踏み出す者と、いつもの騒ぎ
――帝国暦三二〇年・春終盤
東ロンバルディア帝国騎士団領
第七騎士団 本庁朝――
まだ空気が整いきらない時間帯。 石造りの廊下には冷えが残り、窓からの光が長く床を伸びていた。
――本来なら、静かなはずの時間。
だが。
「来るらしいぞ」
「本当か?」
「いや、まさか……」
ざわついている。
統制の取れたはずの騎士たちが、落ち着かない。
「団長の妹だろ……」
「“姫様”の……?」
(やめろ)
レオンは聞こえていないふりをする。
その隣で、クリスが顔を押さえていた。
「……朝からこれかよ」
ため息が一つ。
そのとき。
重い扉が開く。
音が、廊下に静かに響いた。
視線が、一斉に向く。
そこに立っていたのは――
リリア・ヴァイス。
柔らかな光を背に、静かに立っている。
その装いは、騎士団の制服。
簡素で、実務用のもの。
――のはずなのに。
(なんでそうなる)
レオンは思う。
なぜか、整っている、場の空気ごと。
「……本物だ」
誰かが呟く。
(だからやめろ)
クリスが完全に諦めた顔をしている。
リリアは一歩、前へ出る。
迷いはない。
レオンの前で止まる。
「団長閣下」
一礼。
――ほんの一瞬。
「……お兄さま」
言いかけて、止める。
「――失礼いたしました」
姿勢を正す。
空気が、少しだけ緩む。
「本日付で」
顔を上げる。
「書記官として配属されました、リリア・ヴァイスです」
声は柔らかい。
だが、揺れはない。
静まる完全に。
その中で。
レオンが息を一つ吐く。
「……知ってる」
ぼそり。
「志願してたのもな」
「はい」
短く返る。
「それでも来たか」
「来ました」
迷いなく答える。
レオンは頭を掻く。
「家は」
「反対されました」
「だろうな」
「でも」
一歩、踏み込む。
「私が決めました」
軽くはない言葉。
空気が締まる。
エリシアが前に出る。
「配置は第七騎士団、本庁書記官で間違いありませんね」
「はい」
「承認済みです」
短い確認。
短い了承。
視線が交わる。
(……本気)
エリシアは理解する。
勢いではない、準備された選択。
そのとき。
「姫様……!」
後ろから多数の声。
レオンの眉が動く。
「誰だそれは」
「いや今それ言う!?」
クリスが小声で返す。
騎士たちが、じりと前に出る。
統制が崩れかける。
「戻れ」
低く一言。
止まる。
ぴたりと。
(便利だな)
クリスがぼそっと思う。
リリアは振り返る。
柔らかく、微笑む。
「これから、よろしくお願いいたします」
一礼。
――それだけで。
空気が整う。
(……なんだこれ)
レオンは目を細める。
剣でも命令でもない。
別の力。
だが、確かに効いている。
リリアは向き直る。
「団長閣下」
今度は、迷わない。
「ご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」
完全に、公の顔。
レオンは小さく息を吐く。
「……勝手にしろ」
投げるように言う。
だが、拒絶ではない。
それは、受け入れだった。
その瞬間。
リリア・ヴァイスは――
第七騎士団の一員となった。
そして。
数秒の沈黙のあと。
「……で」
クリスがぼそっと言う。
「今日の業務、誰がやるんだ」
視線が集まる。
レオンに。
エリシアに。
そして――リリアに。
全員が、ほんの少しだけ固まる。
(……増えたよな)
レオンは思う。
人も面倒も。
そして騒がしさも。
――静かだった朝は、もう戻らない。
ただ、書類はちゃんと減っていく。
なぜか。




