第2章93話 騎士の歌
――帝国暦三二二年・春終わり ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領 ヴァイス家屋敷――
■ヴァイス邸イリスの部屋
屋敷へ戻ったイリスが自分の部屋へ向かうと、扉の向こうから歌声が聞こえてきた。
聞き覚えのない歌だった。
けれど、歌われている内容はすぐに分かった。
♪ ロンバルディアの騎士は誇り高い。
誠実で、約束を違えない。
女性や子供には優しく、弱い者を守る。
剣を手に国を守り、人々の暮らしを守る。
そんな騎士たちを。
ロンバルディアの民は愛し。
尊敬している。
何より、彼らは。
自分たちの愛する故郷を守ってくれる
英雄なのだから。♪
「…………」
イリスは扉の前で少し立ち止まった。
歌っているのはメリッサだった。
部屋へ入る。
「あ、お帰りなさいませ、お嬢様」
メリッサが手を止め、一礼した。
「ただいま」
イリスは部屋へ入ってから、少し首を傾げる。
「今の歌は何?」
「騎士様たちの歌ですよ」
「騎士の?」
「はい。ロンバルディアでは、結構知られている歌なんです」
「そうなの?」
「町でも時々歌われていますよ」
メリッサは何でもないことのように答えた。
「子供たちも知っていますし、大人も歌います。騎士様たちは私たちを守ってくださる方ですから」
「…………」
イリスは少し考えた。
「やはり、騎士というのは随分尊敬されているのね」
「はい」
メリッサは頷いた。
「こちらへ来てから、よく分かりました。皆さん、本当に騎士様を大切に思っているんですよ」
「騎士様、ですか」
「はい。町でも普通にそう呼んでいる方が多いです」
「なるほど……」
仕事で騎士たちと毎日顔を合わせていると、つい忘れてしまう。
イリスにとっては職場の同僚であり、部下であり、上司でもある。
けれど。
町に暮らす人々にとって、騎士は少し違う。
自分たちを守ってくれる者。
国や故郷を守る者。
尊敬される存在。
「まだまだ、知らないことがあるのね」
「そうですか?」
「ええ」
イリスは頷いた。
「その歌も知らなかったわ」
「覚えますか?」
「…………」
イリスは少し考えた。
「覚えておいた方がいいかもしれないわね」
この土地で広く知られている歌なら、知っていて損はない。
そう考えながら、イリスは椅子へ腰掛けた。
「そういえば、メリッサ」
「はい、お嬢様」
「今日は買い物に行っていたの?」
「はい。少しだけ行っておりました」
「一人で行ったの?」
「はい。一人で」
「そう」
メリッサは少し不思議そうにイリスを見た。
「どうしてですか?」
「ああ、それは」
イリスは、以前レオンハルトから聞いた話を思い出した。
「この辺では、親しい間柄の二人が一緒に歩く時は、手をつないで歩くのが風習らしいですよ」
「そうなのですか?」
「ええ。副長から聞いたの。私も知らなかったけど」
「私も知りませんでした」
メリッサは素直に頷いた。
「勉強になります」
「だから、誰かと一緒だったのかなと思って」
「いいえ。今日は一人でした」
「そうだったのね」
イリスは納得したように頷いた。
「メ……」
そこで口を止める。
メリッサが顔を上げた。
「どうされました?」
「いえ」
イリスは少し迷ってから尋ねた。
「そういえば、あなたは今でも『メリー』って呼ばれたい?」
「私ですか?」
「ええ」
幼い頃。
イリスは何の迷いもなく、メリッサをそう呼んでいた。
けれど最近は、ほとんど使わなくなった。
理由は単純だった。
今は、その愛称を聞けば別の少女の顔も浮かぶ。
メリエラ・エイゼン。
イリスにとって、すっかり妹分のようになった少女だった。
「私は、どちらでも構いませんよ」
メリッサは答えた。
「お嬢様がお呼びになりやすい方で」
「そう」
「ただ」
「ただ?」
「今は同じ呼び方をされている方がいらっしゃいますから、メリッサの方が分かりやすいかもしれませんね」
「…………」
イリスは少し笑った。
「あなたもそう思う?」
「はい」
「じゃあ、今まで通りメリッサと呼ぶわ」
「かしこまりました、姫様」
「そこは変わるのね」
「昔から色々お呼びしていましたから」
「そうだったわね」
お嬢様。
姫様。
時には、人前なら殿下。
メリッサは幼い頃からイリスを知っている。
一つの呼び方だけを使ってきたわけではなかった。
「そういえば、お嬢様」
「何?」
「お手紙が届いております」
「手紙?」
「はい。そちらの机の上に」
イリスは机を見る。
何通かの手紙が置かれていた。
「ありがとう」
最初の一通を手に取る。
差出人を確認した。
「…………兄上ですか」
イリスの表情が少しだけ曇った。
先日の報告に対する返事だろうか。
あるいは。
また何か面倒な話かもしれない。
「…………」
今は開けなくてもいいかもしれない。
そう思いながら、次の手紙を見る。
「…………あら?」
見覚えのある名前だった。
メリエラ・エイゼン。
「メリーさんから?」
「はい」
イリスは手紙を開いた。
短い内容だった。
今度、ゆっくり話をしたいこと。
できれば二人で出かけたいこと。
そして。
ぜひ、イリスに見せたいものがあること。
「…………」
イリスは読み終えて、少し考えた。
「今日も会ったのに、どうしてその時に言わなかったのかしら」
「お手紙でお誘いしたかったのではありませんか?」
「そうなのかしら」
「さあ」
メリッサはそれ以上は言わなかった。
イリスはもう一度手紙を見る。
メリエラと二人。
それなら。
「…………」
大丈夫でしょう。
少なくとも、男性と二人ではない。
何の問題もないはずだった。
「今度、返事を書いておくわ」
「かしこまりました」
メリッサは再び部屋の片付けへ戻った。
そして。
しばらくすると、また歌い始めた。
先ほどとは違う歌だった。
「…………」
イリスは手紙を机へ置きながら、その歌へ耳を傾けた。
♪ 青き騎士。
青き聖騎士。
その名はレオンハルト。♪
「…………」
イリスの手が止まった。
歌は続く。
♪ 若くして剣を取り。
誰よりも働き。
人々を守り。
騎士たちを導き。
眠ることさえ惜しんで国のために尽くす。
青き聖騎士レオンハルト。♪
「…………」
イリスがゆっくりメリッサを見る。
「それは……」
「あ、これですか?」
メリッサは掃除の手を止めた。
「最近、よく歌われるようになったんですよ」
「最近?」
「はい。レオンハルト様の歌です」
「…………」
イリスは目を丸くした。
レオンハルト本人が、この歌を聞いたら。
どんな顔をするだろう。
「…………」
想像してしまった。
おそらく。
本気で嫌そうな顔をする。
「ふっ」
思わず笑いが漏れた。
「どうされました、お嬢様?」
「ううん」
イリスは口元を押さえる。
「何でもないわ」
「そうですか?」
「ええ」
メリッサは少し不思議そうにしたものの、それ以上は尋ねなかった。
そして。
再び掃除をしながら歌い始める。
♪ 青き聖騎士。
レオンハルト。♪
「…………」
イリスはその歌を聞きながら考えた。
先ほどの騎士の歌は。
覚えておいた方がいいかもしれない。
けれど、こちらは。
「…………」
覚えない方がいいでしょうか。
それとも。
本人に教えてあげた方がいいのでしょうか。
「…………」
少しだけ悩む。
メリッサの歌声は。
その間も、部屋の中に楽しそうに響いていた。




