第2章90話 シエラの好きな人
――帝国暦三二二年・春終わり ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領――
■第四大隊本部
午後。
クリス・ラングレーは、時間を確認して第四大隊本部を飛び出した。
向かう先は、総騎士団副長府庁舎である。
マルクから聞いた話が正しいのなら、まだ逃げ道は残されている。
シエラの方から婚約を解消すれば、クリスが騎士の誓いを破ったことにはならない。
そのためには、まずシエラに嫌われなければならない。
あるいは、シエラに別の好きな男がいればいい。
ほかの男と結ばれたいとシエラ自身が望むのであれば、クリスが婚約を強制することはできない。
それは誠実な騎士の行いではない。
つまり、シエラの好きな男を見つければいい。
クリスは第四大隊本部を出ると、そのまま第四訓練場を横切った。
「クリス大隊長!」
訓練中の大隊員が敬礼する。
「ああ」
クリスは足を止めず、片手だけを上げた。
「どちらへ行かれるのですか?」
「悪い。今は急いでる」
別の大隊員からも声をかけられたが、クリスはそのまま通り過ぎた。
今は部下たちと話している場合ではない。
自分の騎士としての信用と、これからの人生が懸かっている。
もう一度時間とシエラの出勤時刻を確認してから第四訓練場を抜け、クリスは副長府庁舎へ向かって急いだ。
■総騎士団副長府庁舎・第三執務室前
副長府庁舎へ入ったクリスは、第三執務室へ続く廊下を早足で進んだ。
シエラのいる第三執務室には、毎日のように来ている。
迷うことはない。
もうすぐ第三執務室へ着く。
そう思ったところで、廊下の向こうから一人の女性が歩いてきた。
少しブラウンの混じった長い金髪が、歩くたびに背中で青いリボンと共に柔らかく揺れている。
白い肌に、涼しげでありながら拒絶感のない目元。
騎士団の制服を着ていても硬さはなく、その周囲だけ空気が柔らかく見えた。
見慣れた顔だった。
「クリスさん!」
リリア・ヴァイスが、いつもより少し強い声で挨拶した。
「こんにちは」
「ああ。こんにちは、リリア」
クリスも挨拶を返した。
ただし、足は止めなかった。
「クリスさん、ずいぶんお急ぎのようですが、何かあったのですか?」
「少しな」
「お手伝いできることはありますか?」
「大丈夫だ」
リリアの横を通り過ぎようとしたところで、第三執務室の扉が開いた。
中からシエラが出てくる。
「クリスさん」
出てきたシエラと目が合った。
「どうしたのですか?」
「シエラ」
クリスはシエラの前まで急いで来ると、その両手を取った。
シエラが目を瞬かせる。
リリアも、その場で動きを止めた。
「頼む」
「何でしょうか?」
「お前のことが知りたい」
「私のことですか?」
「ああ」
クリスはシエラの両手を握ったまま、真剣な顔で続けた。
「お前の本当の気持ちを教えてくれ」
「本当の気持ち……」
シエラはクリスを見つめた。
その頬が、ほんの少し赤くなる。
だが、二人よりも先に、リリアの顔が真っ赤になった。
「お、お二人とも……」
リリアは片手で目元を隠した。
指の間から、二人の様子を少しだけ見ている。
「リリア?」
「私、お邪魔でしたね」
「何の話だ」
「どうぞ、ごゆっくり!」
リリアは目元を隠したまま、来た道を走って戻っていった。
長い金髪とリボンが、背中で大きく揺れている。
クリスは、遠ざかっていくリリアの後ろ姿を見た。
しまった、完全に誤解された。
だが、今はリリアの誤解を解いている場合ではない。
「クリスさん」
「何だ」
「いつまで手を握っているのですか?」
シエラは少し頬を赤らめながら、まだ握られたままの手へ視線を落とした。
「ああ」
クリスは、そこでようやくシエラの両手を放した。
「とりあえず、中へ入りましょう」
「そうだな」
「廊下で話す内容ではなさそうです」
「ああ」
シエラは第三執務室の扉を開いた。
■総騎士団副長府庁舎・第三執務室
シエラの勤務開始までは、まだ少し時間があった。
今日は少し早めに来ていたため、第三執務室には、ほかの職員は来ていない。
シエラとクリスの二人だけだった。
「何か飲みますか?」
シエラが尋ねる。
「飲み物はいい」
「そうですか」
「それより、聞きたいことがある」
「先ほどから、そう仰っていますね」
シエラは自分の席へ向かった。
クリスも、その向かい側に座った。
切迫した表情でシエラを見つめた。
「お前、本当は好きな男がいるんじゃないか?」
シエラの手が止まった。
「好きな男性ですか?」
「ああ」
「それはいますけど……」
シエラは口にしてから、ほんの少し頬を赤らめた。
だが、それも一瞬だった。すぐにいつもの落ち着いた表情へ戻る。
その様子は、どこか覚悟を決めたようにも見えた。
「突然、どうしたのですか?」
「俺と婚約したことを、少し後悔してるんじゃないか?」
「後悔はしていません」
「本当に?」
「はい」
「でも、ほかに気になってる男くらいはいるだろ」
「なぜ、そう思うのですか?」
「いいから教えてくれ」
クリスは机の上に身を乗り出した。
「お前の本当の心が知りたいんだ」
「……」
シエラは、しばらくクリスを見つめた。
クリスの表情は真剣だった。
「好きな人の特徴を答えればよいのですか?」
「ああ。それでいい」
「分かりました」
シエラは少し考えた。
クリスは懐から小さな手帳を取り出した。
「何をしているのですか?」
「忘れないように書く」
「書くのですか?」
「情報は正確な方がいいんだろ」
「それはそうですが」
「まず、その男はどんな奴だ」
シエラは目の前のクリスを見る。
「今は、青い制服を着ています」
「青い制服」
クリスは手帳へ書き込んだ。
「騎士か」
「はい」
「俺と同じだな」
「そうですね」
「ほかには?」
「女性の扱いは、少し下手です」
クリスの手が止まった。
「そこは俺と違うな」
「そうでしょうか」
「俺は女性の扱いには慣れてる」
「本人は、そのように思っているかもしれません」
「なら、かなり俺とは違う」
クリスは手帳へ書き加えた。
青い制服を着た騎士。
女性の扱いが下手。
「情報収集が得意です」
「調査関係の仕事をしてるのか?」
「そうですね」
「なるほど」
「仕事にも熱心です」
「その辺は、少し俺と似てるかもしれないな」
「少しですか?」
「ああ」
「かなり似ていると思います」
「それは言いすぎだろ」
シエラは何か言いたそうにしたが、そのまま続けた。
「意思疎通も得意な方だと思います」
「人付き合いも悪くないのか」
「はい」
「剣の腕もあります」
「騎士なら当然だな」
クリスは次々と手帳へ書き込んでいく。
「私の家業を考えても、その人がいてくださると、とても助かります」
「オリオン社に必要な人材か」
「はい」
「情報収集ができて、人とも話せて、剣も使える」
「そうですね」
「かなり有力な男だな」
クリスは真剣に考え込んだ。
シエラは黙って、目の前のクリスを見ている。
「ほかに特徴はないか?」
「第一執務室にも、よく行っています」
「第一執務室に?」
「はい」
「どのくらいだ」
「ほとんど毎日のように」
「分かった」
クリスは手帳を閉じた。
「分かったのですか?」
「ああ」
青い制服を着た騎士。
女性の扱いが下手。
情報収集が得意。
仕事熱心。
意思疎通も得意。
剣の腕もある。
オリオン社にとっても役に立つ。
第一執務室へ、ほとんど毎日のように来ている。
そこまで条件が揃っていれば、見つけることは難しくない。
「ありがとう、シエラ」
「何が分かったのですか?」
「今から、そいつを探してくる」
「そいつ?」
「お前の好きな男だ」
「待ってください」
シエラは立ち上がった。
「まだ、最後まで話していません」
「十分だ」
「十分ではありません」
「その男を見つけてから、ゆっくり聞く」
「ですから、その人は――」
「行ってくる」
クリスは第三執務室の扉を開けた。
「クリスさん!」
シエラの声が背後から聞こえた。
だが、クリスはそのまま廊下へ飛び出した。
シエラが最後に何を言おうとしたのか、聞かないまま。




