いつもの日常(改稿版)
帝国暦三二〇年 春終盤
東ロンバルディア帝国騎士団領
第七騎士団 本庁 執務室
二つの別れのあと。
騎士団本庁は、再び日常へ戻った。
書類の山。
整った足音。
規律ある動き。
すべて、変わらない。
――はずだった。
「……静かですね」
エリシアが、ぽつりと言う。
「そうか?」
レオンは書類から目を上げない。
「はい」
少しだけ間を置いて。
「静かです」
リリアがいない。ただそれだけで、本庁の空気は少し硬くなっていた。
柔らかく場をほどく声。誰かが入ってきたとき、自然に向けられる笑み。
それがない。
(……まあな)
レオンも、否定はしなかった。
そのとき。
「団長」
若い騎士が、おずおずと声をかけてきた。
「なんだ」
「その……」
視線が泳ぐ。
「姫様のご様子は――」
「知らん」
「え」
「知らん」
間髪入れない答えに、騎士が固まる。
横でクリスが肩を震わせた。
「……元気だろ」
小声でフォローする。
「たぶんな」
「そ、そうですか……!」
若い騎士は安心したように頭を下げ、去っていく。
そして数分後。
「団長」
「なんだ」
「姫様は――」
「知らん」
再び即答。
(またかよ)
クリスが天井を見る。
さらに別の騎士が、おそるおそるエリシアの方へ向いた。
「……副官殿」
「何でしょう」
「姫様の――」
視線が合う。
エリシアは何も言わない。
ただ、見た。
冷たい視線。
正確には、業務時間中に不要な質問を持ち込んだ者を見る目だった。
「い、いえ!」
「なんでもありません!!」
騎士は即座に敬礼し、逃げるように去っていく。
「……怖いな」
クリスがぼそりと言う。
「当然です」
エリシアは淡々と答えた。
「業務中ですので」
「正論だけどな」
クリスは肩をすくめる。
「正論って、たまに刃物みたいだよな」
「何か?」
「なんでもないです」
また一人、騎士が来る。
今度はかなり慎重だった。
「団長」
「なんだ」
騎士は深呼吸する。
「その……」
意を決したように言った。
「姫様は、お元気でしょうか」
短い沈黙。
レオンは、ゆっくりと顔を上げる。
「……姫様は」
騎士がごくりと喉を鳴らす。
「誰だ、それ」
真顔だった。
「え……」
「ここに、そんな役職はない」
正論。
逃げ場はない。
騎士の背中が、少しずつ丸くなる。
「……失礼しました」
小さく敬礼し、すごすごと去っていく。
クリスが顔を逸らした。
(やりすぎだろ)
だが、笑ってはいけない。
笑ったら最後、次に飛んでくるのは自分だ。
エリシアは無言だった。
ただ、そのやり取りを見て、わずかに目を細める。
レオンは再び書類へ視線を落とす。
何事もなかったかのように。
執務室には、静かな時間が戻る。
書類は進む。
命令は通る。
業務に支障はない。
ただ、誰も口にはしないだけで、そこにいたはずの柔らかな気配が今はない。
「……静かだな」
今度はレオンが呟いた。
エリシアは何も言わない。
クリスも、少しだけ黙る。
そして廊下の向こうで、誰かが小さく言った。
「……姫様、いつ戻るんだろうな?」
その声に、誰も返事をしなかった。
いつもの日常は戻ってきた。
けれど。
少しだけ、以前とは違っていた。




