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兄と妹と、呼び戻る距離

 ――帝国暦三二〇年・春終盤

 東ロンバルディア帝国騎士団領

 第七騎士団 本庁 執務室――

 午後。


 紙をめくる音だけが、静かに続いている。

「こちらの書類ですが――お兄さま……」

 言ってから、止まる。

「……団長閣下」

 すぐに言い直す。

 何度目かの光景。

 横で、クリスが肩を震わせる。


「おい」

「なんだ」

「今の、聞いたか」

「何がだ」

「“お兄さま”だぞ」

「そうだな」

「いやそこじゃねえ」

 一瞬の間。


 クリスが、じっとレオンを見る。

「……お前、今の返しでいいのか?」

「何がだ」

 本気でわかっていない顔。

 クリスは小さく息を吐く。

「いや、いいならいい」

(こいつが一番ずれてるな)


 エリシアは何も言わない。

 ただ、書類をめくる音だけが正確に続く。

(……また)

 気づいている。

 リリアは、ほんの少しだけ頬を引き締めた。


「失礼しました」

「気にするな」

 レオンがあっさり言う。

「でも、職務中は……」

 言いかけて、止まる。


(……難しい)

 屋敷では兄。

 騎士団では団長。

 その切り替えは、思っていたよりもずっと難しい。


 レオンは少しだけ考える。

 言葉を選んでいる。

 ――珍しく。

「別にいいだろ」

「……え?」


 リリアが顔を上げる。

「親しい奴しかいないときは」

 少しだけ間を置く。

 普段なら、こんな言い方はしない。

「お兄さまで構わない」


 エリシアの手が止まる。クリスも、一瞬だけ黙る。

 レオンは続ける。

「俺は本当にお前の兄だし」

「お前は、大事な妹だ」

 あまりにも自然に。

 迷いなく。


 だからこそ、その言葉はまっすぐすぎた。

 リリアの目が、わずかに揺れる。

 一瞬、唇が動く。

 けれど、声は出ない。

 頬が、じわりと熱を帯びる。


「……っ」

 小さく息を詰める。

 視線が、ほんの少しだけ逸れる。

 落とすように。

 誤魔化すように。

 指先が、ぎこちなく揃う。


「……そ、そうですね」

 ようやく出た声は、少しだけ揺れていた。


「では、窓を開けてきます」

「なんでだ」

 レオンが首を傾げる。

「少し、空気が熱いので」

「熱いか?」

「熱いです」

 リリアは真面目な顔で言い切る。


 クリスが横を向く。

(だめだ、笑う)

「し、失礼いたします」

 軽く頭を下げる。

「少し、席を外します」


 言い終わる前に、もう踵を返していた。

 ほとんど逃げるように扉へ向かう。

 手をかけるとき、ほんの一瞬だけ止まり――


 開ける。

 閉める。

 さっきより、少しだけ強い音。

 静寂。


 レオンは首を傾げる。

「……どうしたんだ?」

 本気でわかっていない。

 クリスが天井を見る。

(お前なあ……)


 言わない。

 面倒だから。

 レオンはエリシアを見る。

「エリシア」

「はい」

「リリア、なんかあったか?」

 ほんの一瞬、間があく。


「……いいえ」

 短い返答。

 だが、わずかに硬い。

「そうか?」

「はい」

 それ以上は続かない。


(……無自覚)

 エリシアは内心で思う。

 どこまで踏み込んでいるか。どれだけ揺らしているか。本人だけが、知らない。


 (……なぜ、あのようなことを)

 普段のレオンなら、言わない。

 人の感情に鈍く、常識にも疎い。

 必要なこと以外を口にしない。


 だからこそ。

 たまに出る言葉は、妙に重い。

「……仕事を続けます」

 エリシアは淡々と書類に戻る。

 だが、ペン先が、ほんの少しだけ震えた。

 すぐに立て直す。

 けれど、次の書類の端に、わずかにインクが滲む。


 クリスはそれを横目で見た。

(あー……)

 空気が、少し重い。

(これが普通なんだよな、この人たち)

 誰も間違っていない。

 ただ、少しずつ距離がずれていく。

 執務室は、元の形に戻る。

 配置も。

 役割も。


 ――言葉だけが、少し残ったまま。

 そして、数分後。

「……団長」

 別の騎士が顔を出す。

「姫様は――」

「知らん」

 間髪入れず即答。


 騎士が引っ込む。

 クリスが肩を震わせる。

 エリシアは何も言わない。

 レオンは、書類に視線を落としたまま。

 執務室には、また紙の音が戻る。

 仕事は滞りなく進んでいる。


 ――いつも通りに。

 少なくとも、書類の上では。


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