第2章89話 聖騎士
――帝国暦三二二年・春終わり ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領――
■第四大隊本部・大隊長室
「ですが、そうした誓いを守り続け、騎士として模範となる者は、特別な呼ばれ方をすることがあります」
マルクが続けた。
「特別な呼ばれ方ですか?」
「はい。聖騎士、と」
「聖騎士……」
ノーラは、その言葉を小さく繰り返した。
「それは正式な役職なのですか?」
「いいえ」
マルクは首を横に振った。
「騎士として誠実に務め、剣の腕や日頃の行いも含めて、周囲から模範と認められた者に使われる敬称のようなものです」
「では、誰かが任命するわけではないのですね?」
「そうです。明確な資格というわけでもありません」
「今、そう呼ばれている方がいるのですか?」
「副長閣下が、時折そう呼ばれています」
ノーラは目を丸くした。
「副長閣下が?」
「はい」
「副長閣下は、やっぱりすごいのですね」
「そうですね」
「剣も強くて、お仕事もできて、約束も必ず守るのですか?」
「本人から直接聞いたわけではありませんが、十二歳で騎士になってから、一度も約束を違えたことがないそうです」
「十二歳で騎士に?」
ノーラの目が、さらに大きくなった。
「そんなに早くなれるのですか?」
「普通はなれません。副長閣下は、史上最年少で騎士に任じられた方です」
「史上最年少……」
ノーラは驚いたまま、しばらく言葉を失った。
少し離れたところで、クリスは手元の書類を読んでいた。
顔を上げることもない。ただ、紙をめくる手は先ほどから止まったままだった。
「今年で二十二歳ですよね?」
「はい」
「では、十年間、一度も約束を違えていないのですか?」
「そう聞いています」
クリスの視線は書類へ向いたままだった。
十年間。
その言葉だけは、はっきり耳に残った。
「それに、合同剣技大会でも負けたことがないのでしょう?」
「はい。副長閣下は、一度も負けていません」
「十二歳で史上最年少の騎士になって、十年間、約束を違えず、合同剣技大会でも無敗……」
ノーラは、一つずつ確かめるように口にした。
「それで、あの若さで総騎士団副長なんですよね?」
「そうですね」
「二十二歳で?」
「はい」
「……思っていた以上に、すごい方なのですね」
先ほどまでとは、少し声が違っていた。
ただ驚いているのではない。本当に感心しているらしい。
「お仕事も、いつもたくさんされていますよね?」
「そうですね」
「副長閣下のお仕事は、とても多いと聞いています」
「実際、多いでしょうね」
「それでも、きちんと処理されているんですよね?」
「少なくとも、仕事を放り出したという話は聞いたことがありません」
クリスは何も言わず、手元の書類へ視線を落としたまま二人の会話を聞いていた。
仕事を放り出したいとは何度も言っているし、辞めたいとも言っている。それでも、結局レオンはやる。
そこについては、マルクの言っていることは間違っていなかった。
クリスはようやく一枚めくったが、その頁のどこを読んでいたのか、自分でもよく分かっていなかった。
「騎士として誠実で、約束も守って、剣も強くて、合同剣技大会でも無敗。仕事もきちんとしていて、二十二歳で総騎士団副長……」
ノーラは、最後にもう一つ付け加えた。
「それに、リリア様のことも、とても大切にされていますよね?」
「そうですね。妹思いでもあります」
「なるほど……」
ノーラは何度か小さく頷いた。
「本当に立派な方ですね、副長閣下って」
すっかり感心した様子だった。
クリスは何も言わなかった。
ノーラの中で、レオンの評価が話を聞くたびに上がっている。
別に、訂正するところもなかった。どれも間違ってはいない。
「本当に、一度も約束を破っていないのですか?」
ノーラが改めて尋ねた。
「そう聞いています」
「一度も……」
ノーラは感心したまま呟いた。
クリスは手元の書類を見ながら、内心で考える。
やはり、本当なのか。
以前、レオン本人からも聞いた。どうやら周囲にも知られている話らしい。
あいつが約束を破らないことは、そこまで有名なのか。
そして、聖騎士という呼び名も、レオン自身が名乗っているわけではない。
これまでの行いを見てきた周囲が、勝手にそう呼び始めたものらしい。
あいつは、本当に十年間、一度も約束を違えていない。
大きな約束に限らず、普段の約束でさえ、だ。
それを十年間、守り続けている。
クリスは、気づかれないように額の汗を拭った。
それに比べて、自分が口にしたのは。
――騎士に二言はない。
その言葉で、結婚すると約束してしまった。
レオンが普通の約束でさえ破っていないのに、自分だけ、勘違いだったから撤回する。
そんなことが簡単に許されるとは思えなかった。
「ところで、マルクさん」
「はい」
「ヴァイス家って、お金持ちですよね?」
急に話が変わった。
マルクがノーラを見る。
「それは、そうでしょう」
「やっぱりそうなんですか?」
「ヴァイス家は、騎士団領の騎士家の中でも名門中の名門ですから」
「そんなに?」
「ええ。副長閣下のお父上も、現在、第九騎士団長を務めている方です」
「お父様も騎士団長……」
ノーラは、また一つ何かを確認するように頷いた。
「本人が総騎士団副長で、お父様も騎士団長。家も名門中の名門で、お金持ち……」
「まあ、そうでしょうね」
「なるほど……」
ノーラは、何やら考えるように小さく頷いた。
先ほどとは、少し違う意味で考え込んでいるようにも見える。
マルクが、その顔を見る。
クリスも書類を見たまま、少しだけ眉を動かした。
騎士の誓いの話から、なぜ家の金の話になったのか。
気にはなったものの、口は挟まなかった。
「ノーラさん」
「はい?」
「何を考えているんですか?」
「何も考えていませんよ」
「そうですか?」
「はい」
ノーラは平然と答えた。
そのまま、今度はマルクを見る。
「では、マルクさんはどうなんですか?」
「僕ですか?」
「はい。将来、騎士団長になれそうですか?」
マルクは少し目を瞬いた。
「……簡単に言いますね」
「そんなに難しいのですか?」
「難しいですよ。上級騎士になるだけでも大変なんです」
「騎士になった方なら、そのまま頑張れば上級騎士になれるのかと思っていました」
「そんな簡単なものではありません。騎士になった者が、誰でも上級騎士まで進めるわけではありませんから」
「では、上級騎士になれるだけでもすごい?」
「十分すごいことだと思います」
「では、その上となると?」
「さらに限られます。そうそうなれるものではありません」
マルクは答えた。
「では、副長閣下って、やっぱりものすごいのですね」
「先ほどから、ずっとそう言っているでしょう」
「十二歳で騎士になったと聞いた時は、早いんだなと思っただけだったので」
「早いなんてものではありませんよ。十七歳で上級騎士になっている時点でも、十分異例です」
「十七歳?」
ノーラが、また驚いた。
「十二歳で騎士になって、十七歳で上級騎士?」
「そうです」
「五年で?」
「そうですね」
「……」
ノーラはしばらく黙った。
「私、少し感覚を間違えていたみたいです」
「やっと分かりましたか」
マルクは少し疲れたように答えた。
ノーラは考え込む。
その視線が、今度はゆっくりとクリスへ向かった。
クリスは気づいたが、顔は上げなかった。
「では、もしかして」
「何だ」
クリスは書類を見たまま答えた。
「クリス大隊長も、すごい方なんですか?」
クリスの手が止まった。
「もしかしてって何だ」
「普段を見ていると、あまりそういう感じがしなかったので」
「お前な」
クリスが顔を上げる。
マルクは少し考えてから答えた。
「クリス大隊長も、いろいろな意味ですごい方ですよ」
「いろいろな意味?」
「そこは深く考えなくていいです」
「気になりますけど」
「気にしなくていいです」
「でも、すごいのですか?」
「はい」
マルクは真面目に頷いた。
「上級騎士まで進める方は、それだけでも十分優秀です。その上で、クリス大隊長は若くして大隊長を任されています」
「そんなに珍しいのですか?」
「珍しいですよ。上級騎士だからといって、全員が大隊長になれるわけではありません。多くの騎士を預かり、指揮する立場ですから。実力だけでなく、経験も必要になります」
「なるほど……」
ノーラは意外そうな目でクリスを見る。
「何だ、その目は」
「いえ……」
ノーラは、しばらくクリスを見つめた。
「クリス大隊長って、本当にすごい方だったんですね」
「今まで何だと思ってたんだ」
「クリス大隊長です」
「それは役職だ」
「でも、普段は普通にクリス大隊長なので」
「意味が分からん」
クリスは呆れたように答えた。
マルクが小さく息を吐く。
「少なくとも、実力がなければ今の立場にはいません」
「そうですよね」
ノーラは改めてクリスを見る。
見る目が、先ほどまでとは少しだけ違っていた。
「剣も強いのですか?」
「強いですよ」
答えたのはマルクだった。
「そうなのですね」
「大隊長ですよ?」
「確かに」
「そこを今納得するんですか」
「普段、剣を振っているところを見る機会がないので」
「それはそうですが」
ノーラは少し考える。
「意外と……」
「意外とは何だ」
クリスが口を挟む。
「褒めていますよ」
「今のどこがだ」
「ちゃんとすごい方なんだなと思っています」
「ちゃんとって言うな」
ノーラは少しだけ笑った。
それから、
「でも、クリス大隊長にはシエラさんがいますし……」
ぽつりと小さく呟いた。
クリスが眉を寄せ、手元のペンも止まった。
「何の話だ?」
「こちらの話です」
「何で今シエラが出てくる」
「気にしないでください」
「気になるだろ」
ノーラは答えず、今度はマルクを見る。
少しだけ値踏みするような間があった。
「マルクさんも、一応キープしておくとして……」
「何をですか?」
マルクが即座に反応した。
ノーラは聞こえなかったような顔で、小さく呟く。
「でも、やっぱり副長閣下が一番かな……」
「……ノーラさん」
「はい?」
マルクが真顔でノーラを見る。
「先ほどから、あなたは何を考えているんですか?」
「何も考えていませんよ」
「絶対に何か考えていますよね?」
「気のせいです」
「副長閣下がお金持ちか確認しましたよね?」
「確認しただけです」
「そのあと、僕が騎士団長になれそうか聞きましたよね?」
「興味があったので」
「クリス大隊長がすごいかも確認しましたよね?」
「それも興味です」
「そして今、僕をキープすると言いましたよね?」
「聞こえていたのですか?」
「聞こえるように言っていたでしょう」
「小声でしたよ」
「聞こえました」
「耳がいいですね」
「騎士ですから」
「便利ですね」
「そういう話ではありません」
マルクは、明らかに警戒した目でノーラを見るが、ノーラは気にした様子もなく、もう一度口を開いた。
クリスは再び書類へ視線を戻していたものの、先ほどから同じ場所にペン先を置いたまま、まったく動いていなかった。
「マルクさん」
「……何ですか?」
「もう一つだけ確認していいですか?」
「今度は何でしょう」
「副長閣下が誰かに、『騎士に二言はない。結婚する』って言ったら、本当に、その人と結婚してくれるんですよね?」
ノーラは少し身を乗り出した。
マルクが黙った。
クリスも一瞬だけノーラを見る。
「……副長閣下なら、必ずするでしょうね」
「たとえ間違いでも」
「やっぱり!」
ノーラが満足そうに頷いた。
「十年間、一度も約束を違えていないんですものね」
「そういうことになりますけど……」
「なるほど」
ノーラは、ひどく納得した顔だった。
クリスは再び書類へ目を落としたが、もう内容はほとんど頭に入っていなかった。
「ノーラさん」
「はい?」
「さっきから怖いですよ」
「何がですか?」
「言っていることも怖いですし、その目も怖いです」
「失礼ですね」
「では、何を考えているのか教えてください」
「何も考えていませんよ」
「その目と微笑みで言われても信用できません」
ノーラはしばらく考えるような顔をした。
「でも、いいことを聞きました」
小さく満足そうに頷いた。
「……」
マルクは、その顔を見た。
少し前まで、自分はただ、騎士の誓いについて説明していただけだった。それなのに、なぜこんなことになっているのか。
「……あなたに、こんなことを教えるんじゃなかった」
「どうしてですか?」
「自分の胸に聞いてください」
「いいお話だったと思いますよ」
「僕は今、非常に後悔しています」
「そうですか?」
「そうです」
ノーラは、まったく気にしていない顔だった。
クリスは二人のやり取りを黙って聞いていた。
ノーラが何を考えているのか、何となく分かった気もするが、今のクリスにとってはどうでもよかった。
それよりも、もっと重要なことがある。
「マルクさんも、約束は絶対に破らないのですか?」
ノーラが、何事もなかったように話を戻した。
「破らないようにしています」
「絶対ではないのですか?」
「自分の都合で破ることはできません。ですが、約束には相手がいます」
「相手?」
クリスの視線が、ほんの少しだけ上がった。
「先ほどの食事の話で考えましょう」
マルクはノーラを見る。
「仮に僕が聖誓約をして、ノーラさんと食事へ行く約束をしたとします」
「はい」
ノーラの返事が、少しだけ早かった。
マルクが一瞬黙る。
「……例え話ですよ」
「分かっています」
「本当に?」
「もちろんです」
「では続けます」
マルクは少し警戒したまま話を戻す。
「ですが、その日にノーラさんの都合が悪くなり、行けなくなったとします」
「はい」
「その場合も、約束を守るために、僕が無理やり連れていくべきでしょうか」
「それは困りますね」
「でも、副長閣下との約束だったら、都合が悪くても行きます」
マルクは一瞬、言葉を失った。
「……何を言ってるんですか」
「でも、副長閣下との約束ですよ?」
「もう僕をこれ以上困らせないでください」
「それは困りましたね」
「困っているのは僕です」
マルクは小さく息を吐いた。
「……話を続けますよ」
「はい」
「相手の意思を無視して約束を守らせることは、誠実とは言えません」
「では、食事へ行かなくても、マルクさんが約束を破ったことにはならないのですか?」
「ノーラさんの方から取りやめたいと言ったのであれば、僕が破ったことにはなりません。相手が約束を解いたからです」
クリスの手が止まった。
今度は、書類を見るふりすら忘れていた。
相手が約束を解く。
「なるほど」
ノーラは納得したように頷く。
「では、今度、私と食事へ行く約束をしてください」
「先ほどの話を聞いていましたか?」
「今の説明で、相手から解けば大丈夫だと分かりました」
「そういう意味で説明したのではありません」
「一度くらいなら、大きな問題にはならないのでしょう?」
「言質を取ろうとしないでください」
「多分、気をつけています」
「多分では困ります」
マルクは真面目な顔で答えた。
もうクリスには、二人の会話がほとんど聞こえていなかった。
相手の方から約束を解いたのであれば、自分が誓いを破ったことにはならない。
なら、シエラの方から婚約を解消すればいい。
シエラが自分を嫌いになり、もう婚約したくないと言えばいい。あるいは、シエラにほかの好きな男ができればいい。
その時に、クリスが無理に婚約を続けさせることはできない。
相手の気持ちを無視して婚約を強制する方が、誠実な騎士の行いではない。
そうなれば、自分は誓いを破らずに済む。
次期社長にならなくていい。
婚約者でいなくてもいい。
オリオン社の後継者として働く必要もない。
以前のような、自由な生活へ戻れる。
そして、まだもっと、いろいろな女性と付き合える。
誰か一人に決める必要もない。
すべてから解放される。
クリスの顔に、少しずつ希望が戻ってきた。
「マルク」
「はい」
ここで初めて、クリスが二人の会話へ口を挟んだ。
「お前は今、非常にいいことを言った」
「そうでしょうか」
「ああ」
クリスはノーラを見る。
「ノーラも、いい質問をした」
「ありがとうございます」
ノーラは嬉しそうに答えた。
「では、食事をご馳走してくださるのですか?」
「それは別の話だ」
「残念です」
クリスは立ち上がった。
「少し出かけてくる」
「どちらへ行かれるのですか?」
マルクが尋ねる。
「第三執務室だ」
「何か確認事項があるのですか?」
「ああ」
クリスは大隊長室の扉へ向かう。
「かなり重要な確認だ」
「午後の予定がありますので、あまり長くは――」
「分かってる」
クリスは扉を開けた。
方法はまだ考えていないが、逃げ道は見つかった。
マルクは、本当にいいことを教えてくれた。
クリスは、久しぶりに希望を胸に抱いた。
その希望を実現するため、シエラのいる第三執務室へ向かって歩き出した。




