第2章98話 勝ちたい理由
――帝国暦三二二年・夏初め ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領――
第四大隊本部の会議室では、戦術天輪についての説明会が開かれようとしていた。
集められたのは、第四大隊の中隊長、小隊長、それに今回の訓練へ直接関わる主要な者たち。
全員合わせれば、およそ百人。
普段の会議より、明らかに人数が多い。
会議室の一番前には、長いテーブルが置かれていた。
その中央には、第四大隊長であるクリス。
左隣にはマルクとノーラ。
右隣には、今回の説明を担当するメリーがいる。
ノーラは机の上に紙を広げ、筆を手にしていた。
今日は説明を聞くだけではない。
第四大隊付き書記官として、この説明会の議事録を取る役目もある。
そして今日のノーラは、いつもの服装ではなかった。
今回だけ、臨時に青い制服を着ている。
午後から始まる訓練では、将来のことも考え、書記官も訓練へ参加する予定だった。
今回はあくまで訓練だ。
危険な戦闘へ参加するわけではない。
それでも、ノーラにとっては初めての経験だった。
全員が揃うのを待ちながら、ときどき自分の制服へ視線を落としている。
「そんなに珍しいか?」
クリスが声をかけた。
「珍しいですよ」
ノーラは答えた。
「私、こういう訓練に参加するのは初めてですから」
「今は議事録係だろ」
「それもちゃんと取ります」
ノーラは目の前の紙を軽く押さえた。
「午後からは、私も参加するんですよね?」
「ああ」
「楽しみです」
「遊びじゃないぞ」
「分かっています」
返事をしながらも、少し楽しそうだった。
クリスは会議室を見渡した。
楽しそうなのは、ノーラだけではない。
全体的に、妙に明るい。
「勝ったら二日休みだろ?」
「何する?」
「俺は町へ行く」
「俺は寝る」
「賞金、どのくらい出るんだろうな」
「二日休みで賞金まで出るなら、絶対に勝たないとな」
あちこちからそんな声が聞こえてくる。
クリスは黙っていた。
賞金。
そんな話を聞いた覚えはない。
二日間の休みについては聞いている。
だが、賞金が出るなどとは一度も聞いていないし、自分から部下たちに言った覚えもない。
いつから、そんな話になったのだろう。
「クリス大隊長」
左隣からマルクが声をかけた。
「何だ?」
「少し気になります」
「賞金のことか?」
「違います」
マルクは即答した。
「皆、少し浮かれすぎているように見えます」
「ああ」
「すでに勝った後の話までしています」
「してるな」
「第一大隊を軽く見始めているのではないでしょうか」
クリスはもう一度、会議室を見た。
確かに。
誰も負けた時の話をしていない。
勝つ。
二日休む。
賞金をもらう。
完全に、そのつもりだった。
「士気が高いのは悪くないだろ」
「もちろんです」
「なら、今はいいんじゃないか?」
「油断につながらなければ、ですが」
「そこは俺も見ておくよ」
クリスが答えると、マルクは小さく頷いた。
***
やがて最後の一人が席に着いた。
会議室が静かになる。
メリーが全員を見渡した。
「では、始めましょう。クリス大隊長」
「ああ」
クリスは席から立ち上がり、会議室に集まった者たちを見渡した。
「これから、新戦術天輪についての説明を始める」
ざわついていた会議室が静かになる。
「今日ここで説明を受けたあと、午後から実際に第四大隊を動かして訓練する。分からないことがあれば、その場で聞いてくれ」
それだけ告げると、クリスはメリーを見る。
「じゃあ、頼む」
「はい」
ノーラも姿勢を正し、議事録の最初の行へ筆を走らせた。
前方には、大きな板が用意されている。
そこには簡単な配置図が描かれていた。
「では、戦術天輪について説明します」
メリーが説明を始めると、すぐに会議室のあちこちから声が上がった。
まだ戦える部隊でも、一定時間ごとに交代させる。
押している時でも、必要なら前線から下げて次の部隊と交代させる。
今までの定石とは異なり、敵騎士に必ずしも騎士をぶつけない。
これまでの戦い方とはまったく違う考え方に、納得できない者は多かった。
「まだ戦えるなら、そのまま戦わせた方がいいのでは?」
「押している時に下がれば、敵が立て直すのでは?」
「敵騎士を槍兵に受けさせるというのも……騎士には騎士を当てた方がいいのでは?」
次々と声が上がる。
クリスは、その様子を見ながら小さく息を吐いた。
「……またか」
隣にいたメリーも、わずかにクリスを見る。
「前と同じですね」
「ああ」
大隊長たちが最初に説明を受けた時も、似たようなものだった。
クリス自身も、最初は同じような疑問を持った。
しばらく黙って聞いていたが、反対する声はなかなか収まらない。
「お前ら」
クリスが声を上げた。
会議室が少し静かになる。
「二日の休み、いらないのか?」
何人かの顔が止まった。
「……いります」
「褒賞も?」
「欲しいです」
「賞金ですよね?」
「…………」
クリスは答えなかった。
本当は、賞金が出るなどとは一度も聞いていない。
もちろん、賞金が出るような顔をして期待させるのも、指揮官としてどうなのかとは思う。
だが、ここでわざわざ本当のことを言って、せっかく上がっている士気を自分から落とすのも、それはそれで指揮官としてどうなのだろう。
どちらが正しいのか、クリスにはよく分からなかった。
「でも、出るんですよね?」
また聞かれた。
「……まあ」
クリスは少しだけ視線を逸らす。
「多分、出る!」
「おお!」
何人かの表情が明るくなった。
クリスは心の中で付け加えた。
多分。
レオンなら。
本当に多分だ。
「とにかくだ」
この話を続けると危ない。
クリスは強引に話を戻した。
「お前ら、第一大隊を見返したくないのか?」
何人かが顔を見合わせる。
「向こうは、こっちを甘く見てるぞ」
クリスは続けた。
「普通にやれば、第一大隊が余裕で勝つと思ってるはずだ」
「もちろん勝ちたいです」
一人が言った。
「勝ちたいですよ」
「俺もです」
今度は、あちこちから声が上がる。
クリスは満足そうに頷いた。
「だよな」
さらに続ける。
「さっき言ってた褒賞も欲しいんだろ?」
「欲しいです!」
「休みも?」
「もちろんです!」
「二日間ですよね?」
「ああ、それは二日だ」
そこだけは自信を持って答えられる。
クリスは何度か頷いた。
「よしよし」
だいぶ乗ってきた。
なら、最後だ。
「それに」
クリスは会議室を見渡した。
「遊び人部隊だとか、お笑い部隊だとか言われて、そのままでいいのか?」
「それはクリス大隊長のせいでは?」
すぐに声が飛んだ。
「そうですね」
「大隊長が普段から遊んでいるからです」
「おい」
クリスが眉を寄せる。
「今は俺の話じゃない」
「かなり関係はあると思います」
「はい、かなりあります」
「だから俺の話じゃない!」
会議室のあちこちから笑いが起きた。
クリスは咳払いを一つした。
「とにかく、休みも欲しい。褒賞も欲しい。第一大隊も見返したい」
「はい」
「だったら勝たないと始まらないだろ」
そこで、誰も反論しなかった。
「今まで通り正面から第一大隊とぶつかって、勝てると思うか?」
会議室が静かになった。
クリスは中隊長の一人を見る。
「エドガー」
「はい」
「普通にやって、第一大隊に勝てるか?」
エドガーは少し考えた。
「……難しいと思います」
「だよな」
クリスはメリーを見る。
「でも、メリーは勝てると言ってる」
視線がメリーへ集まった。
「そうだよな?」
「はい」
メリーは迷わず頷いた。
「十分に勝機はあります」
クリスは再び部下たちを見渡した。
「なら、まずはやってみよう」
まだ納得しきれていない者もいる。
だが、先ほどまでのように反対する声は上がらなかった。
「やってみて駄目だったら、その時はその時だ」
クリスは肩をすくめた。
「負けたら、文句は俺が受ける」
「クリス大隊長が?」
「ああ」
クリスは頷いた。
「俺が大隊長だからな」
それから少し笑った。
「だからまず、メリーの言う通りにやってみよう」
会議室を見渡す。
「俺たち遊び人部隊の力を、第一大隊に見せてやろうじゃないか」
一瞬。
会議室が静かになった。
「クリス大隊長」
「何だ?」
「だから、私たちは遊び人ではありません」
「……」
「遊び人なのはクリス大隊長だけです」
「ああ、それは同意します」
「私もです」
「お前らな」
「そこは訂正してください」
「できれば謝罪もお願いします」
クリスはしばらく黙った。
「……悪かったよ」
何人かが満足そうに頷いた。




