第35話 続・報告 南の影と東の動き ――歯車は静かに噛み合う
――帝国暦三二〇年・初夏 ヴェリア帝国帝都アウレシア皇城《アルケイオン宮》―玉座の間。
静寂は、先ほどよりもわずかに重い。
アシュレイは、姿勢を正した。
「もう一点、報告があります」
皇帝アルディウスは何も言わない。
それが許可だった。
「帝国南部――」
アシュレイは、静かに続ける。
「《サルヴァディア王国》の動きが不穏です」
空気が、わずかに締まる。
「国境付近での兵の集結」
「交易路の制限」
「情報の遮断」
「意図は不明」
「ですが、偶発ではありません」
皇帝の指が、肘掛けに触れる。
「続けろ」
「現時点では、直接衝突には至っていません」
わずかに間を置く。
「ただ、長くは保たない可能性があります」
短い沈黙。
「東はどうだ」
問いが落ちる。
アシュレイは頷いた。
「ヴェリア帝国 東ロンバルディア 帝国騎士団領」
「現総騎士団長が、近く引退の意向を示しています」
「……早いな」
「はい」
アシュレイは、わずかに視線を強める。
「ですが、それ以上に後継問題が重要です」
一歩、踏み込む。
「現在、騎士団領は十騎士団を保有」
「帝国内地方領域最大規模です」
「そして、さらなる拡大を視野に入れています」
皇帝の視線が細まる。
「拡大か」
「はい」
「南の情勢を踏まえれば合理的です」
「防衛だけでなく、抑止としても機能する」
理は通っている。
「次にそれを束ねる者は」
皇帝の声が落ちる。
「誰だ」
アシュレイは、わずかに息を整えた。
「複数候補がいます」
「第八騎士団長、グラナート卿」
「第九騎士団長、アルヴェルト・ヴァイス」
そして。
「レオンハルト・ヴァイス」
重い沈黙の後、皇帝に笑みが溢れる。
「二十歳の総騎士団長か。それは若いな」
「はい」
「しかし、現場掌握力は突出しています」
「三騎士団の兼任も破綻していない」
「……本人はどうだ」
「望んでいません」
アシュレイは、正直に答えた。
「しかし、適性はあります」
静かに言い切る。
静寂。
「もう暫く静かに見ておけ」
皇帝が言う。
「動きがあれば、報告しろ」
「承知しました」
アシュレイは一礼し、玉座の間を後にした。
■皇城《アルケイオン宮》 回廊――
皇太子アシュレイの足音が、静かに響く。
やがて、止まる。
「……動き出したな」
その時。
「兄さん」
柔らかな声がした。
イリスだった。
柱の影に、静かに立っている。
「聞いていたのか?」
「少しだけ」
アシュレイは苦笑する。
「相変わらずだな」
「お前の話もした」
イリスの目が、わずかに動く。
「……私の?」
「ああ」
アシュレイは、少しだけ笑う。
「前に言っていただろう。東ロンバルディアの帝国騎士団領へ、一度行ってみたいと」
イリスは、わずかに目を伏せた。
「……覚えていたの?」
「覚えているさ」
アシュレイは肩をすくめる。
「だから、騎士団領に行かないかと提案しておいた」
イリスは答えない。
「決定ではない」
「ただの提案だ」
「だが、悪くないと思っている」
「理由は?」
「お前に合っている」
それから、アシュレイはわずかに笑う。
「それと」
「あいつは面白い」
「あいつ?」
「レオンハルト・ヴァイスだ、多分気に入ると思う。」
イリスは目を伏せる。
静かに考える。
「……行きます。」
小さく、だが確かに。
アシュレイは目を細めた。
「そうか。だが急がなくていい」
「どうせ流れは来る」
歩き出すその背を、アシュレイは見送る。
(レオンハルト・ヴァイス)
名前だけが、イリスの胸に静かに残る。
まだ会っていないが、兄の気に入る人物。
それだけでも興味が湧く。
そして兄が言うなら確実に、彼とは交わるはず、どこかで。
帝国は動いている。
南で。
東で。
そしてそれは、まだ誰も気づかない形で、確実に繋がっていく。




