表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第1章 騎士団長編
PR
32/210

第32話 兄と妹と、呼び戻る距離

 ――帝国暦三二〇年・春終盤 東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁 執務室――午後。


 執務室には、紙をめくる音だけが静かに続いていた。レオンは机に向かい、書類に目を通している。


 エリシアはその横で、処理済みの束と未確認の束を正確に分けていた。


 クリスは少し離れた場所で、報告書を確認している。


 そしてリリアは、新任書記官として、書類の整理を任されていた。


「こちらの書類ですが――」


 リリアが一歩近づく。


「お兄様……」


 言ってから、ぴたりと止まった。

 ほんの短い沈黙。


 リリアはすぐに姿勢を正す。


「……団長閣下」


 言い直した。

 何度目かの光景だった。


 横で、クリスが肩を震わせる。


「おい」


「なんだ」


 レオンは書類から目を上げない。


「今の、聞いたか」


「何がだ」


「“お兄様”だぞ」


「そうだな」


「いや、そこじゃねえ」


 一瞬の間。

 クリスが、じっとレオンを見る。


「……お前、今の返しでいいのか?」


「何がだ」


 本気で分かっていない顔だった。


 クリスは小さく息を吐く。


「いや、いいならいい」


(こいつが一番ずれてるな)


 エリシアは何も言わない。

 ただ、書類をめくる音だけが正確に続く。


 けれど、聞こえていないわけではなかった。


(……また)


 エリシアは気づいている。


 リリアもまた、自分の失敗を理解していた。ほんの少しだけ頬を引き締める。


「失礼しました」


「気にするな」


 レオンがあっさりと言った。


「ですが、職務中は……」


 リリアは言いかけて、止まる。


 屋敷では兄。

 騎士団では団長。


 家族としての距離と、職務上の距離。その切り替えは、思っていたよりもずっと難しい。


 短期の書記官養成課程で、規律も、立場も、呼称も学んだ。だが、目の前にいるのは、幼い頃からずっと兄だった人でもある。


 頭では分かっている。

 けれど、言葉が先に出ることがある。


(……難しいですね)


 リリアは、指先をそっと揃えた。


 レオンは少しだけ考える。


 言葉を選んでいる。


 珍しく。


「別にいいだろ」


「……え?」


 リリアが顔を上げる。


「親しい奴しかいない時は」


 レオンは少しだけ間を置いた。

 普段なら、こんな言い方はしない。


 必要なことだけを言い、不要なことは省く。だが、今は違った。


「お兄様で構わない」


 エリシアの手が止まった。


 クリスも、一瞬だけ黙る。


 レオンはそれに気づかないまま続ける。


「俺は本当にお前の兄だし」


 当たり前のことを言うように。


「お前は、大事な妹だ」


 あまりにも自然に。

 迷いなく。


 だからこそ、その言葉はまっすぐすぎた。


 リリアの目が、わずかに揺れる。


 一瞬、唇が動く。

 けれど、声は出ない。


 頬が、じわりと熱を帯びる。


「……っ」


 小さく息を詰めた。


 視線が、ほんの少しだけ逸れる。


 落とすように。

 誤魔化すように。


 指先が、ぎこちなく揃う。


「……そ、そうですね」


 ようやく出た声は、少しだけ揺れていた。


 レオンは首を傾げる。


「どうした?」


「いえ」


 リリアは顔を上げようとして、上げられなかった。


「少し」


「少し?」


「窓を開けてきます」


「なんでだ」


 レオンがさらに首を傾げる。


「空気が熱いので」


「熱いか?」


「熱いです」


 リリアは真面目な顔で言い切った。


 クリスが横を向く。


(だめだ、笑う)


「し、失礼いたします」


 リリアは軽く頭を下げた。


「少し、席を外します」


 言い終わる前に、もう踵を返していた。

 ほとんど逃げるように扉へ向かう。


 手をかける時、ほんの一瞬だけ止まる。


 それから、扉を開けた。


 閉める。


 さっきより、少しだけ強い音がした。


 静寂。


 レオンは扉を見て、首を傾げた。


「……どうしたんだ?」


 本気で分かっていない。


 クリスが天井を見た。


(お前なあ……)


 言わない。


 面倒だから。

 言ったところで、たぶん通じない。


 レオンはエリシアを見る。


「エリシア」


「はい」


「リリア、なんかあったか?」


 ほんの一瞬、間があいた。


「……いいえ」


 短い返答。


 だが、わずかに硬い。


「そうか?」


「はい」


 それ以上は続かない。


 レオンは少し納得していない顔をしたが、追及はしなかった。


 再び書類へ視線を落とす。


 エリシアもまた、書類へ戻った。


(……無自覚)


 エリシアは内心で思う。


 レオンは分かっていない。

 自分がどこまで踏み込んでいるか。

 どれだけ相手を揺らしているか。


 本人だけが、知らない。


(……なぜ、あのようなことを)


 普段のレオンなら、言わない。


 人の感情に鈍く、常識にも疎い。

 必要なこと以外を口にしない。


 口にしたとしても、たいていは短い。


 雑で、素っ気なく、何かを削ったような言葉になる。


 だからこそ。

 たまに出る言葉は、妙に重い。


 大事な妹。


 その言葉は、リリアに向けたものだった。


 ただの事実として。


 兄として。

 家族として。


 それは分かっている。

 分かっているのに。


(……それでも)


 胸の奥に、細く何かが引っかかる。


 エリシアはペンを握り直した。


「……仕事を続けます」


 淡々と言って、書類に戻る。


 だが、ペン先が、ほんの少しだけ震えた。


 すぐに立て直す。


 けれど、次の書類の端に、わずかにインクが滲んだ。


 クリスはそれを横目で見た。


(あー……)


 空気が、少し重い。


(これが普通なんだよな、この人たち)


 誰も間違っていない。


 レオンは妹を大事だと言っただけ。


 リリアは兄の言葉に照れただけ。


 エリシアは職務を続けているだけ。


 けれど、少しずつ距離がずれていく。


 兄と妹。

 団長と書記官。

 副官と団長。


 それぞれの立場が、同じ部屋の中で重なっている。


 執務室は、元の形に戻った。


 配置も。

 役割も。

 流れる時間も。


 ただ、言葉だけが少し残ったままだった。


 数分後。


「……団長」


 別の騎士が顔を出す。


「なんだ」


「姫様は――」


「知らん」


 間髪入れず即答。


 騎士が固まる。


「い、いえ、先ほど席を外されたので、どちらに……」


「知らん」


「……承知しました」


 騎士は小さく敬礼し、引っ込んだ。


 クリスが肩を震わせる。


 エリシアは何も言わない。


 レオンは、書類に視線を落としたまま。


 執務室には、また紙の音が戻る。


 仕事は滞りなく進んでいる。

 いつも通りに。

 少なくとも、書類の上では。


 その少し後。


 リリアは静かに戻ってきた。


 頬の熱は、もうほとんど引いている。


 けれど、目を合わせるまでに一拍だけ間があった。


「戻りました」


「ああ」


 レオンは普通に返す。

 普通すぎるほどに。


 リリアは小さく息を整え、席へ戻った。


「先ほどの続きです。こちらの書類ですが」


 今度は迷わない。


「団長閣下の確認が必要です」


「分かった」


 書類が渡る。

 手が触れそうで、触れない。


 そのわずかな距離を、クリスは見ていた。


(戻ったようで、戻ってないな)


 リリアはきちんと職務に戻った。


 レオンも何も変わっていない。


 エリシアも、いつも通りだ。


 それでも、ほんの少しだけ、部屋の空気は変わっていた。


 兄妹の距離は、戻りかける。

 けれど、職務の距離がそれを引き止める。


 その間で、誰かの心だけが少し揺れる。


 紙の音が続く。

 ペンが走る。

 書類は進む。


 そして、今日も第七騎士団は問題なく動いていた。


 問題なく。


 表面上は。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ