第34話 帝国の繁栄と、皇太子の報告
――帝国暦三二〇年・初夏 ヴェリア帝国 帝都アウレシア皇城《アルケイオン宮》――
ヴェリア帝国は、ただ広いだけの国ではない。豊かで、強く、そして止まらない国だった。
帝都アウレシア。
そこでは、一日として流れが止まらない。
夜が訪れても灯は消えず、市場は姿を変えて動き続ける。交易品は絶え間なく流れ込み、金貨は音を立てて巡る。
人もまた、その流れの一部として組み込まれていた。
東方の穀物。
西方の工芸。
南方の香料。
北方の鉱石。
あらゆるものが集まり、混ざり、また新たな価値へと姿を変える。帝国は、それを当然のように成立させていた。
秩序はある。
だが、それは静寂ではない。
制御された混沌。
それこそが、ヴェリア帝国の繁栄の本質だった。そして、その中心にあるのが、皇城《アルケイオン宮》である。
高い天井。
重厚な柱。
足音すら沈み込むような静寂。
帝都の喧騒から切り離されたその場所で、一人の男が玉座の前へ進み出た。
「――戻りました」
皇太子アシュレイ・ヴェル=ヴェリア。
帝都では“旅人”と呼ばれる皇族である。
その視線の先。
玉座には、皇帝アルディウス・ヴェル=ヴェリアが座していた。
父であり、帝国そのものである男。
その視線が、静かに降りる。
「報告を」
短いが、それだけで十分だった。
アシュレイは頭を下げ、それから顔を上げる。
「騎士団領は健在です」
声は軽くない。旅先の雑談ではなく、皇太子としての報告だった。
「自治は維持され、秩序も崩れていない」
わずかに間を置く。
「むしろ、効率は高い」
皇帝は何も言わない。
ただ、聞いている。
「騎士団領は、帝国から見れば独立性の高い領域です。ですが、反発や停滞は見られませんでした」
アシュレイは続ける。
「現場は動いています。書類も、補給も、人員配置も、想定以上に回っている」
「誰が回している」
皇帝が問う。
「中心にいるのは、レオンハルト・ヴァイスです」
その名が出た瞬間、玉座の間の空気がわずかに変わった。
「現在、二十歳」
アシュレイは静かに続ける。
「第七騎士団を中心に、第二騎士団、第十騎士団の実務にも深く関わっています」
そして。
「補給を旨とする第九騎士団は、父アルヴェルト・ヴァイスが団長を務めています」
「つまり」
アシュレイは言葉を選ぶ。
「前線と中枢をレオンハルトが、後方と補給を父アルヴェルトが担っている形です」
皇帝の視線が細くなる。
「ヴァイス家か」
「はい」
「騎士団領の流れが、一家に寄りすぎているな」
「その通りです」
アシュレイは否定しない。
「ただし、現状ではそれが最も機能しています」
「危険だとは思わないのか?」
「危険です」
あっさり答えた。
皇帝はわずかに目を細める。
「だが、今すぐ切れば、もっと危険です」
アシュレイは続ける。
「ヴァイス家に権力が集まっているというより、処理できる者がそこにいるため、仕事が集まっている」
少しだけ、口元に笑みが浮かぶ。
「本人は、あまり喜んでいませんが」
「若いな」
皇帝が言う。
「はい」
「にもかかわらず、破綻していない」
「していません」
アシュレイは頷く。
「過剰な権威に頼らず、現場の信頼を得ています。統率は安定しています」
そこで一度、言葉を切る。
「ただし」
皇帝の視線が、わずかに強くなる。
「本人に野心は、ほとんどありません」
それは、評価にも警戒にもなる言葉だった。
「では、何を見ている?」
「外です」
アシュレイは即答した。
「外に目が向いています」
皇帝の声が低くなる。
「逃げか?」
「いいえ」
アシュレイは首を横に振る。
「視野です」
その言葉に、玉座の間が静まる。
「彼は、外を知ろうとしている。帝国の外。騎士団領の外。自分がこれまで見てこなかった新しい場所を」
「それは逃げと何が違う」
「逃げなら、今すぐ役目を捨てようとするでしょう」
アシュレイは淡々と答える。
「ですが、彼はまだ捨てていない。むしろ、嫌がりながら処理している」
「嫌がりながらか」
「はい。とても」
皇帝は何も言わない。
アシュレイは続けた。
「彼は自分がいる場所を嫌っているわけではありません。ただ、そこしか知らないことに、少しずつ気づき始めている」
短い間の後。
「外を選ぶ余地がないだけです」
皇帝はしばらく沈黙した。
やがて、低く促す。
「……それで」
「提案か」
「はい」
アシュレイは頷いた。
「イリスを」
「一度、騎士団領へ行かせてみてはどうかと?」
空気がわずかに張る。
皇帝は表情を変えない。
「理由は」
「気が合う可能性が高い」
アシュレイは答える。
「イリスは宮廷では浮いています」
「知っている」
「言葉が少なく、誤解されやすい。感情を見せず、周囲に合わせることも得意ではない」
「それも知っている」
「ですが、知識と理解力は突出しています」
アシュレイは静かに続ける。
「特に、制度や記録、地理、諸国の事情に関しては、宮廷の同年代では並ぶ者が少ない」
「宮廷では、それが使いにくい」
「はい」
アシュレイは頷く。
「宮廷は、人の顔色を読む場所でもあります。イリスはそこが得意ではない」
少し間を置く。
「ですが、環境が合えば、大きく機能する」
皇帝は黙っている。
「レオンハルトも同様です」
アシュレイは言葉を続けた。
「言葉は少なく、誤解されやすい。必要なことしか言わず、愛想もよくない」
「よく似ているな」
「はい」
アシュレイは軽く笑った。
「ですが、本質を見る力がある。仕事を処理する力がある。現場を動かす力がある」
そして。
「今の彼には、足りていないものがあります」
「外の知識か」
「外の知識と、視点です」
アシュレイは答える。
「イリスは、それを補える」
皇帝の視線が鋭くなる。
「婚姻の話ではないのか」
「今は違います」
アシュレイは即答した。
「無理に結びつける必要はありません」
「今は、か」
「可能性を閉じる必要もありません」
その答えに、皇帝はわずかに目を細めた。
アシュレイは続ける。
「ただ、同じ場に置けば、自然と判断するでしょう」
「誰が」
「レオンハルトが。イリスが。そして、周囲が」
長い沈黙。
玉座の間は静まり返っている。
帝都の喧騒は、ここまでは届かない。
だが、この静かな空間で交わされている言葉は、やがて帝国のどこかを動かす。
皇帝はゆっくりと口を開いた。
「……利はある」
それは、許可ではない。
だが、否定でもなかった。
「検討に値する」
皇帝の結論だった。
アシュレイは頭を下げる。
「ありがとうございます」
顔を上げる。
(これでいい)
歯車は、確かに動き始めた。帝国の中枢で下された判断は、やがて外へと波及する。
まだ誰も知らない。
それが、どれほど大きく。
一人の男の運命を変えることになるのかを。




