ずれる日常(改訂)
帝国暦三二〇年 春終盤
東ロンバルディア帝国騎士団領
第七騎士団 本庁 執務室
「団長」
呼ばれている。
「レオン団長」
もう一度。
「……ん?」
ようやく顔を上げる。
エリシアが、わずかに眉を寄せていた。
「こちらの案件ですが」
差し出される書類。
「……ああ」
受け取り、視線を落とす。
だが、思考はそこにはなかった。
(海、か)
水平線。
朝と夕で色が変わるという話。
(星が近いって、どんな感じだ)
見たことのない光景。
知らない空。
「団長」
「……レオン」
呼び直される。
はっと、意識が戻る。
「聞いていますか」
「聞いてる」
応答。
しかし、短い沈黙。
(……聞いていない)
エリシアには、それで十分だった。
以前なら、ありえなかった反応。
「こちら、どう判断されますか」
「……任せる」
一瞬、空気が止まる。
「承知しました」
静かに返す。
手は止めない。
だが、思考は別に動く。
(任せる)
その言葉。
(増えた)
悪いことではない。
効率も、結果も出ている。
それでも。
(……違う)
ほんのわずかに。
何かが変わっている。
レオンは椅子から立ち上がる。
「少し外す」
短く言う。
止めない。
止められない。
「……了解しました」
執務室の扉が閉まる。
静寂。
規則正しい音だけが残る。
ペンの走る音。
紙をめくる音。
すべて、正確。
すべて、問題ない。
それなのに。
(……遅い)
ほんのわずかに。
(集中できていない)
原因は明確だった。
(……あの人)
レオンは今、
ここではない場所を見ている。
知らない世界。
知らない景色。
(私は)
ここにいる。
ここに居続ける。
それが正しい。
それで十分なはずだった。
(……でも)
その“正しさ”が、
ほんの少しだけ揺らぐ。
思い出す。
あの聞こえた言葉。
『世界は、ここだけじゃない』
頭から離れない。
(……行かせない)
静かに。
だが、はっきりと。
(レオンは、ここにいればいい)
そのために自分がいる。
そのために――
夕暮れ。
レオンが戻ってくる。
何も言わず、席に着く。
エリシアも何も言わない。
書類を差し出す。
受け取る。
処理する。
距離は同じ。
配置も同じ。
動きも変わらない。
それでも。
レオンの視線は、ときおり遠くを見る。
エリシアは、それを横目で捉える。
何も壊れていない。
何一つ、問題はない。
だが。
確実に。
何かが、ずれていた。




