を震わせた。


「団長閣下、容赦ねえな」


「事実だ」


「まあ、事実だけどな」


 その時、外の廊下から。


「俺は間違っていない!!」


 ランドの声。


「尊いものは尊い!!」


 クリスの笑みが消えた。


「……まだ言ってんのか、あいつ」


 そう言うなり、クリスは扉の外へ顔を向けた。


「黙れ!!」


 クリスの声。


 騒がしい。


 レオンはそれを聞いて、ため息をつく。


「……あれだ」


 短く言う。


 リリアは、少しだけ目を瞬く。

 そして、ほんの一瞬。


 理解する。


「……」


 頬が、ゆっくり赤くなる。


「……そういう、ことでしたか」


 小さく呟く。

 少しだけ俯く。


(……よかった、のでしょうか)


(よくないような……)


 複雑な感情。

 しかし、レオンはもう興味を失っている。


「仕事に戻るぞ」


 それだけ言う。


「……はい」


 リリアは頷く。


 レオンは、これで誤解は解けたと思っていた。ランドが自分を慕っているわけではない。ただ、いつもの第七騎士団の騒ぎだった。


 それで終わった話だと。


 けれど、リリアの中では少し違っていた。


(……そこまでしてしまうほど、お兄さまのことを)


 口には出さない。

 出せるはずもない。


 ただ、胸の奥に、妙な納得だけが残る。


 普通ではない。

 少し変わっている。


 けれど、それほどまでに大切に思っているということなのだろう。


(お兄さまは、やはり皆さんに慕われているのですね)


 そう思うと、嬉しい。嬉しいのに、なぜか少しだけ落ち着かない。


 リリアはペンを持ち直す。けれど、指先はほんの少しだけぎこちなかった。


(……お兄さま)


 その呼び方が、ほんの少しだけ、意識されるようになっていた。


 そしてレオンは、リリアの中で別の誤解が深まったことに、まったく気づいていなかった。

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