第2章100話 せっかく擁護したのに
――帝国暦三二二年・夏初め ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
昼休みまで、もう少しという頃。
第一執務室で仕事をしていたイリスは、ふとクリスのことを思い出していた。
少し前まで、イリスの中でクリスの印象はあまり良くなかった。
大隊長室にいない。
仕事を部下に任せて、どこかへ行っている。
第一執務室で耳に入ってくるのは、そんな話ばかりだった。
だが最近、その見方が少し変わっている。
エリシアから、クリスにはクリスなりの仕事の仕方があると聞いたからだ。
確かに仕事をさぼることはある。
だが、あちこちへ顔を出し、人と話し、正式な報告書には載らないような情報を拾ってくることもある。
以前なら、誰かがクリスの仕事ぶりを悪く言っていても、特に何も思わなかった。
最近では、たまに。
「ですが、クリスさんは仕事をしていないわけではありませんよ」
くらいのことは言うようになっていた。
まだ全面的に信用しているわけではない。
だが、少なくとも。
ただ遊んでいるだけの大隊長ではない。
表から見えているものだけでは、その人の全部は分からない。
そう思うようにはなっていた。
「イリス」
「はい?」
呼ばれて顔を上げる。
レオンが自分の机に肘をつき、難しい顔をしていた。
「何がいいと思う?」
「何が、でしょうか?」
「クリスにやるものだ」
「クリスさんに?」
「ああ」
「今回の報奨ですか?」
「そうだ」
先日、レオンはクリスに、第四大隊が結果を出せば何か役に立つものをやると言ったらしい。
だが。
何を渡すのかまでは、まだ決めていないようだ。
「ずっと考えてたんだが、分からん」
「そうだったのですか」
「ああ。この前、クリスが帰った後にメリーにも聞かれた」
「メリーさんに?」
「ああ。『いいものとは何ですか』『何をあげるんですか』『クリスさん、期待しているみたいでしたけれど、何を渡すつもりなんですか』ってな」
「それで、何と答えたのですか?」
「ろうそく」
「…………」
「それと建材」
「…………」
イリスはしばらくレオンを見つめた。
「余ってるんだ」
「何がですか?」
「ろうそくも建材も」
「そういう問題ではありません」
「まだたくさんあるぞ」
「量の問題でもありません」
「余ってるなら、普通より多く渡せるだろ」
「だから何ですか」
「報奨としては得じゃないか?」
「得ではありません」
「そうか?」
本当に分かっていないらしい。
「ろうそくなら夜に使える。建材も、何か作る時には使える」
「クリスさんたちが建材をいただいて、何を作るのですか?」
「それはクリスたちが決めればいい」
「丸投げではありませんか」
「自由に使っていいんだぞ」
「聞こえだけは良くなりましたが、余った建材です」
「ああ」
「それをメリーさんに言ったのですか?」
「言った」
「何と言われました?」
「怒られた」
「当然でしょう」
イリスは即答した。
「残っている物を報奨として渡してはいけません、と言われた」
「メリーさんが正しいです」
「でも、ろうそくは何本あっても困らないと思うんだが」
「第四大隊へのご褒美ですよね?」
「ああ」
「倉庫整理ではありません」
「倉庫も片づくぞ」
「それが駄目なんです」
「両方に得があると思ったんだが」
「副長府側にしか得がありません」
「クリスたちもろうそくが増える」
「それを得と数えないでください」
「そうか」
「そうです」
レオンはまだ納得しきれていない顔をしている。
「建材も駄目か?」
「駄目です」
「まだたくさん残ってるぞ」
「むしろ、残っているから渡そうとしているのが問題なんです」
「メリーにも同じことを言われた」
「でしょうね」
「最後には、『そんなものを渡したら、最悪、クリスさんに剣で斬りかかられますよ』って怒られた」
「メリーさんが正しいです」
「そこまでか?」
「そこまでです」
レオンは黙った。
まだ何か言いたそうだった。
「ろうそく、結構使えるんだけどな」
「副長」
「何だ?」
「今は、ろうそくの良さを説明する時間ではありません」
「そうか」
「はい」
素直に引き下がった。
「それで、自分でも考えてたんだ」
「はい」
「でも、結局何がいいのか分からなかった」
レオンがイリスを見る。
「イリスは何がいいと思う?」
「そうですね……まず、ご自分がいただいて嬉しいものを考えてみてはいかがですか?」
「俺が?」
「はい。それをそのまま渡すという意味ではありません。何をいただけば嬉しいのか、そこから考えてみてください」
「なるほど」
レオンが考え込む。
しばらくして。
「休み」
「…………」
「まず休日が欲しい」
イリスは予想していなかったわけではない。
「クリスさんには、すでに十分お休みがあります」
「そうだったな」
「それに、今回も休暇を与える予定なのでしょう?」
「ああ」
「でしたら、休日はもう十分です」
「じゃあ時間だな」
「時間?」
「ああ。自由な時間が欲しい」
「それも休日とほとんど同じではありませんか」
「違うぞ」
レオンは真顔だった。
「休みがあっても、仕事が残ってれば自由じゃない」
「…………」
「仕事のことを何も考えなくていい時間が欲しい」
妙に切実だった。
イリスには、少しだけ分かる気もした。
レオンの場合、休みを与えられても、戻ってくれば仕事が待っている。
休んでいる間も、その仕事が消えるわけではない。
「ですが、時間そのものを報奨として渡すことはできません」
「仕事を減らせば、その分時間を渡したことにならないか?」
「それは業務調整です」
「じゃあ、休みを増やせば?」
「先ほど休日はもう十分だと申し上げました」
「そうだったな」
「はい」
レオンは再び考え込んだ。
「難しいな。時間は欲しいのに、時間は渡せないのか」
「普通はそうです」
「金より欲しいんだが」
「副長の場合は、そうでしょうね」
「クリスはいらないのか?」
「私には分かりません」
「俺なら嬉しいぞ」
「副長への報奨を考えているのではありません」
「そうだった」
また考え始める。
「ほかにはありませんか?」
「……枕かな」
「枕ですか?」
「ああ」
「なぜ枕なのです?」
「寝る時、枕が違うと結構変わる」
「それは分かりますが」
「今使ってるのは実家から持ってきたやつなんだ。そろそろ新しいのが欲しい」
「…………」
「少し良いやつがいいな」
いつの間にか、完全に自分の欲しいものの話になっている。
「枕なら実用品だろ」
「実用品ではあります」
「毎日使える」
「そうですね」
「じゃあ、いいんじゃないか?」
「クリスさんが新しい枕を欲しがっていれば、ですが」
「欲しくないのか?」
「私に聞かれても分かりません」
「枕はいらない人間もいるのか?」
「そういう話ではありません」
「難しいな」
「ほかには?」
「調理器具」
「調理器具?」
「ああ。夜中に一人で料理する時に使うやつだ」
「食堂のものを使っているのでは?」
「借りてる。でも、自分のが欲しい」
今度は少し楽しそうだった。
「食堂で使ってるような丈夫なやつがいいな。自分用にいくつか揃えておけば使いやすい」
「副長」
「何だ?」
「クリスさんは、よくお料理をされるのですか?」
「知らん」
「…………」
「でも、調理器具は長く使えるぞ」
「料理をする方ならです」
「そうか」
「はい」
「じゃあ、クリスには駄目かもしれないな」
「ようやくそこに気づいていただけましたか」
「俺は欲しいんだが」
「それはよく分かりました」
イリスは小さく息を吐いた。
「休日、自由な時間、枕、調理器具ですよね」
「ああ」
「どれも副長ご本人には必要なのでしょうが、報奨としていただいて誰もが喜ぶものとは少し違うと思います」
「やっぱりそうか」
「はい」
「普通の人間は何が欲しいんだ?」
そこでイリスは、もう一つ大事なことを思い出させることにした。
「そもそも、報奨を受け取るのはクリスさん一人ではありませんよ」
「そうだな」
「第四大隊の騎士や兵士たちです。クリスさんはその代表にすぎません」
「…………」
レオンの顔がさらに難しくなった。
「その方たちが何を欲しがるかも考えてください」
「余計に分からなくなった」
「そうでしょうね」
「やはり難しいな」
このままでは、またろうそくと建材に戻りかねない。
イリスは考え方を変えることにした。
「では、まずクリスさんが普段何を好んでいるのか、考えてみてはいかがですか?」
「クリスが好きなもの?」
「はい。大隊長であるクリスさんが喜びそうなものから考えれば、何か思いつくかもしれません」
「なるほど」
「普段よく買うものでも構いません」
「それなら分かる」
レオンは即答した。
「女と酒と馬だ」
「…………」
イリスは止まった。
少し前までなら。
まあ、クリスさんですから。
そう思って終わっていたかもしれない。
だが最近は、少しだけ評価を改めている。
だからこそ。
よりによって、そこなのですか。
そんな気分になった。
「酒はよく飲む。馬も好きだな」
「はい」
「一番は女だと思う」
「…………」
否定できないのが困る。
「どこで買える?」
「何をですか?」
「女」
「買えません!」
思わず声が大きくなった。
第一執務室にイリスの声が響き、近くにいた何人かが顔を上げる。
「何でだ?」
レオンは不思議そうだった。
「何でではありません!」
「イリスが、あいつがよく買うものにしろって言ったんだろ」
「女性を買えという意味ではありません!」
「そうなのか?」
「当たり前です! 帝国法で奴隷の売買は禁止されています。女性を物のように買えるわけがないでしょう」
「…………」
レオンの表情が変わった。
「じゃあ、クリスは犯罪を自慢してたのか?」
「違います!」
「違うのか?」
「違います!」
「でも、女を買ったって何度も――」
「その意味が違うんです!」
そこまで言ってから、イリスは少しうつむいた。
「どう違うんだ?」
「それは……」
言葉に詰まる。
意味は分かっている。
レオンが考えているような、人そのものを売買しているという意味ではない。
だが。
それを自分の口から詳しく説明したくはなかった。
「もし犯罪なら、第四大隊長のままにしておくのはまずいだろ」
「だから犯罪ではありません!」
「ならよかった」
レオンが安心したように見えた。
「何もよくありません!」
「何でだ?」
「…………」
頭が痛くなってきた。
相変わらず、妙なところで常識が抜け落ちている。
「でも、おかしいな」
「今度は何ですか?」
「クリスはしょっちゅう女を買ったって俺に自慢してるぞ」
「…………」
「昨日は誰を買ったとか、この前はどんな女だったとか――」
「もう結構です!」
これ以上、第一執務室で詳しく話されては困る。
「でも、犯罪じゃないなら何を買ってるんだ?」
「分かりましたから!」
「何が違うんだ?」
「それは……別の意味です」
「だから、どういう意味だ?」
「…………」
「イリス?」
「私に説明させないでください」
「誰に聞けばいい?」
「…………」
イリスは視線を動かした。
少し離れた席にフィアナがいる。
一瞬だけ迷った。
だが。
自分一人で説明するよりはいい。
「フィアナ」
「はい?」
何も知らないフィアナが、こちらまで歩いてきた。
「少しお願いがあるのですが」
「何でしょうか?」
「副長に説明していただけませんか?」
「何をです?」
聞かれると、やはり言いにくい。
「クリスさんが、女性を頻繁に買っているという話についてです」
「…………」
フィアナの顔が露骨に嫌そうなものへ変わった。
「嫌ですよ」
「…………」
「何で私が説明するんですか」
「私も説明したくないんです」
「私だって嫌です」
「ですが、副長が意味を分かっていなくて」
「なおさら嫌です」
きっぱり断られた。
当然かもしれない。
イリスは今度は、近くを通りかかったココを見る。
「ココさん」
「嫌です」
「まだ何も言っていません」
「今のお話を聞いてしまいましたから」
こちらも駄目だった。
「私も説明したくありません」
「そうですか……」
「どうして昼前からそんなことを説明しないといけないんですか」
「私もそう思います」
「俺も詳しく知りたいわけじゃないぞ」
レオンが言った。
「ただ、何を買ってるのか分からないと、同じものを買えないだろ」
「副長は少し黙っていてください」
「分かった」
イリスが見ると、レオンは素直に口を閉じた。
これで少しは静かになる。
そう思った時だった。
「何のお話でしょうか?」
近くを通りかかったマリニーファが足を止めた。
イリスはフィアナとココを見る。
二人も同時にマリニーファを見ていた。
「…………」
「何ですか?」
「クリスさんの話です」
フィアナが答えた。
「クリス様の?」
それだけで、マリニーファの表情が曇った。
「でしたら、あの方の話はあまりしたくないです」
「そう言うと思いました」
「何をなさったのですか?」
ココが口を開いた。
「副長の話では、クリスさんはしょっちゅう女性を買っているそうです」
「…………」
マリニーファが止まった。
まずい。
イリスはそう思った。
「しょっちゅう、ですか?」
「本人から何度も自慢された」
レオンが付け加えた。
「副長!」
「事実だぞ」
「今はその事実を補強しないでください!」
「そうか」
遅かった。
マリニーファの目が冷たくなっている。
「……思った通り、ろくなことをしていないんですね、あの人は」
「そこまで言ってはいません」
「ですが、いつもこちらへ来てばかりで、第四大隊のお仕事をきちんとなさっているようには見えません」
少し前のイリスなら。
その言葉を聞いても、そのまま受け入れていたかもしれない。
だが今は違った。
エリシアから聞いた話を思い出す。
さぼり癖があるのは本当。
だが、それだけではない。
クリスにはクリスなりのやり方がある。
「クリスさんは、仕事をしていないわけではありません」
イリスは口を挟んだ。
マリニーファがこちらを見る。
「そうなのですか?」
「はい。大隊長室にいないことは多いようですが、それだけで仕事をしていないと決めつけるのは違うと思います」
自分でも、以前ならこんなことは言わなかっただろうと思う。
「仕事をしていない時は、女性を買って遊んでいるということでしょうか?」
「どうしてそうなるんですか」
「でも、買ってるのは本当だぞ」
「…………」
イリスはゆっくりレオンを見た。
せっかく擁護したところだった。
「副長!」
「黙るんだったな」
「お願いします」
今の一言で、ほとんど台無しだった。
イリスが訂正するより先に、マリニーファは近くの女性書記官へ顔を向ける。
「聞きましたか? クリス様、仕事をせずに遊んでいると思っていましたけれど、女性まで買っているそうですよ」
「マリニーファさん!」
「副長ご本人から聞いた話ですよね?」
「言い方が変わっています!」
しかし、その言葉を聞いた別の女性も顔を上げた。
「クリス大隊長が?」
「しょっちゅうだそうです」
「そんなに?」
「副長へ何度も自慢なさっているそうです」
「…………」
イリスは止めようとした。
だが、遅かった。
最初はただ、レオンが言った。
クリスはしょっちゅう女を買っている。
それだけの話だった。
それをフィアナとココが聞き。
マリニーファが聞き。
周囲の女性書記官へ広がる頃には、少しずつ余計なものが付け加わっていた。
「仕事もろくにせず、女を買って遊んでいるらしい」
「しょっちゅう女を買い漁っているらしい」
「それを副長に自慢しているらしい」
「…………」
イリスは目を閉じた。
最近。
クリスへの評価を少し改めたばかりだった。
せめて誤解だけでも少し解いておこうと思った。
「違いますからね」
誰も聞いていなかった。
「何が違うんだ?」
レオンが小声で尋ねてくる。
イリスは目を開けた。
「副長は本当に黙っていてください」
「ああ」
その時だった。
第一執務室の扉が開いた。
「よお」
クリスが入ってきた。




