第29話 ずれる日常
――帝国暦三二〇年・春終盤 東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁 執務室――
「団長」
呼ばれている。
「レオンハルト様」
もう一度。
「……ん?」
レオンは、ようやく顔を上げた。
机の向こうで、エリシアがわずかに眉を寄せている。
「こちらの案件ですが」
差し出される書類。
「……ああ」
レオンはそれを受け取り、視線を落とした。だが、思考はそこにはなかった。
(海、か)
アシュレイが語った場所。見渡す限り、水が広がるという景色。朝と夕で色が変わり、風の匂いまで違うという話。
(水平線ってのは、そんなに遠くまで見えるものなのか)
想像しても、うまく形にならない。
この騎士団領には、山と森と道がある。
訓練場。
庁舎。
砦。
書類の山。
全て知っているものばかりだ。
けれど、アシュレイの話す世界には、それとは違う景色があった。
(星が近いって、どんな感じだ)
砂の海。
夜空。
地図ではなく、星と風で進む人々。
見たことのない光景。
知らない空。
「団長」
「……レオンハルト団長!」
呼び直されて、レオンははっと意識を戻した。
「聞いていますか?」
「聞いてる」
反射的に答える。
だが、短い沈黙が落ちた。
(……聞いていませんね)
エリシアには、それで十分だった。
以前なら、ありえなかった反応だ。
レオンは書類を嫌う。仕事が増えるたびに、面倒だと顔に出す。それでも、必要な判断を聞き逃すことはなかった。
嫌がりながらも、処理は正確だった。だからこそ、ここまで仕事が集まってしまったのだ。
それなのに、今のレオンは一瞬遅い。
目の前の書類ではなく、ここではないどこかを見ている。
「こちら、どう判断されますか?」
エリシアは淡々と尋ねた。
レオンは一度、書類へ視線を落とす。
しばらく内容を追い、それから短く答えた。
「……任せる」
一瞬、空気が止まった。
「承知しました」
エリシアは静かに返す。
手は止めない。
すぐに必要な処理へ移る。
判断そのものに問題はない。
この案件なら、エリシアに任せても支障はない。むしろ、その方が早い。
けれど。
(任せる)
その言葉。
(増えましたね)
悪いことではない。
エリシアに裁量が渡る。
業務は回る。
効率も落ちていない。
結果も出ている。
それでも。
(……違う)
ほんのわずかに。
何かが変わっている。
レオンは椅子から立ち上がった。
「少し外す」
短く言う。
エリシアは止めなかった。
止められなかった。
「……了解しました」
レオンが執務室を出ていく。
扉が閉まる。
静寂。
規則正しい音だけが残った。
ペンの走る音。
紙をめくる音。
遠くで響く足音。
すべて、正確。
すべて、問題ない。
それなのに。
(……遅い)
エリシアは、自分の手元を見た。
ほんのわずかに、処理が遅れている。
書類の内容は頭に入っている。
判断もできる。
手順も間違えていない。
だが、集中しきれていない。
原因は明確だった。
(……あの人)
レオンは今、ここではない場所を見ている。
知らない世界。
知らない景色。
アシュレイが持ち込んだ外の匂い。
それが、レオンの中に残っている。
(私は)
エリシアはペンを握り直す。
自分はここにいる。
ここに居続ける。
第七騎士団の副官として。
レオンの隣で、業務を支える者として。
それが正しい。
それで十分なはずだった。
(……でも)
その正しさが、ほんの少しだけ揺らぐ。
思い出す。
扉越しに聞こえた言葉。
『世界は、ここだけじゃない』
あの言葉が、頭から離れない。
エリシアにとって、世界はここだった。
第七騎士団。
規律。
命令。
書類。
責任。
レオンの隣。
それでよかった。
それ以外を望む必要などなかった。
けれど、レオンは違う。
あの人は、外を見てしまった。
そして、ほんの少しだけ、ここから意識が離れ始めている。
(……行かせない)
静かに。
だが、はっきりと。
(レオンは、ここにいればいい)
ここにいれば、力を発揮できる。
ここにいれば、必要とされる。
ここにいれば、自分が支えられる。
そのために自分がいる。
そのために――
そこで、エリシアはペンを止めた。
考えが、少し深く入りすぎていた。
「……業務中ですね」
小さく呟き、書類へ視線を戻す。
夕暮れ。
レオンが執務室へ戻ってきた。
何も言わず、席に着く。
エリシアも何も言わない。
書類を差し出す。
レオンが受け取る。
処理する。
確認する。
必要な印を押す。
距離は同じ。
配置も同じ。
動きも変わらない。
それでも。
レオンの視線は、ときおり遠くを見る。
窓の外。
沈みかけた空。
騎士団領の向こう側。
エリシアは、それを横目で捉える。
何も壊れていない。
何一つ、問題はない。
書類は進む。
命令は通る。
騎士団は動いている。
だが確実に。
何かが、ずれていた。




