第2章88話 騎士に二言はない
――帝国暦三二二年・春終わり ヴェリア帝国 東ロンバルディア騎士団領――
■第四大隊本部・大隊長室
話が一度落ち着いたところで、ノーラがもう一つ思い出したように口を開いた。
「でも、『騎士に二言はない』という言葉もありますよね」
クリスの指が止まった。
「あります」
「それも普通の口約束なのですか?」
「いいえ」
「違うのですか?」
「少し違います」
マルクは迷わず答えた。
「『騎士に二言はない』という言葉は、普通の口約束とは少し違います。ただ、聖誓約そのものでもありません」
「では、別のものなのですか?」
「形式としては別です」
マルクは頷いた。
「ですが、その精神から生まれた言葉です」
「聖誓約の精神から?」
「はい」
「騎士として誠実であること」
「一度口にした約束を、自分の都合で違えないこと」
「そうした考え方を、相手へ示す言葉です」
「では、重いのですね」
「非常に重いです」
マルクは静かに答えた。
「正式な聖誓約そのものではありませんが、それに近いものだと思った方がいいでしょう」
「『騎士に二言はない』と言えば、自分が騎士であることを根拠に、相手へ信用を求めることになります」
「騎士としての誇りを懸けて、この約束を守る」
「そういう意味です」
クリスは黙ったまま、書類へ視線を落としていた。
完全に自分のことだった。
自分はシエラの両親から信用を得るために、その言葉を使った。
騎士である自分を信用しろ。
そういう意味で。
「騎士に二言はない」
はっきり、そう言ってしまった。
そして、シエラの両親はその言葉を信用した。
「では、『騎士に二言はない』と言った約束を破ったら、どうなるのですか?」
ノーラが尋ねる。
クリスの指が止まった。
顔は上げないが、完全に聞き耳を立てていた。
「それだけで、直ちに騎士資格を失うわけではありません」
マルクが答える。
クリスの表情が、ほんの少し明るくなった。
「騎士資格はなくならないのですか?」
「はい」
「では、大丈夫なのですか?」
「大丈夫なわけがありません」
マルクは即座に答えた。
クリスの表情が止まる。
「資格が残ることと、騎士として信用され続けることは別です」
「自分が騎士であることを根拠に相手から信用を得て、その約束を自分の都合で違えるわけですから」
「ほかの騎士からも、よくは思われません」
「そこまでですか?」
「当然です」
マルクの声は静かだった。
「その言葉が信用されるのは、これまで多くの騎士たちがその言葉を守り続けてきたからです」
「一人の騎士が、自分の都合でそれを軽々しく破る」
「それは、自分だけの信用を傷つける行為ではありません」
「騎士全体が積み重ねてきた信用を傷つけます」
「だから、ほかの騎士も許さない?」
「はい」
クリスは黙ったまま、書類へ視線を落としていた。
自分の都合で撤回する。
そんなことが、簡単に許されるとは思えなかった。
「資格が残っていても、騎士として働くのは難しくなるのですか?」
ノーラが尋ねる。
「そうなる可能性はあります」
マルクは答えた。
「ロンバルディアの騎士にとって、誠実であることは大きな誇りです」
「嘘をつかず、口にした約束を必ず守る」
「その姿勢を、これまで多くの騎士たちが守り続けてきました」
「だから、一般の方々も僕たちを騎士様と呼び、尊敬してくださいます」
「その尊敬と信用は、今いる僕たちだけで築いたものではありません」
「これまでの騎士たちが積み重ねてきたものです」
「その信用を自分から損なえば、資格が残っていても、騎士として認めてもらえなくなることはあるでしょう」
「資格はあるのに?」
「はい」
「約束を破る騎士だと知られた者に、誰が命を預けるのでしょうか」
「誰が、その者の言葉を信用するのでしょうか」
「部下を率いる立場なら、なおさらです」
クリスの額に、冷たい汗が浮かぶ。
「では、周囲に知られたら、もう騎士として働くのは難しいのですね」
「はい」
「部下だけでなく、友人からも信用されなくなるのですか?」
「当然だと思います」
「その騎士だけの問題では済みません」
「両親や親戚まで、約束を違えた騎士を出した家だと言われる可能性があります」
ノーラの表情が少し曇った。
「そこまで重いものなのですね」
「はい」
「過去に、実際に破った方もいるのですか?」
「いたそうです」
マルクは少し声を落とした。
「相手へ誓ったことを違えてしまい、その相手の前で自ら喉を突いて命を絶った騎士がいたと聞いています」
「え……」
ノーラの顔から笑みが消えた。
「やっぱり、いたのか……」
クリスが小さく呟いた。
ノーラが驚いて振り返る。
「クリス大隊長?」
「何でもない」
「今、やっぱりと……」
「何でもないと言ってるだろ」
クリスは手元の書類へ視線を戻した。
やはり、皆が言っていたことは本当だった。
最初に聞いたのは、シエラの父親からだった。
その後、エリシアにも。
騎士の誓いは、それほどまでに重いものだと言われた。
少しくらい大げさなのではないかと思っていたが、どうやら本当に大げさでも何でもなかったらしい。
「その方は、なぜそこまでしたのですか?」
ノーラがマルクへ尋ねる。
「誓いを違えたことを、相手へ謝罪するためでもあったのでしょう」
「ですが、それだけではなかったそうです」
「それだけでは?」
「はい」
マルクは少し間を置いた。
「相手の目の前で自ら命を絶ち、その責任を取ることで、最後に騎士としての名誉を取り戻そうとしたそうです」
「……」
「誓いを違えた事実そのものは消せません」
「それでも、自ら命をもって責任を取れば、最後には騎士として認めてもらえる」
「そう考えたのでしょう」
「だからといって、命まで絶たなくてもよいのではありませんか?」
「僕も、そう思います」
「ですが、それほど重いものだということです」
ノーラは少し黙った。
それから、恐る恐る尋ねる。
「マルクさんなら、どうするのですか?」
マルクはすぐには答えなかった。
「僕も、騎士として重大な約束を違えれば、もうここでは生きていけないと思います」
「自害するのですか?」
「そうするしかなくなるかもしれません」
あまりにも静かな返答だった。
ノーラは言葉を失う。
「僕は東ロンバルディアで生まれて、ここで育ちました」
「この土地の騎士として生きる道しか知りません」
「約束を違え、騎士として信用されなくなれば、部下からも、友人からも、周囲の人々からも信用されなくなります」
「ここで生きられなくなっても、ほかの土地へ行って別の人生を始められるとは到底思いません」
マルクは淡々と続ける。
「それに、僕だけの問題ではありません」
「両親や親戚にも、約束を違えた騎士の身内だという目が向けられます」
「僕がそのまま生き続ければ、家族も長く責められるでしょう」
「ですが、自ら責任を取れば、少なくとも最後には騎士だったと認めてもらえるかもしれません」
「そうなれば、両親や親戚まで責められ続けずに済む可能性があります」
「……」
ノーラは何も言えなかった。
マルクは真剣な顔でノーラを見る。
「ですから、簡単に僕へ約束をさせようとしないでください」
「分かりました」
ノーラは一度頷く。
「多分ですけど」
「……」
マルクは、やはり何も答えなかった。
クリスは黙ったまま、額に浮かんだ汗を拭った。
知らなかった。
騎士の誓いが、これほど重いものだとは思っていなかった。
これまで、何かを信用してもらいたい時に、何度か使ってきた。
「騎士に二言はない」
そう言えば、大抵の者は話を聞いてくれた。
信用もしてくれた。
便利な言葉だと思っていた。
だが。
便利だから信用されたわけではない。
これまでの騎士たちが、その言葉を守り続けてきたから信用されたのだ。
自分は、その信用を借りていた。
食事の約束とは違う。
自分は、はっきりと言った。
騎士に二言はない、と。
しかも、相手から信用を得るため、騎士である自分を根拠に口にしてしまった。
一度くらいなら大丈夫だという話は、自分には何の助けにもならなかった。




