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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第1章 騎士団長編

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第31話 天使と副官

 ――帝国暦三二〇年・春終盤 東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁 執務室――


「姫様、こちらお願いできますか!」


「はい、承知しました」


 リリアが書類を受け取る。


 少しブラウンが混じった長い金髪が、動きに合わせて肩のあたりで柔らかく揺れた。


 髪に結ばれた青いリボンも、遅れて小さく揺れる。


 騎士団の執務室には少し不似合いなほど柔らかな雰囲気をまとっているのに、手元の動きは静かで、丁寧だった。


 机に向かい、内容を確認する。


 ペンが走る。


 迷いがない。


 少し前まで、補助として書類に触れていた時とは違う。


 正式な書記官として、必要な手順を踏んでいる。それでも、元から持っていた丁寧さは変わらない。


「……早い」


 書類を持ってきた騎士が、思わず漏らした。


 リリアは顔を上げる。


「内容も正確です。提出前の整理が行き届いていました」


 柔らかく微笑む。


 それだけで、騎士の表情がほどけた。


「い、いえ! こちらこそ!」


(……なんだこれ)


 少し離れた場所で、クリスが腕を組む。


(完全に落ちてるだろ)


 また別の騎士が来る。


「姫様!」


「どうされましたか?」


 リリアは自然に目線を合わせる。

 ほんの少しだけ、身をかがめる。


 距離が近い。


(相変わらず、近いって)


 クリスの眉が動いた。


「その、こちらも……」


「はい」


 リリアは書類を受け取る。


 その時だった。


「お怪我はありませんか?」


「え?」


「手を少し切っていらっしゃいます」


 リリアは騎士の手元を見る。


 紙で切ったのだろう。

 指先に、細い傷ができていた。


「この程度なら――」


「いけません」


 リリアは小さな布を取り出し、そっと巻いた。


 迷いがない。

 大げさではない。


 けれど、見逃しもしない。


「これで大丈夫です」


 にこりと笑う。


 長い沈黙。


「……あ、ありがとうございます!」


 騎士の顔が赤い。


(……天使か?)


 クリスは思った。

 いや、思いたくなかった。


(あれはダメだろ)


 無自覚すぎる。


 優しい。

 丁寧。

 人の痛みに自然に気づく。


 しかも、それを当たり前のようにやる。

 だから危ない。


 本人にその気がない分、余計に危ない。


 一方で。


「副官殿、こちらの確認をお願いします」


 エリシアの前に、別の騎士が立つ。


 エリシアは書類を受け取り、すぐに目を通した。


「提出は規定通りですか」


「はい!」


「不備があります」


 即答だった。


「……え?」


「ここです」


 エリシアは指で示す。


「形式が違います。添付資料の順序も規定と逆です」


「え、あの」


「再提出してください」


 正しい。

 完璧に正しい。


 言っていることは何一つ間違っていない。


「……失礼しました」


 騎士は少し肩を落として去っていった。


(……差だよな)


 クリスがぼそっと言う。


「なんだ」


 レオンが聞いた。


「同じ仕事してんのにさ」


 クリスは視線を向ける。


 リリアの周りには、自然と人が集まっている。


 エリシアの周りには、自然と距離ができている。


「片方は姫様。片方は近寄りがたい」


 レオンは少しだけ考えた。


「まあ、そうだな」


 あっさり認める。


「エリシアは硬いからな」


「硬すぎる」


 クリスが即答した。


「……聞こえています」


 背後から声がした。

 一瞬、空気が止まる。


 クリスがゆっくりと振り返る。


 エリシアは、いつも通りの顔で立っていた。


「事実ですので、問題ありません」


 淡々と答える。


(……問題あるだろ)


 クリスは思った。


 だが、口には出さない。

 出したら不備を指摘されそうだった。


 エリシアは視線を落とす。


(……比べられている)


 それは、分かっていた。


 リリアの方が好かれる。


 当然だ。


 柔らかくて、優しくて、相手の緊張をほどく。誰に対しても、同じように笑える。


 書類を受け取る時も、指摘する時も、相手を傷つけない。


 それは才能だ。


 努力だけでは届かないものだ。


(私は)


 正しいだけ。


 規定を守る。

 不備を見つける。


 必要なことを、必要な通りに処理する。


 それで仕事は回る。

 騎士団には、それが必要だ。


 だけど。


(それだけでは、足りない)


 分かっている。


 正しさだけでは、人は近づいてこない。

 正しさだけでは、人は安心しない。


「エリシアさん」


 リリアが近づいてきた。


「こちら、ありがとうございました」


 先ほど確認を頼んでいた書類を差し出す。


「助かりました」


 変わらない笑顔。

 誰に対しても同じ。


 いや、同じだからこそ、届いてしまう。


 エリシアは一瞬、言葉に詰まった。


「……それが仕事です」


 短く返す。


 それでも、リリアは嬉しそうに頷いた。


「はい」


 素直な返事だった。


(……敵いませんね)


 エリシアは思う。


 正しさでは届かないものがある。


 リリアの周りには、光がある。

 人を安心させる、柔らかな光。


 その光は、書類の山も、硬い空気も、自然にほどいていく。


「姫様!」


 また呼ばれる。


「はい」


 リリアは変わらない笑顔で応じた。


 その様子を見て、クリスは小さくため息をつく。


(……ほんと、相変わらず守りたくはなるよな)


 そして、すぐに思う。


(だから困るんだよ)


 守りたくなる。

 近づきたくなる。


 頼りたくなる。

 励まされたくなる。


 それは美点だ。


 だが、騎士団という場所では、ときに危うさにもなる。


 クリスは視線を横に流した。


 エリシアは変わらず立っている。


 姿勢も、判断も、何も変わらない。

 ただ、少しだけ近づきにくいまま。


 レオンはその二人を見て、書類に視線を戻した。


「仕事が進むなら、どっちでもいい」


 ぼそりと言う。


「お前、そういうところだぞ」


 クリスが小声で返す。


「何がだ」


「いや、いい」


 エリシアは何も言わない。


 リリアも、また別の書類を受け取っている。


 執務室には、紙をめくる音と、ペンの走る音が続く。仕事は滞りなく進んでいる。


 誰一人、困ってはいない。

 少なくとも、業務上は。


 だが、その日。


 第七騎士団本庁には、二つの距離がはっきりと見えていた。


 近づきたくなる書記官。


 近づきにくい副官。


 そのどちらも、確かに必要だった。


 けれど、それを本人たちがどう受け止めるかは、まだ別の話だった。

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