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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第1章 騎士団長編

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第30話 踏み出す者と、いつもの騒ぎ

 ――帝国暦三二〇年・春終盤 東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁 正面玄関前――早朝


 まだ空気が整いきらない時間帯だった。


 石造りの廊下には朝の冷えが残り、窓から差し込む光が、長く床を伸ばしている。


 本来なら、静かなはずの朝の時間。


 だが。


「来るらしいぞ」


「本当か?」


「いや、まさか……」


 本庁の空気は、朝から落ち着かなかった。統制の取れたはずの騎士たちが、妙にそわそわしている。


 足音は多い。

 声は小さい。


 だが、その小声がそこかしこで重なっているせいで、かえって騒がしい。


「団長の妹君だろ……」


「“姫様”の……?」


(やめろ)


 レオンは聞こえていないふりをした。


 隣では、クリスが片手で顔を覆っている。


「……朝からこれかよ」


 ため息が一つ落ちた。


 リリアが一度本庁を離れてから、しばらく経っている。


 短期の書記官養成課程。


 家の外で、騎士団の外で、基礎から学び直すための時間。それを終えて、今日、戻ってくる。


 ただし、以前と同じ立場ではない。


 その時。

 重い扉が開いた。


 音が、廊下に静かに響く。

 視線が、一斉に向いた。


 そこに立っていたのは、リリア・ヴァイスだった。柔らかな朝の光を背に、静かに立っている。


 装いは、騎士団の制服ではない。


 新任書記官用の、簡素で実務向きの制服。


 動きやすく、飾りも少ない。

 書類を扱うための服。


 そのはずなのに。


(なんでそうなる)


 レオンは思った。


 なぜか、整って見える。


 服だけではない。

 立ち方も。

 視線も。


 その場の空気ごと、少しだけ整えられているように見える。


「……本物だ」


 誰かが呟いた。


(だからやめろ)


 レオンは眉間にしわを寄せた。


 クリスは完全に諦めた顔をしている。


 リリアは一歩、前へ出た。


 迷いはない。

 まっすぐレオンの前で止まる。


「団長閣下」


 一礼。


 ほんの一瞬だけ、言葉が揺れた。


「……お兄さま」


 言いかけて、止める。

 すぐに姿勢を正した。


「失礼いたしました」


 周囲の空気が、少しだけ緩む。


 レオンは黙って見ていた。


 今のは、以前のリリアならそのまま言っていたかもしれない。


 だが、今は止めた。

 自分で気づき、自分で直した。


 それだけで、短い不在の意味はあったのだろう。


「本日付で」


 リリアは顔を上げた。


「第七騎士団本庁書記官として配属されました、リリア・ヴァイスです」


 声は柔らかい。

 だが、揺れはない。


 ざわついていた廊下が、完全に静まった。


 その中で、レオンが息を一つ吐く。


「……知ってる」


 ぼそりと言う。


「志願していたのもな」


「はい」


 リリアは短く返した。


「それでも来たか」


「来ました」


 迷いなく答える。


 レオンは頭を掻いた。


「家は」


「反対されました」


「だろうな」


 即答だった。


 ヴァイス家の令嬢が、正式に騎士団本庁の書記官になる。反対されないはずがない。


「でも」


 リリアは一歩、踏み込んだ。


「私が決めました」


 軽くはない言葉だった。


 空気が締まる。


 以前のリリアなら、兄の近くにいたいという気持ちが前に出ていただろう。だが、今の声にはそれだけではないものがあった。


 学んできた。

 選んできた。


 その上で、ここに戻ってきた。

 そう分かる声だった。


 エリシアが前に出る。


「配置は、第七騎士団本庁書記官で間違いありませんね」


「はい」


「承認済みです」


 短い確認。

 短い了承。


 視線が交わる。


(……本気ですね)


 エリシアは理解する。


 勢いではない。

 誰かに流されたわけでもない。


 準備された選択だった。


 その時。


「姫様……!」


 後ろから声が上がった。


 しかも一つではない。

 いくつも重なった。


 レオンの眉が動く。


「誰だ、それは」


「いや、今それ言う!?」


 クリスが小声で返す。


 騎士たちが、じり、と前に出る。


 統制が崩れかける。


 リリアが戻ってきた。それだけで、本庁全体が妙な熱を帯びている。


「戻れ」


 レオンが低く言った。


 騎士たちは、ぴたりと止まった。


(便利だな)


 クリスがぼそっと思う。


 リリアはゆっくりと振り返った。


 柔らかく、微笑む。


「これから、よろしくお願いいたします」


 一礼。


 それだけだった。

 それだけで、ざわめきがすっと収まる。


 誰かが背筋を伸ばした。

 誰かが慌てて姿勢を正した。

 誰かが感極まった顔で黙った。


(……なんだこれ)


 レオンは目を細める。


 剣でもない。

 命令でもない。

 権限でもない。


 別の力。


 だが、確かに効いている。


 リリアは向き直った。


「団長閣下」


 今度は、迷わない。


「ご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」


 完全に、公の顔だった。

 レオンは小さく息を吐く。


「……勝手にしろ」


 投げるように言う。


 だが、拒絶ではない。

 それは、受け入れだった。


 その瞬間。


 リリア・ヴァイスは、第七騎士団の一員となった。


 数秒の沈黙。


 そして。


「……で」


 クリスがぼそっと言った。


「今日の業務、誰がやるんだ」


 視線が集まる。


 レオンに。

 エリシアに。


 そして、リリアに。


 全員が、ほんの少しだけ固まった。


 リリアは静かに微笑む。


「まずは、担当範囲をご指示ください」


 その返答があまりにも自然だったため、騎士たちがまた感動しかける。


 レオンは即座に言った。


「泣くな」


 数人が肩を震わせた。


「泣いていません」


「泣いてるだろ」


「感激しているだけです」


「同じだ」


 クリスが耐えきれず、横を向く。


 エリシアは淡々と書類を一束取り出した。


「では、まずはこちらを確認してください。分類は済んでいます。優先度ごとに仕分けをお願いします」


「承知しました」


 リリアは受け取る。

 動きに無駄はない。


 書類の束を抱える姿は、以前より少しだけ慣れて見えた。


(……増えたよな)


 レオンは思う。


 人も。

 面倒も。

 そして騒がしさも。


 静かだった朝は、もう戻らない。


 ただし。

 書類は、ちゃんと減っていく。


 レオンはそれを見て、少しだけ目を細めた。


(……まあ)


 面倒は増えた。

 だが、悪い増え方ではない。




 今のところは。

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